赤ちゃんの先天的な病気を知るため、出生前検診(NIPT)を受ける人が増えている。もし、病気が見つかったら、どうすればいいのか。
毎日新聞取材班『出生前検査を考えたら読む本』(新潮社)から、検査で「陽性」の結果を受け、中絶を決意した麻衣さん(仮名・当時35歳)のケースを一部抜粋・再編集してお届けする――。
■「一度話を聞いてもらえませんか」
自宅に帰った麻衣さんが夕飯の準備をしていると、携帯電話が鳴った。
「医科大の藤田です」
麻衣さんは驚いた。相手は、大学病院の医師である藤田太輔科長(産科・生殖医学科)だった。昼間に、麻衣さんを診察した医師の上司にあたる。麻衣さんの事情を把握して、すぐに連絡してきたようだった。
「中絶を決めたら決めたでいいですが、一度話を聞いてもらえませんか」
藤田医師はゆっくりとした口調で願い出た。NIPTの結果は未確定で、間違っている可能性があることも説明した。
「そこまで先生が言うのなら」
麻衣さんは再診のため、大学病院に行くことを約束した。
麻衣さんがこの日に至るまでの経緯【ギャラリーで図表をみる】
藤田医師は電話をかける直前に、麻衣さんを診察した女性医師から報告を受けていた。麻衣さんがNIPTを受けたクリニックは、日本医学会の認証を受けていない無認証施設だったこと。しかも、陽性と判定されたのも、学会の指針で認められていない検査項目だったこと。

「これはちゃんとせなあかん」
問題があるケースと考えて、自ら担当することにした。学会の指針で認められていない項目では、検査の精度(結果がどのくらい正しいのか)が十分に検証されていない。本来は陰性なのに、誤って陽性と出る「偽陽性」の可能性が高いと考えたからだ。
麻衣さんの診察は3日後だ。藤田医師は急ピッチで準備を始めた。
■「偽陽性」の疑いがある
麻衣さんが受けたNIPTの結果は「8番染色体部分重複の疑い」。23対ある染色体のうち8番目の染色体で、一部分が重複しているという変化だった。
臨床遺伝専門医という資格も持つ藤田医師は文献を調べつつ、他の専門家にも相談した。すると、もし重複範囲が少しずれているなら、まったく違う意味をもつことがわかった。
藤田医師の解説はこうだ。
クリニックの書面に記載されている重複部分は「8p23.2-p23.1」だ。染色体は、領域ごとに番号がついており、この場合は「ハチ・ピー・ニ・サン・テン・ニ・ピー・ニ・サン・テン・イチ」と読む。
つまり、8番染色体の8p23.2という領域と、隣の8p23.1という領域を指す。
このうち8p23.1領域の重複は、「8p23.1重複症候群」という珍しい疾患の原因となる。知的な面でも、身体的な面でも「極めて多様な」症状が出る可能性がある。
一方で、8p23.2領域のみの重複は、日本人に一定頻度で見つかるもので、さまざまな症状や病気が出ないと考えられているという。実際に、藤田医師が相談した専門家自身も、同じタイプの重複をもっていた。
藤田医師は、麻衣さんの胎児の染色体変異は、8p23.2領域のみの重複の可能性があると考えた。それを検証するには、確定的な結果が得られる「羊水検査」が必要だった。
■羊水検査に進みたくない理由
5月10日、麻衣さんは直樹さん(夫)とともに大学病院を訪れた。鞄の中に入れていたメモには黒のボールペンで、
「偽陽性(陰性)である確率は1~2割くらい?」

「どう影響が出るのか生まれてみないとわからないという結果になるのでは?」
と、藤田医師に聞きたいことを書き連ねていた。
診察室では、藤田医師が笑顔で迎え入れた。NIPTの結果は間違っているかもしれないし、もし染色体の重複があるとしても少しずれていれば特段の症状が出ない可能性があることを説明した。そして、
「確定的検査に進む必要があります。
羊水検査を受けませんか」
と勧めた。
横にいる直樹さんは、麻衣さんの顔を見た。その目が「羊水検査を受けようか」と訴えているようだった。麻衣さんはそれを遮るように言った。
「丁寧に説明してくださって、よくわかりました。でも、賭けに出るようなことに進むのは怖いです」
麻衣さんは頑な態度とは裏腹に、迷っていた。この直前まで、「出産をあきらめる」という結論を変えるつもりはなかった。藤田医師の説明を聞いて、羊水検査を受けた方が良いのでは、と心は揺れ動いた。
その一方で、羊水検査を受けても、再び陽性になる可能性が高いのでは、とも想像していた。
■モニターに映った6センチの命
藤田医師は「これはらちがあかんな」と思い、打開策を練った。
麻衣さんは、「8p23.1重複症候群」について解説するウェブサイトを自宅で印刷した紙を手にしていた。そこには生後、子どもの体に出る可能性があるさまざまな症状が、列記されていた。

藤田医師はその紙を見て、思いついた。
「赤ちゃんを見せてください」
麻衣さんと直樹さんを内診室へ案内し、エコー検査を始めた。
「指は5本あるよ」

「両腕もある」

「心臓はちゃんと(左右の)部屋が分かれている」
藤田医師はモニター画面を見ながら、胎児の体の部位ごとにじっくりと説明していった。
藤田医師の狙いは、麻衣さんの不安材料を一つずつ潰すことだった。麻衣さんは、持参した「8p23.1重複症候群」の解説をよく読み込んでおり、発症する可能性のある症状が強く頭に焼き付いている。藤田医師はそれを逆手に取り、この解説に書いてある身体的な特徴が胎児にはないことを、画像を一緒に見ながら確認したのだ。
■麻衣さんの決断
麻衣さんは、
「まだ妊娠初期なのにここまでわかるんですね」
と驚きながら、モニター画面に見入った。高精細な3D画像には、6センチほどに育った胎児がくっきりと映し出されている。3日前の検査では直視できなかった、我が子の姿だった。
麻衣さんはようやく気持ちが落ち着いてきた。
藤田医師はエコー検査を1時間くらい続けた。麻衣さんは最終的に藤田医師の提案を受け入れ、羊水検査へ進むことを決心した。

翌日、麻衣さんは大学病院の看護師に送ったメールに、気持ちの変化を綴った。
「昨日はありがとうございました。
NIPTで陽性結果が5月1日に出てから、夜眠れなかったり、中期中絶のことを想像してしまったりと不安な日々でした。けれど、藤田先生にしっかりエコーで診ていただき、関連文献等お話しいただいてだいぶ気持ちが楽になりました。
もちろん不安が全て消えたわけではありませんが、羊水検査とその結果が出るまで悪いことばかり考えないように、前向きに過ごしたいと思います。
昨日は診察後帰りに遅めのランチをしたのですが、久しぶりにご飯の味を楽しめた気がします。」
■妊娠も、検査も、まわりには言えなかった
麻衣さんは6月7日に大学病院で羊水検査を受けた。
針をお腹に刺し、子宮内の羊水を採取する。その羊水に含まれている胎児由来の細胞から、染色体の変化を調べる仕組みだ。そして、両親からの遺伝の可能性もあるため、麻衣さんと直樹さんの血液も採取して、染色体の構造を調べることになった。
結果が出るまで数週間かかる。麻衣さんには、ものすごく長く感じられた。
子どもを寝かしつけた後、考え込むことがしばしばあった。

「結果について考えてもしょうがないのに、ついついよくないことばかり思い浮かべてしまう。子どもたちの世話と、目の前の仕事のことだけを考えるようにしよう」
子どもたちには、まだ妊娠していることを伝えずにいた。万が一のことを考えて、羊水検査の結果が出るまでは、と控えていたのだ。
それでも、子どもたちは母親の変化に敏感だった。
「ママ、お腹が大きいよ」
膨らんできたお腹は隠しきれない。麻衣さんは笑いながら、
「食べ過ぎたわー」
とごまかした。内心は、気が気でなかった。
麻衣さんはNIPTの結果が出た後も、今まで通り通勤していた。自分では、以前と変わりなく業務に励んでいるつもりだった。
ある時、上司に声をかけられた。
「ずっと暗い顔をしているね」
麻衣さんは、はっとした。表情や言葉に、つらい心情がにじみ出ていたのだろうか。
病院で羊水検査を受けるために仕事を休む際には、「ちょっと調べることがあって」とごまかし、詳しい説明を避けた。これ以上、周囲に心配をかけたくはなかったし、NIPTを受けたと明かすことにためらいがあった。
■検査から3週間後…
6月29日、麻衣さんは大学病院で、羊水検査の結果を伝えられた。検査結果の報告書には、こんな記載があった。
「親由来の8p23.2領域の重複が認められました」

「表現型異常の原因にはならないと考えられ、通常当施設においては報告対象外となる」
専門用語が並んで難解だが、こういうことを意味する。
4月に麻衣さんがクリニックで受けたNIPTの結果は、「8p23.2-p23.1」という領域の重複の可能性を示していた。今回、精度の高い羊水検査で調べ直した結果は、8p23.2領域のみの重複で、特段の症状が出ないタイプの変化だった。つまり、NIPTの結果は、実際とは染色体の重複範囲がずれていたことになる。
この重複は父親からの遺伝だった。病院で採取した直樹さんの血液からDNAを解析した結果、胎児と同じ8p23.2領域の重複が見つかったのだ。つまり、この重複があっても、直樹さんと同じように特段の症状が出ないだろうという安心材料になる。
解析を担った検査会社では、この重複が検査で見つかったとしても、特段の症状の原因にならないと考えられるため、通常は検査を受けた人へ伝えていない。
「やっぱりご両親からでしたね」
藤田医師の予想通りの結果だった。
「良かったです」
麻衣さんは、顔をほころばせた。
この時、NIPTの結果が出てから、既に2カ月近く経っている。麻衣さんはここまでの長い時間を振り返ると、純粋に喜びきれず、複雑な気持ちだった。
「ここまで時間をかけて検査しないと、前向きになれないのか」
11月、帝王切開で出産した。3400グラムの元気な男の子だった。
■出産後に決意したこと
2022年5月、記者は麻衣さんの自宅を訪ねた。次男の湊君は生後5カ月になり、離乳食におかゆを与えると、きれいに平らげるという。ほっぺたはぷっくりとして健康そのものだ。
記者が1年前の5月7日のことを尋ねると、麻衣さんは詰まりながらも、言葉を振り絞った。
「この日のことをすごく覚えていて、羊水検査をして『大丈夫』となった後もすごい思い出すんですよね。私あのとき、あんなことをしようとしていたんだな……って。すごい思い出して。何度も思い出して……」
麻衣さんは目を真っ赤にはらし、涙をこぼした。一度は我が子に対して下した決断に罪悪感を覚えている。トラウマ体験のように心に残り、思い出す度に複雑な感情が渦巻いていた。
「もう妊娠したくない」。
麻衣さんは湊君を出産した際に、卵管を結紮(けっさつ)する不妊手術を受けた。
自分の行動はどこで間違ったのだろうか、どこで修正すべきだったのだろうか、と自問を重ねたこともある。
「NIPTの結果だけをぽんと渡されて、もうだめだと思って、すべてをシャットダウンしてしまった。詳しい先生にしっかりと診てもらうことが大事なんだと思う。私の場合は、そのおかげで希望が持てたから」
■「羊水検査を受けずに中絶」は拙速なのか
取材で一通り話を聞いた後、ふと疑問に思った。思い出すのも辛い体験を、なぜ身を削る思いで語ってくれたのだろうか。
「実は、この体験をどこかで発信したいと考えていました。今の時代、多くの女性が大学を卒業していますし、仕事をしています。就職してある程度仕事をしてから結婚しようと思うと、どうしても出産は30歳以降になります。私は周りの人と比べて、そんなに結婚が遅かったわけではないけれど、それでも初産が30歳でしたし、3人目の出産では36歳になっていました。出産年齢も上がっているので、妊娠中に安心したくてNIPTを受ける人は、ますます増えると思います。私のような事例があることを、これからNIPTを受けるかもしれない人たちに知ってもらいたいです」
麻衣さんは、直樹さんと共働きで、家事も育児もこなす。家族の将来や子どもの教育を考えながら、家計をやりくりしている。似たような境遇の女性はたくさんいるだろう。
取材を通じて、麻衣さんは論理的に物事を考える力やコミュニケーション能力が高く、インターネットを使った情報収集にも非常に長(た)けていると感じた。
それでもなお、30代後半という比較的高い年齢での出産に不安を覚え、ネットで見つけた検査を利用し、思いがけない「陽性」という言葉に心をかき乱された。
羊水検査を受けずに中絶を希望したことは、拙速な判断のように見えるかもしれないが、大きな不安と動揺の中でこういう落とし穴に陥る可能性は、誰にでもあるのではないだろうか。
そんなことを考えながら、大阪医科薬科大学病院へ向かった。
■正常な胎児を中絶する事例もある
麻衣さんを診察した藤田医師は「1人の命を救えて良かった」と振り返る。
日本医学会の認証を受けていないクリニックの多くは、学会指針が認めていない染色体の微小な重複や欠失まで調べるNIPTを実施しているが、「妊婦のニーズに応えるためだ」と説明するクリニックもある。
藤田医師はこうした検査項目では、本当は陰性なのに誤って陽性と出る偽陽性や、麻衣さんのように実際は特段の症状が出ない染色体の変化が含まれている可能性があると指摘する。
「NIPTで陽性と出ただけで、病気と確定するわけではない。しかし、NIPTの結果に動揺して、羊水検査などの確定的検査を受けずに正常な胎児を中絶する事例が一定数あるのではないでしょうか」
厚生労働省の「NIPT等の出生前検査に関する専門委員会」は、2021年5月に出した報告書で遺伝カウンセリングを重視。出生前検査では結果によっては妊婦らが衝撃を受けることを想定し、医療機関が十分な心理的ケアや支援を行うよう求めている。
藤田医師はこう警鐘を鳴らす。
「NIPTで陽性と出た場合に、確定的検査までフォローしながら、メンタル面でサポートすることが不可欠です。そうしたサポート体制ができていない施設で、NIPTを受けるべきではありません」
記者は2022年、麻衣さんにNIPTを行ったクリニックに取材を申し込み、断られた。このクリニックはその後も日本医学会の認証を受けずに、染色体の微小な重複や欠失を調べるNIPTを提供し続けている。

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毎日新聞取材班
毎日新聞くらし科学環境部の記者らによる取材班。毎日新聞デジタルで「拡大する出生前検査」を連載している。

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