■「お金の目減り」の見えない正体
2025年初夏、私たちの生活にじわじわと襲いかかっているのが「インフレ」です。インフレ――つまり、物価が上がり続けることで、同じ金額でも買えるものが減っていくこと。要するに、お金の価値が目減りしていく現象です。たとえば、10年前には100円で買えていたものが、今は150円。給料や年金が増えなければ、同じ生活水準を維持することはとてもできません。
4月の消費者物価指数(CPI)は前年比3.6%の上昇。しかも5月の日本国内におけるコメの価格高騰は、過去に例を見ない水準に達しています。農林水産省の発表によると、5月5日から11日までの1週間に全国のスーパーで販売されたコメの平均価格は、5キロ当たり4268円(税込)と前週から54円の上昇となり、過去最高値を再び更新しました。体感としてはそれ以上の値上がりを感じている人も多いでしょう。スーパーの食料品、電気代、交通費――あらゆるものの値札が、静かに、しかし確実に上がっています。
こうした物価上昇は現役世代にとっても痛手ですが、もっと深刻なのは「年金生活者」や、これからリタイアを迎える世代です。年金収入はすぐには増えず、固定化されているため、インフレが進めば進むほど「実質的な購買力」が目減りしていくからです。
■株価急落よりインフレのほうが怖ろしい
年金とはいわば、国内経済の写し鏡かもしれません。たとえば4月7日には日経平均株価が3万1000円を割り込み、今年最大の下げ幅を記録しました。ニュースでは「世界的な株安」や「企業年金に打撃」といった見出しも並び、これには多くの人が不安を覚えたことでしょう。
ですが「株価が下がった=すぐに年金が減る」と結びつけてしまうのは早計です。実際には株価の下落よりも、インフレによる“貨幣価値の目減り”のほうが、年金生活にはるかに深刻な影響を与えるのです。
そもそも日経平均株価とは、「日経225」とも呼ばれる225銘柄で構成される指数です。しかしこの数値は、日本経済全体を表しているわけではありません。たとえば、構成銘柄にはユニクロ(ファーストリテイリング)や半導体関連など、値がさ株や輸出企業が多く含まれており、内需とはやや乖離(かいり)しています。「ユニクロの株が下がると日経平均も下がる」とも言われるように、日経平均がたとえ大きく動いても、私たちの日常や賃金、そして年金に即座に直結するわけではありません。
要するに、株価は上下を繰り返す。下がればまた上がる可能性がある。しかし、一度進んだインフレで失われたお金の「価値」は、なかなか元には戻りません。
では、私たちがインフレ時代の年金生活に“本当に備えるべきこと”とはいったい何か? 今回は、株価との関係も注視しながら、それについて考察していきます。
■「預金が減る」のではなく「お金の価値が減る」
日本は年金積立金の一部を運用しており、その運用を担うのがGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)です。2024年末時点での運用資産は約246兆円にのぼります。GPIFは国内外の株式と債券に分散投資をしており、日経平均株価だけに依存するものではありません。つまり、株価が多少下がったからといって、公的年金がすぐに破綻することはないのです。
しかし、インフレは別です。たとえGPIFが運用でプラスを出しても、物価が上がれば、支給される年金の「実質価値」は減ってしまう。まさに“見えない損失”といったところです。
iDeCoや企業型DCなどの「私的年金」は、個人が自ら運用先を選ぶ仕組みになっていますが、そこで注意するべきは「リスク資産である株式に偏った投資」をしていないかどうか。年に3%の運用益が出ていても、インフレが年4%なら、実質的には1%損をしていることになりかねません。また1%の損どころか、元本割れのリスクにも注意が必要です。
株式はリスク資産であり、元本割れの可能性もあります。そのリスクの対価としてリターンが得られるわけです。「この株式ポートフォリオならば年利○%は手堅い」ということを言う人がいますが、お金が必要なときに暴落が起きては身も蓋もありません。
インフレは「預金が減る」のではなく、「お金の価値が減る」ことですから、この感覚を持っているかどうかが、資産防衛の成否を左右するのです。
■インフレ防衛策の3つのポイント
日本人は長らく「デフレ経済」に慣れ親しんできました。物価が上がらない、あるいは下がることすらある時代。しかし、2020年代に入ってからの世界が異なるのは今更言うまでもありません。ロシアのウクライナ侵攻やサプライチェーンの混乱、米国の利上げなどさまざまな要因が重なり、世界的なインフレ時代に突入している状況です。
では、インフレに対してどのように備えるべきか? ポイントは次の3つです。
1 現金だけでなく、インフレ耐性のある資産に分散する
2 運用資産の配分を定期的に見直す
3 「名目」と「実質」の違いを理解する
それぞれ具体的に見ていきましょう。
1つ目は、自己資産を「現金100%」にしないこと。なぜなら、銀行預金だけで資産を保有していると、インフレによって実質価値が減っていくのは前述のとおりです。
■「実質」で見えてくるインフレ下の“落とし穴”
2つ目は、運用資産の見直しです。前述のGPIFの運用方法をヒントに説明しましょう。かつてGPIFは国内債券中心の運用を行っていましたが、現在はリスク分散を重視し、国内債券・外国債券・国内株式・外国株式をそれぞれ25%ずつ保有する「均等分散型」のポートフォリオを基本としています。つまり自己資産も「株式100%」になっていたり、「外国株(特に米国株)」に偏っていたりすると、株価が急落したときに大きな損失を負いかねません。株と債券をバランスよく保有することで、片方の値が下がっても全体への影響を抑えられます。
そして3つ目は、生活費や老後資金は「名目」ではなく「実質」で考える習慣を。これはインフレ時代の資産管理において非常に重要な点です。
たとえば、今年の年金が去年より月5000円増えたとします。これが「名目」上の増加です。しかし、ここで注意しなければならないのが「実質」、つまり物価の変化を考慮した“本当の価値”です。
言いかえれば、「名目が増えても、実質が減っていたら意味がない」ということです。インフレ下ではこの落とし穴に気づかず、「もらえる金額が上がったから大丈夫」と安心してしまうケースも少なくありません。年金だけでなく、給料や貯金、資産運用の成果も「実質」で見る視点を持つことで、将来の生活を守る力がぐっと上がります。
■私たちは“静かに奪われている”
これら3つの対策は、「お金が減る」のではなく、「お金の価値が減る」というインフレの本質を理解したうえで、自分の資産と生活を守る基本になります。株価の急落にはニュース速報が流れますが、インフレによるお金の目減りは、誰も大きく騒ぎません。だからこそ対策が遅れ、公的な手立てもすべて後手に回ってしまうのではないでしょうか。
静かに、しかし確実に、私たちの老後を脅かす“インフレという見えない敵”。それに気づき、備えられる人だけが、安心した未来を手にすることができる。物価異常高騰の今年こそ、自分の財布・生活設計・投資方針を見つめ直すタイミングと言えるかもしれません。
----------
崔 真淑(さい・ますみ)
エコノミスト
2008年に神戸大学経済学部(計量経済学専攻)を卒業。2016年に一橋大学大学院にてMBA in Financeを取得。
----------
(エコノミスト 崔 真淑 構成=池田純子)