部下とじっくり話がしたいとき、最適な場所はどこか。東京大学で上廣共生哲学講座特任研究員を務める堀越耀介さんは「物理的な空間をどうデザインするかによって、対話の良し悪しは決まってしまいます。
※本稿は、堀越耀介『世代と立場を超える 職場の共通言語のつくり方』(クロスメディア・パブリッシング)の一部を再編集したものです。
■良い対話には「環境」が超重要
ここからは、物理的な環境設定やテクニックについても考えていきましょう。実にさまざまな種類や地域の学校や企業での哲学対話を通して学んだこと――それは、物理的な対話の空間をどのようにデザインするかによって、対話がうまくいくかどうかが決まってしまうということでした。
当然のことですが、人間も生物ですから、どんな些細なことであろうと環境の影響を大きく受けることになります。人間同士のコミュニケーションも、空間や状況にかなりの程度で影響を受けています。
言い換えれば、どんなとき、どんなところで実施したとしても、心構えさえしっかりしていれば理想的な対話が成立することは、まずあり得ません。これは、会話や討論であれ、専門家やプロフェッショナル同士の対話であれ、同じことです。
たとえば、対話のためにどのような部屋を用意するか、椅子や机の配置をどうするか、どれくらいの人数・性質の人がそこに集まるか、温度や明るさはどうか、どういうステップで対話を整理していくか――こうしたテクニカルな条件が決定的に成果の質を左右するのです。
次に挙げる条件は、あくまで私が対話のワークショップを開催する際に重視する環境設定です。これはおおよそ「対話」というもの全般に応用可能な条件ですので、ぜひ対話の場づくりの参考にしていただければと思います。
■「部屋」は芸術的な気分になれる場所を選ぼう
まず、対話をする部屋についてです。
学校で言えば、教室、職員室、会議室よりも、体育館、音楽室、美術室、多目的室などが効果的です。普段、日常的に利用していて、あまりポジティブでないイメージやルーティンが染みついているような場所は、そのときのマインドセットや態度を思い起こしがちだからです。
ですから、できれば自由なイメージのある空間、もっと言えば芸術的な気分になれる部屋があればよりよいでしょう。
ただ、多くの企業にはこうした空間がありません。その場合、まずはできる限り広い空間を用意するとよいでしょう。空間が狭いと、気分的にも縮こまった気持ちになりやすく、発言が遠慮されがちになります。
また、狭く密閉された空間では些細な雑音に敏感になって気が散ったり、一人ひとりの発話も「その人がいまみんなの前で話している」という現象にスポットライトが当たって目立ってしまい、まるで「スピーチ」をするように際立ってしまったりすることがあります。そうすると、シーンとした部屋でひとりが話すように感じられ、やはり発話を遠慮する人が出てきます。
大きい部屋や、あるいはラウンジのようにオープンな空間であれば、沈黙やひとりの発話が過度に目立つことが少なくなり、場が少し緩やかに感じられることもあるでしょう。もし広い空間が確保できず、狭い部屋を選ぶしかない場合でも、たとえば窓を開けてみるといった簡単な作業によって、こうした状況を打開する一助になると感じます。
■「座り方」は円形がベスト
また、対話をする際には、椅子のレイアウトも重要です。
なぜなら、会議室での椅子のレイアウトは、モニターやホワイトボードが設置されている場所によって「前と後」が明確だったり、出入口の位置によって「上座・下座」のような場所が、視覚的に明らかになったりしがちです。
なぜ、そのことが問題なのでしょうか。それは、地位やパワーバランスが上の人・下の人を視覚的に明示してしまうだけでなく、実際そのように規定してしまうからです。そうなると、普段の関係性や業務という印象に強烈に結びついた空間を演出することになってしまうだけでなく、誰が「主役」なのか「優先的な権限」を持つのかを暗黙のうちに示しがちです。
ですから、もっとも簡単な提案としては、まず会議室型・スクール形式をやめ、車座・円座にデザインしてみることです。
円形の一番のメリットは、「偉い人が特権的に座る位置がない」という点にあります。少なくとも形式上は誰もが対等であること、それを視覚的・身体的に確認できることの効果は決して少なくありません。
■「自分も参加している」という感覚が大切
ここからもう1つ言えることは、円形の効果を最もよく発揮するためには、なるべくきれいな円形、真円をつくることが重要だということです。なぜなら、歪なかたちの円、たとえば少しでも誰かがはみ出している円は、それ自体で力や関係の不均衡を示してしまうことがあるからです。
実際、「ちょっと入りづらいな」「ここには参加しにくいな」と感じている人は、無意識に円からはみ出したところに椅子を配置してしまっていることがよくあります。ですから、できる限り綺麗な円にしていくこと、そして、人と人の間が離れすぎないことを心がけてみてください。
もとより、「物理的な距離は心の距離」などと言うつもりなどは毛頭ありません。しかし不思議なことに、対話がグッと深まっていくとき(これは、発話がたくさんあって盛り上がるという意味ではありません)、全員の意識が円の中心に集まっていくときには、「膝を突き合わせて」という慣用句が文字通りのものになることもしばしばです。
実際に文字通り膝が突き合うほどに近寄る必要はありませんが、できる限り狭い円を心掛けるとよいと思います。それによって「自分も参加している」「自分がその一部である」という実感が強くなるためです。
■「人数」は最大10名程度まで
その意味では、人数設定も重要でしょう。対話は10名程度の人数に絞ったほうがよいように感じます。
なぜなら、人数が多すぎれば「自分がそこにいる意味がある」「参加している」という感覚が薄れ、むしろ埋もれてしまう感覚に陥り、逆に人数が少なすぎれば、対話が煮詰まってしまったり、一人ひとりの存在が目立ちすぎてしまい、相互に委縮したり、話しにくくなったりする印象があるからです。
もちろん、このような人数設定・円座にしたところで、上司・部下の関係、経験や地位によるパワーバランスの差が消失するわけでは決してありません。
しかし、こうした身体的・物理的な環境を整える効果は想像以上に大きく、できる限りフラットな場にしていこうという主催者の、そして参加者の思いが物理的に表現されることがとても重要です。
■机は置かない、姿勢は崩れてもいい
さて、ここまで、身体的な距離や形式の話をしましたが、同じような理由で対話において、机はないほうがよいことを指摘しておきましょう。
机があると、視線はどうしても特定の角度に、たとえば顔の高さや上半身に落ち着きがちです。しかし、これだと互いを直接まなざし合うことに疲れてしまう、緊張してしまうこともしばしばです。
机がないと、たとえば視線を床に落としたり、何もない空間に視線を漂わせたりすることができます。こうしたひとつの「遊び」「余地・余白」を持たせるということが、開かれた対話を構築していくことに貢献するでしょう。
同様に「座り方」も、実は重要な要素になってきます。しっかりと姿勢を正して座ると、私たちはつい緊張したり、「常識的に正しいこと」を言おうとしたりしてしまいがちです。
こうした気持ちから離れてもらうため、私は必ず哲学対話の際にあえて「姿勢を悪くして座って、世界に対して斜に構えてください」と言うようにしています。
これは半分冗談なので、そこで実際に姿勢を崩して座ってもらうかどうかは、あまり重要ではありません。こうした姿勢で参加してもらうこと、そのために身体が緊張していないかどうかを確かめておくことが重要なのです。
このような仕方で椅子だけをおいて車座で人と人が向き合うことは、日常的にあまりない光景かもしれません。非日常的な空間を視覚的・物理的につくりだすことは、普段とは異なる心構えで参加してもらいやすくするための重要な工夫となるでしょう。
■「明るさ」にもこだわろう
部屋の設定で言えば「明るさ」も、ひとつの指標になりえます。
真っ暗な空間で対話する必要はありませんが、いわゆるオフィスビルのように照明がギラギラとしていて、互いの顔が煌々と見える空間は、どこか人を攻撃的な心情に駆り立てることがあります。
より自然な光が入るような場所や窓の開けられる部屋にすることで、落ち着いた雰囲気をつくり出すことも非常に有効です。
やや極端ですが、対話が始まったらロウソクを立て、それを円の中心に置くことで、他の人を直視しなくても済むようになる目の置き所をつくったり、ロウソクが点いたりしている時間を「対話の時間(非日常的な時間)」として意識させるという効果があります。
■服装はできるだけゆるやかなものを選ぶ
最後に、「服装」にも言及したいと思います。対話をする際には、できるだけゆるやかな服装、威圧的でない服装をするとよいという話です。
ビジネスパーソンである以上、「社会通念上しっかりとした服装」をすることが求められるシーンが少なくありません。しかし、服装とは特定の役割や地位、職務を表すためのわかりやすい手段として利用されることも事実です。
特定の仕事における制服やスーツ、作業着でさえも、その仕事における権威や専門性を示すための「シグナル」にほかなりません。ですから、もし特定の職業の制服を見て、「カッコいい」「立派だな」と思うことがあるとすれば、すでにその術式にハマっているのです。その制服を着ている人自体は、本来「その人自身」でしかないはずなのに、特定の「役割」と見なしてもらうことに成功しているからです。
その人の役割や能力が、直接目に触れることは多くありません(たとえば、警察官が銃を発砲することや、医者が救急処置で医療行為をおこなうなど)。しかし、いざその能力を発揮するという際、それをよりよく行使しやすくするために(たとえば野次馬にどいてもらうなど)、それを象徴する権威が必要になるのです。それが、私たちが何気なく選んでいる「服」の機能的な側面だと言えるでしょう。
■見た目や服装で人を判断するからこそ力を入れない
これは特殊な技能を持つ職業に限らず、サービス業に携わるビジネスパーソンの着るスーツ、ワイシャツ、スラックスでさえ、同じような機能を持っています。
営業職であれば、まだ関係性ができていない人に信用してもらうための「シグナル」として、役職者であれば社内の人に向けて「リーダーシップのある人」として認識してもらうための記号として機能するわけです。服をまとうことは、ただカッコいいとか、ただしっかりとした服装をしているといった、あいまいな印象以上のれっきとした「行為」だと言えるでしょう。
これは私たちが、あまりにも人間を一面的にしか見ていないということの裏返しでもあります。見た目や服装で人を判断するからこそ、次のような服装がシグナルとして機能してしまうのです。
しかし、常にすでに何らかの両面性、矛盾する2つの特性、つまり「アンビバレンツ(※相反する感情や態度を同時に持つこと)」を抱えているのが人間という存在です。
■一人ひとりの個人は「役割そのもの」ではない
たとえば、あなたの上司について考えてみましょう。あまりにも当然ですが、その人は「上司そのもの」「上司それ自体」ではありません。しかし「その上司の人」を「上司」という役割としてみなすのは、あえてその人の一部の側面しか「見ないようにしている」ことと同義です。
言うまでもないことですが、その上司の方自身もまた、社内では誰かの「部下」であり、家に帰れば誰かの母であり、また誰かの子でもあり、散歩をする普通の人間です。しかし、もちろんその人は「母そのもの(母だけの役割を持つ存在)」でも、「子そのもの(子だけの役割を持つ存在)」でもありません。
つまり、その人は「社会的・個人的役割の総体」でもあるわけです。ただし、その「総体」と「その人自身」もまた異なる存在です。なぜなら、一人ひとりの個人は「役割そのもの」ではないからです。その人が持っている役割をいくら足し合わせたところで、その人自身にはならないでしょう。
このことが認識できなくなると、コミュニケーションにも問題が生じます。たとえば、「上司であり部下である人」かつ「母であり子である人」に対して、ただ「上司としてのみ」接する、ただ「母としてのみ」接するということがあるとすれば、その人の「一側面」としか接していないことになります。それどころか、その人のことを勝手に決めつけて見ていることになるでしょう。
■「服=社会的コード」を外すことで、相手を尊重できる
サルトルという哲学者は、「地獄とは他者のことである」と喝破しました。他人とは、私のことをその人の限られた視点や認識から固定化して、「この人はこういう人だ」と決めつける存在だからです。
この際、「私」は他者から一方的に規定されて対象化、客体化されているわけです。言い換えるなら、記号化され、役割化されていると言ってもいいでしょう。
しかし、私という存在は本来流動的であり、ときに矛盾した2つの役割や性質を持っています。それが、その都度の状況や環境に応じて、その場に「たまたま」特定の性質として現れているにすぎません。
たとえば、「チーム内の人間関係」で悩んでいるように見える部下は、実は家庭の事情を抱えていて「働き方」のことで悩んでいるのかもしれません。しかし、その人を1つの役割、つまり「チームメンバー」としてしか見なければ、問題が解決することはありません。
自分自身についても、同じことが言えるのではないでしょうか。つまり、自分自身とは何かと問われても、自分の役割を並べ立てて、「これのすべてを足すと自分になります」とは答えません。
かといって、なかなか他の言葉で説明することも困難なわけです。これとまったく同じことが、他人のなかでも起きていると想定できないとすれば、それはむしろ不自然なことではないでしょうか。服という社会的なコードを外すことが、役割を超えた相手自身を尊重することになるのです。
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堀越 耀介(ほりこし・ようすけ)
東京大学UTCP上廣共生哲学講座特任研究員
1991年生まれ、東京都出身。東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。学術的な知見と、5000人以上に対する対話のファシリテーションの経験を融合させ、企業が課題解決や価値創造に取り組む活動を支援している。NECソリューションイノベータ株式会社、三井不動産株式会社、株式会社SBI新生銀行、株式会社LegalOn Technologiesをはじめとする40社以上の企業に対して、「哲学」と「対話」によって組織の潜在能力を最大限に引き出すコンサルティングを実施。株式会社ShiruBeでコンサルタント/上席研究員を務め、株式会社電通と研修プログラムの共同開発をおこなうなど、活動の場を広げている。著書に『哲学はこう使う――問題解決に効く哲学思考「超」入門』(実業之日本社)。『Forbes JAPAN』をはじめ、各メディアでも幅広く活躍する。
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(東京大学UTCP上廣共生哲学講座特任研究員 堀越 耀介)
会議室よりもおすすめな環境はこちらです」という――。
※本稿は、堀越耀介『世代と立場を超える 職場の共通言語のつくり方』(クロスメディア・パブリッシング)の一部を再編集したものです。
■良い対話には「環境」が超重要
ここからは、物理的な環境設定やテクニックについても考えていきましょう。実にさまざまな種類や地域の学校や企業での哲学対話を通して学んだこと――それは、物理的な対話の空間をどのようにデザインするかによって、対話がうまくいくかどうかが決まってしまうということでした。
当然のことですが、人間も生物ですから、どんな些細なことであろうと環境の影響を大きく受けることになります。人間同士のコミュニケーションも、空間や状況にかなりの程度で影響を受けています。
言い換えれば、どんなとき、どんなところで実施したとしても、心構えさえしっかりしていれば理想的な対話が成立することは、まずあり得ません。これは、会話や討論であれ、専門家やプロフェッショナル同士の対話であれ、同じことです。
たとえば、対話のためにどのような部屋を用意するか、椅子や机の配置をどうするか、どれくらいの人数・性質の人がそこに集まるか、温度や明るさはどうか、どういうステップで対話を整理していくか――こうしたテクニカルな条件が決定的に成果の質を左右するのです。
次に挙げる条件は、あくまで私が対話のワークショップを開催する際に重視する環境設定です。これはおおよそ「対話」というもの全般に応用可能な条件ですので、ぜひ対話の場づくりの参考にしていただければと思います。
■「部屋」は芸術的な気分になれる場所を選ぼう
まず、対話をする部屋についてです。
日常的なルーティンのなかで使っていない場所であることと、一定の広さのある場所が、対話の空間として望ましいと感じます。
学校で言えば、教室、職員室、会議室よりも、体育館、音楽室、美術室、多目的室などが効果的です。普段、日常的に利用していて、あまりポジティブでないイメージやルーティンが染みついているような場所は、そのときのマインドセットや態度を思い起こしがちだからです。
ですから、できれば自由なイメージのある空間、もっと言えば芸術的な気分になれる部屋があればよりよいでしょう。
ただ、多くの企業にはこうした空間がありません。その場合、まずはできる限り広い空間を用意するとよいでしょう。空間が狭いと、気分的にも縮こまった気持ちになりやすく、発言が遠慮されがちになります。
また、狭く密閉された空間では些細な雑音に敏感になって気が散ったり、一人ひとりの発話も「その人がいまみんなの前で話している」という現象にスポットライトが当たって目立ってしまい、まるで「スピーチ」をするように際立ってしまったりすることがあります。そうすると、シーンとした部屋でひとりが話すように感じられ、やはり発話を遠慮する人が出てきます。
大きい部屋や、あるいはラウンジのようにオープンな空間であれば、沈黙やひとりの発話が過度に目立つことが少なくなり、場が少し緩やかに感じられることもあるでしょう。もし広い空間が確保できず、狭い部屋を選ぶしかない場合でも、たとえば窓を開けてみるといった簡単な作業によって、こうした状況を打開する一助になると感じます。
■「座り方」は円形がベスト
また、対話をする際には、椅子のレイアウトも重要です。
ここでも会議室は、非常に悪い例になります。
なぜなら、会議室での椅子のレイアウトは、モニターやホワイトボードが設置されている場所によって「前と後」が明確だったり、出入口の位置によって「上座・下座」のような場所が、視覚的に明らかになったりしがちです。
なぜ、そのことが問題なのでしょうか。それは、地位やパワーバランスが上の人・下の人を視覚的に明示してしまうだけでなく、実際そのように規定してしまうからです。そうなると、普段の関係性や業務という印象に強烈に結びついた空間を演出することになってしまうだけでなく、誰が「主役」なのか「優先的な権限」を持つのかを暗黙のうちに示しがちです。
ですから、もっとも簡単な提案としては、まず会議室型・スクール形式をやめ、車座・円座にデザインしてみることです。
円形の一番のメリットは、「偉い人が特権的に座る位置がない」という点にあります。少なくとも形式上は誰もが対等であること、それを視覚的・身体的に確認できることの効果は決して少なくありません。
■「自分も参加している」という感覚が大切
ここからもう1つ言えることは、円形の効果を最もよく発揮するためには、なるべくきれいな円形、真円をつくることが重要だということです。なぜなら、歪なかたちの円、たとえば少しでも誰かがはみ出している円は、それ自体で力や関係の不均衡を示してしまうことがあるからです。
実際、「ちょっと入りづらいな」「ここには参加しにくいな」と感じている人は、無意識に円からはみ出したところに椅子を配置してしまっていることがよくあります。ですから、できる限り綺麗な円にしていくこと、そして、人と人の間が離れすぎないことを心がけてみてください。
もとより、「物理的な距離は心の距離」などと言うつもりなどは毛頭ありません。しかし不思議なことに、対話がグッと深まっていくとき(これは、発話がたくさんあって盛り上がるという意味ではありません)、全員の意識が円の中心に集まっていくときには、「膝を突き合わせて」という慣用句が文字通りのものになることもしばしばです。
実際に文字通り膝が突き合うほどに近寄る必要はありませんが、できる限り狭い円を心掛けるとよいと思います。それによって「自分も参加している」「自分がその一部である」という実感が強くなるためです。
■「人数」は最大10名程度まで
その意味では、人数設定も重要でしょう。対話は10名程度の人数に絞ったほうがよいように感じます。
なぜなら、人数が多すぎれば「自分がそこにいる意味がある」「参加している」という感覚が薄れ、むしろ埋もれてしまう感覚に陥り、逆に人数が少なすぎれば、対話が煮詰まってしまったり、一人ひとりの存在が目立ちすぎてしまい、相互に委縮したり、話しにくくなったりする印象があるからです。
もちろん、このような人数設定・円座にしたところで、上司・部下の関係、経験や地位によるパワーバランスの差が消失するわけでは決してありません。
しかし、こうした身体的・物理的な環境を整える効果は想像以上に大きく、できる限りフラットな場にしていこうという主催者の、そして参加者の思いが物理的に表現されることがとても重要です。
■机は置かない、姿勢は崩れてもいい
さて、ここまで、身体的な距離や形式の話をしましたが、同じような理由で対話において、机はないほうがよいことを指摘しておきましょう。
机があると、視線はどうしても特定の角度に、たとえば顔の高さや上半身に落ち着きがちです。しかし、これだと互いを直接まなざし合うことに疲れてしまう、緊張してしまうこともしばしばです。
机がないと、たとえば視線を床に落としたり、何もない空間に視線を漂わせたりすることができます。こうしたひとつの「遊び」「余地・余白」を持たせるということが、開かれた対話を構築していくことに貢献するでしょう。
同様に「座り方」も、実は重要な要素になってきます。しっかりと姿勢を正して座ると、私たちはつい緊張したり、「常識的に正しいこと」を言おうとしたりしてしまいがちです。
こうした気持ちから離れてもらうため、私は必ず哲学対話の際にあえて「姿勢を悪くして座って、世界に対して斜に構えてください」と言うようにしています。
これは半分冗談なので、そこで実際に姿勢を崩して座ってもらうかどうかは、あまり重要ではありません。こうした姿勢で参加してもらうこと、そのために身体が緊張していないかどうかを確かめておくことが重要なのです。
このような仕方で椅子だけをおいて車座で人と人が向き合うことは、日常的にあまりない光景かもしれません。非日常的な空間を視覚的・物理的につくりだすことは、普段とは異なる心構えで参加してもらいやすくするための重要な工夫となるでしょう。
■「明るさ」にもこだわろう
部屋の設定で言えば「明るさ」も、ひとつの指標になりえます。
真っ暗な空間で対話する必要はありませんが、いわゆるオフィスビルのように照明がギラギラとしていて、互いの顔が煌々と見える空間は、どこか人を攻撃的な心情に駆り立てることがあります。
より自然な光が入るような場所や窓の開けられる部屋にすることで、落ち着いた雰囲気をつくり出すことも非常に有効です。
やや極端ですが、対話が始まったらロウソクを立て、それを円の中心に置くことで、他の人を直視しなくても済むようになる目の置き所をつくったり、ロウソクが点いたりしている時間を「対話の時間(非日常的な時間)」として意識させるという効果があります。
■服装はできるだけゆるやかなものを選ぶ
最後に、「服装」にも言及したいと思います。対話をする際には、できるだけゆるやかな服装、威圧的でない服装をするとよいという話です。
ビジネスパーソンである以上、「社会通念上しっかりとした服装」をすることが求められるシーンが少なくありません。しかし、服装とは特定の役割や地位、職務を表すためのわかりやすい手段として利用されることも事実です。
特定の仕事における制服やスーツ、作業着でさえも、その仕事における権威や専門性を示すための「シグナル」にほかなりません。ですから、もし特定の職業の制服を見て、「カッコいい」「立派だな」と思うことがあるとすれば、すでにその術式にハマっているのです。その制服を着ている人自体は、本来「その人自身」でしかないはずなのに、特定の「役割」と見なしてもらうことに成功しているからです。
その人の役割や能力が、直接目に触れることは多くありません(たとえば、警察官が銃を発砲することや、医者が救急処置で医療行為をおこなうなど)。しかし、いざその能力を発揮するという際、それをよりよく行使しやすくするために(たとえば野次馬にどいてもらうなど)、それを象徴する権威が必要になるのです。それが、私たちが何気なく選んでいる「服」の機能的な側面だと言えるでしょう。
■見た目や服装で人を判断するからこそ力を入れない
これは特殊な技能を持つ職業に限らず、サービス業に携わるビジネスパーソンの着るスーツ、ワイシャツ、スラックスでさえ、同じような機能を持っています。
営業職であれば、まだ関係性ができていない人に信用してもらうための「シグナル」として、役職者であれば社内の人に向けて「リーダーシップのある人」として認識してもらうための記号として機能するわけです。服をまとうことは、ただカッコいいとか、ただしっかりとした服装をしているといった、あいまいな印象以上のれっきとした「行為」だと言えるでしょう。
これは私たちが、あまりにも人間を一面的にしか見ていないということの裏返しでもあります。見た目や服装で人を判断するからこそ、次のような服装がシグナルとして機能してしまうのです。
しかし、常にすでに何らかの両面性、矛盾する2つの特性、つまり「アンビバレンツ(※相反する感情や態度を同時に持つこと)」を抱えているのが人間という存在です。
■一人ひとりの個人は「役割そのもの」ではない
たとえば、あなたの上司について考えてみましょう。あまりにも当然ですが、その人は「上司そのもの」「上司それ自体」ではありません。しかし「その上司の人」を「上司」という役割としてみなすのは、あえてその人の一部の側面しか「見ないようにしている」ことと同義です。
言うまでもないことですが、その上司の方自身もまた、社内では誰かの「部下」であり、家に帰れば誰かの母であり、また誰かの子でもあり、散歩をする普通の人間です。しかし、もちろんその人は「母そのもの(母だけの役割を持つ存在)」でも、「子そのもの(子だけの役割を持つ存在)」でもありません。
つまり、その人は「社会的・個人的役割の総体」でもあるわけです。ただし、その「総体」と「その人自身」もまた異なる存在です。なぜなら、一人ひとりの個人は「役割そのもの」ではないからです。その人が持っている役割をいくら足し合わせたところで、その人自身にはならないでしょう。
このことが認識できなくなると、コミュニケーションにも問題が生じます。たとえば、「上司であり部下である人」かつ「母であり子である人」に対して、ただ「上司としてのみ」接する、ただ「母としてのみ」接するということがあるとすれば、その人の「一側面」としか接していないことになります。それどころか、その人のことを勝手に決めつけて見ていることになるでしょう。
■「服=社会的コード」を外すことで、相手を尊重できる
サルトルという哲学者は、「地獄とは他者のことである」と喝破しました。他人とは、私のことをその人の限られた視点や認識から固定化して、「この人はこういう人だ」と決めつける存在だからです。
この際、「私」は他者から一方的に規定されて対象化、客体化されているわけです。言い換えるなら、記号化され、役割化されていると言ってもいいでしょう。
しかし、私という存在は本来流動的であり、ときに矛盾した2つの役割や性質を持っています。それが、その都度の状況や環境に応じて、その場に「たまたま」特定の性質として現れているにすぎません。
たとえば、「チーム内の人間関係」で悩んでいるように見える部下は、実は家庭の事情を抱えていて「働き方」のことで悩んでいるのかもしれません。しかし、その人を1つの役割、つまり「チームメンバー」としてしか見なければ、問題が解決することはありません。
自分自身についても、同じことが言えるのではないでしょうか。つまり、自分自身とは何かと問われても、自分の役割を並べ立てて、「これのすべてを足すと自分になります」とは答えません。
かといって、なかなか他の言葉で説明することも困難なわけです。これとまったく同じことが、他人のなかでも起きていると想定できないとすれば、それはむしろ不自然なことではないでしょうか。服という社会的なコードを外すことが、役割を超えた相手自身を尊重することになるのです。
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堀越 耀介(ほりこし・ようすけ)
東京大学UTCP上廣共生哲学講座特任研究員
1991年生まれ、東京都出身。東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。学術的な知見と、5000人以上に対する対話のファシリテーションの経験を融合させ、企業が課題解決や価値創造に取り組む活動を支援している。NECソリューションイノベータ株式会社、三井不動産株式会社、株式会社SBI新生銀行、株式会社LegalOn Technologiesをはじめとする40社以上の企業に対して、「哲学」と「対話」によって組織の潜在能力を最大限に引き出すコンサルティングを実施。株式会社ShiruBeでコンサルタント/上席研究員を務め、株式会社電通と研修プログラムの共同開発をおこなうなど、活動の場を広げている。著書に『哲学はこう使う――問題解決に効く哲学思考「超」入門』(実業之日本社)。『Forbes JAPAN』をはじめ、各メディアでも幅広く活躍する。
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(東京大学UTCP上廣共生哲学講座特任研究員 堀越 耀介)
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