※本稿は、佐々木俊尚『歩くを楽しむ、自然を味わう フラット登山』(かんき出版)の一部を再編集したものです。
■ヒイヒイいうのだけが登山じゃない
「ヒイヒイ言いながら急な登山道を歩いて、なんとか頂上に到達して達成感を味わう」というような固定観念がある。しかしそういう「ヒイヒイ」が本当に登山の本質なのだろうか。
わたしは登山についてのそうしたステレオタイプや嘲笑や古い常識をすべて取り払ったうえで、心地良く楽しい新しい登山のスタイルを提案している。そのメッセージを短く言えば、こういうことである。
「とにかく気軽に、気持ち良く、楽しく歩きたい。登山なんてそれでも十分じゃないか」
だから必ずしも高い山脈に行く必要はない。山頂に立たなくたってかまわない。歩いて気持ち良い道だったら、平原や森の中にもたくさん存在している。都市の郊外にもある。「そんなものは散歩だろう」とマウンティング気味にバカにする人が出てくるだろうが、そんな定義はどうでもいい、とにかく気持ち良く歩きたいのだ!
わたしは、そのような新しい登山を「フラット登山」と名づけている。
フラット登山には、三つの意味がある。
急登(きゅうとう)にヒイヒイ言うのだけが登山じゃない。フラット(平坦)な道も歩いて楽しもう。
自然と向き合える楽しい登山の世界にまで、ヒエラルキーを持ち込みたがる人たちがいる。いわく「冬山のほうが偉い」、いわく「日本百名山をたくさん登ってるほうが偉い」。そういう下らないマウンティングから脱却して、みんながフラット(平等)に登山を楽しもう。
登山を難しく考えすぎるのはやめよう。もちろん遭難対策は忘れてはならないが、もっと気軽に週末日帰りでふらっと気軽に登山を楽しもう。
■フラット登山の最大の魅力
山を登るにあたって、重要な要素のひとつが「混雑度と官能度の組み合わせ」だ。
混雑度というのは、そのコースにどのぐらいの登山者が予測されるのかということ。官能度は、そのコースの魅力の度合いである。
「登山者の数など山の魅力と関係ないだろ?」という声も聞こえてきそうだが、いやいやとんでもない。わたしたちは気持ち良く歩き、美しい自然に没入するために山に歩きに行っているのであって、混雑して渋滞した登山道で見ず知らずのだれかの背中を見に山に行っているのではない。
■山頂を目指さなければいい
登山には、たいてい著名なメインルートがある。例をひとつ挙げてみよう。山梨県の北部に大菩薩嶺という山がある。稜線は開けていて眺めが良く気持ち良く、子どもでも軽々と登れるほどに歩きやすくコースタイムも短く、たいへん人気のある山だ。日本百名山にも入っているので、登山者の数は非常に多い。
この山に登るメインルートは、マイカーか路線バスで山麓のロッヂ長兵衛まで入り、そこから福ちゃん荘という山小屋を経て大菩薩峠まで上がり、頂上を経て唐松尾根をぐるりとまわって福ちゃん荘に戻ってくるというものだ。春から秋にかけての週末となると、このコースは登山者でぎっしりと埋めつくされる。
わたしは大菩薩嶺に登るときは、このルートをちょっとずらす。ロッヂ長兵衛のメインルートの登山口とは別に、ロッジから下っていく登山道がある。このあまり踏まれていない登山道を下ると、大回りして、石丸峠というところを経由した別ルートで大菩薩峠に行くことができるのだ。メインルートが稜線まで標準コースタイム一時間一〇分ほどに対して、こっちのルートは二時間一〇分と一時間余計にかかる。そのかわりにひとけは少なく、美しい森の中をたどって稜線へと向かうことができる。
とはいえ稜線に出て大菩薩峠に至ると、これまでの静かなルートとは一変してものすごい登山者の数に驚かされる。春秋の良いシーズンに大菩薩嶺に行くということ自体が、そもそもあまり良くない選択ではないか。そこでルートを変更するだけでなく、そもそもの山を変更して人の少ない場所に行くという方法もある。
そんなことが可能だろうか?
可能だ。山頂を目指さなければいいのである。
■官能的な山道を歩く
大菩薩嶺という山域だったら、多くの登山者の目的は日本百名山である大菩薩嶺の山頂に立つということにある(とはいえこの山頂は、樹林に囲まれて何の展望もない地点で何も楽しくない)。最初から「山頂に立つ」という目的を放棄してしまえば、ルートのとりかたには無限の可能性が拓けてくるのだ。
もう一度繰り返すが、フラット登山の目的は山頂に立つことではない。官能的な山道を歩くことにあるのだ。
大菩薩嶺で言えば、ロッヂ長兵衛から石丸峠へと大回りし、そこから混雑している大菩薩嶺に向かうのではなく、山頂に背を向けて牛ノ寝通りという長い稜線に足を踏みいれるという選択がある。ゆっくりと東へ下っていく長い尾根道で、歩きやすいうえに人の姿はほとんどない。東に下りきれば、小菅の湯という静かな日帰り温泉があり、奥多摩駅や大月駅などに向かう路線バスも出ている。
この牛ノ寝通りはとても官能度が高く、おまけに混雑度はとても低い。こういう選択肢を探し求めることが、フラット登山の醍醐味なのである。
■交通手段があるかどうか
続いて「交通手段があるかどうか」も大切だ。これはクルマを使うか、鉄道やバスなどの公共交通機関だけを使うかで、ずいぶんと制限条件は変わってくる。
クルマの場合、最大の制限はスタート地点とゴール地点を同じにしなければならないということだ。ただしゴール地点から鉄道やバスでスタート地点に戻れる場合もあるので、その可能性も含めてコースを選定する。強引かつリッチな方法として、ゴール地点でタクシーが呼べそうならタクシーを呼んでしまい、高い料金を払ってスタート地点に戻るというやりかたもある。
東京など都市部からマイカーで行くという人も多いだろうが(特に幼い子どものいる家族の山旅なら、マイカーは必須かもしれない)、わたしはゴールした後に酒を飲みたい派なので、週末の中央道や関越道などの渋滞を東京まで我慢しながらハンドルを握るのはできれば避けたい。クルマを使うときには、目標とするエリアの中核都市まで新幹線や特急で行き、そこからレンタカーやカーシェアを利用するというのを常套手段としている。
■レンタカーは早めに予約を
カーシェアは有人受付がなく、駐車場に停めてあるクルマをスマホアプリやICカードで解錠してすぐに乗ることができる。返却時もガソリンを満タンにする必要がなく、営業所でクルマのチェックなどもないから、素早く下車して駅に向かえる。ただしカーシェアの設置されている駅はかなり限られるし、台数も少ない。
もっと問題なのは、二週間前からしか予約できないことだ(たくさん使ってステージが上がれば、三週間前から予約できる特典はある。また空港近くのステーションは三カ月前から借りられる場合もある)。レンタカーが三カ月前、中には六カ月前から予約できる会社もあることを考えると、二週間前予約はかなり短い。レンタカーは受付や満タン返しが面倒なのでカーシェアにすると決め二週間前に予約しようとしたらすでに満杯。混雑シーズンだと、それからレンタカーにくら替えしようとしてもレンタカーももはや満車、完全に詰んだ――ということにもなりかねない。だからわたしは混雑シーズンや人気の観光地では最初からカーシェアはあきらめ、レンタカーを早めに予約することにしている。
■頼りになるグーグルマップ
公共交通機関の場合には、制限はずっと大きくなる。ゴール地点とスタート地点を同じにする必要はなくなるが、それ以上に非常に難儀するのが、路線バスの停留所などを探し、必要な時間にバスが走っているかどうかを確認することだ。近年は山あいの町や村はどこも過疎化でバスに乗る人が少なくなり、賃金の低いバス運転手の仕事に就いてくれる人も少なくなり、バス路線が廃止されてしまうケースが増えている。「たしか一〇年前に行ったときにはバスがあった」と気楽に構えていると、そんなバスはとっくになくなってしまっていた……ということをわたしは何度も経験した。
登山地図などで「ここから歩こう」とスタート地点を設定したら、そのスタート地点に向かうための公共交通機関をどう調べるか。いちばん手っ取り早いのは、グーグルマップのような地図アプリで経路検索することだ。グーグルマップはとても良くできていて、地方の市町村が運行している小さなコミュニティバスまでちゃんと調べてくれて、何時のバスにどこで乗ってどこで一五分待って別のバスに乗り換えて、といったところまで表示してくれる。
■工夫次第でルートの選択肢は広がる
とはいえ、グーグルマップも万能ではない。集落があり近くにバス停があるようなところなら経路検索が可能だが、日本の国土の七五パーセントは山や丘陵で、六七パーセントは森である。人の住んでいないところが膨大に広がっている。最寄りのバス停や鉄道駅から徒歩一時間を超えるような場所だと、経路検索しても「乗換案内を計算できませんでした」とすげなくグーグルに断られてしまう。
そこで、もう少し人里に近いところにスタート地点を設定し、そこまでの経路をグーグルで検索し直してみて、ということを繰り返して交通機関を調べることになる。山を歩くのに慣れてくると二時間ぐらい歩くのは苦ではなくなるので、スタート地点を人里側に後退させ、なるべく公共交通機関でたどり着ける終点のバス停などから歩くといった工夫が必要になる。ただし全体のコースタイムをあまりに長くするとそれはそれでたいへんだ。だからその日一日に自分がどのぐらい歩けるのかという全体を計算しつつ、スタート地点へのアプローチの距離のバランスをとるといった細かい計算が求められる。
このあたりは面倒は面倒なのだが、実のところわたしはパソコンの前でバス停を探しながら、ああでもないこうでもないと調べているときが案外楽しい。現場に行かずに殺人事件などをあれこれ推理するアームチェア・ディテクティブ(安楽椅子探偵)というミステリー用語があるが、さしずめアームチェア登山というところか。
ここまで、フラット登山のコースをどのように計画するかを説明してきた。「穂高岳に登る」「高尾山に登る」といった一般的な登山とはまったく異なり、登山地図やグーグルマップ、各種のウェブサイトなども駆使して、自由に地図上にルートをつくっていく。アクセス手段まで考えなければならず、組み立てはけっこうたいへんだが、このコースの選定自体が実はたいへん面白い遊びだということが、わかっていただけるのではないかと思う。
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佐々木 俊尚(ささき・としなお)
ジャーナリスト、評論家
毎日新聞社、月刊アスキー編集部などを経て2003年に独立、現在はフリージャーナリストとして活躍。テクノロジーから政治、経済、社会、ライフスタイルにいたるまで幅広く取材・執筆を行う。『レイヤー化する世界』『キュレーションの時代』『Web3とメタバースは人間を自由にするか』など著書多数。総務省情報通信白書編集委員。TOKYO FM放送番組審議委員。情報ネットワーク法学会員。
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(ジャーナリスト、評論家 佐々木 俊尚)