どこででも働け、生活できる時代に人はなぜ上京するのか。元号が令和になってから上京した人にその理由を尋ねるシリーズ「令和の上京」。
第6回は、青森県の寺に生まれ、僧侶になることが決まっていた村松清玄さん(32)。実家の寺を飛び出して、東京へやって来たワケとは――。(取材・構成=ノンフィクションライター・山川徹)

(取材日:2025年4月15日)
■生まれた時から「実家の寺」に内定
これでいいのかな。このまま大人に、お坊さんに、なっていいのかな。そんな迷いが、上京の動機でした。上京したのは、2020年10月。27歳だったので、すでに大人だったんですけどね(苦笑)。
光明山高雲寺。青森県五戸町にある曹洞宗の寺院が、私の実家です。父が25代目で、追放されない限りは私が26代目の住職になる予定です。長男なので、生まれたときから、内定をいただいていて――。これは、学生時代から、私の鉄板ネタなんですよ。


地元の五戸町は、新聞に〈典型的な過疎の町〉と書かれたことがあるくらい過疎化が進んでいます。20年前は人口2万人を超えていましたが、いまは1万5000人弱。地場産業は、米と長芋、ごぼうの生産くらい。私の実家の檀家さんも農家の方が多かったのですが、高齢化が進んで離農する人が増えました。
■お坊さんになるのが私の道だと思っていた
お坊さんになって、お寺を継ぐ。その選択に疑問を持ったことはありませんでした。小学生が中学生になるように、お坊さんになるのが私の道なんだろうと自然に受け止めていたんです。
住職とは、文字通りお寺に住む職業です。お坊さんになったら、お寺を離れるのが難しくなる。いましかできないことをやってみようと東北大学を卒業したあと、皿洗いのアルバイトで資金を貯め、8カ月ほど海外を旅しました。
帰国後の2016年3月、予定通り頭を剃って永平寺に“上山”しました。福井県永平寺町にある大本山永平寺には、日本中の曹洞宗寺院の子弟が集まって修行します。

ただ、修行中に、地方のお寺のあり方について、これからのお坊さんはどうあるべきか……そんな話をした記憶は正直、ありません。特に1年目はそれどころじゃないんです。
■過酷な曹洞宗の修行内容
修行のルーティンは、毎朝3時から4時くらいに起きて、座禅を1時間組んだあと、さらに1時間、朝のお経を唱えます。私はいつもウトウトして怒られていましたけど。
曹洞宗には生きるすべてが修行だという教えがあります。だから、食べることも、トイレで排泄することもすべて修行。朝は、座禅を組んで唱え言をしながら、1杯のお粥を1時間くらいかけてゆっくりゆっくり食べます。その後、本堂の雑巾がけをして、各部署に分かれて仕事をします。私は永平寺への問い合わせ対応をしていました。
昼も同じようにお経を唱えて、昼食を食べてから、業務に戻り、夕食を食べて、夜に40分2セットの座禅を組んで、10時に就寝という流れです。
いかにご飯を食べるか。修行中はそればかり考えていました。
食事の量が少ないわけじゃないんですけど、娑婆ではふつうに肉や魚を腹一杯食べていたわけでしょう。それなのに修行中は、朝はお粥1杯に、梅干しか、ごま塩、たくあんだけ。
昼はご飯に一汁一菜。夜はおかずが2つに増えます。おかずといっても、肉や魚はもちろん、卵やニンニクなどもダメで、豆腐や野菜のおひたし、厚揚げの味噌炒め、キノコの天ぷら、唐揚げっぽくした麩とか……。
1日、2日なら大したことないんですが、それが1カ月、半年、1年と続くと精神的な飢えに悩まされるんです。精神的な飢えが続くと、すべての欲が食に収斂していく。そんな境地に至りました(笑)。
■4と9の付く日のカレーだけが楽しみだった
唯一残った食欲を満たしてくれたのが、4と9の付く日の夕食に出るカレー。ただし肉もタマネギも入っていません。具材はがんもどきや豆腐で、特別なものは入っていません。だけどそれがホントにおいしかった。
口に入れた瞬間、頭がとろけるかと思うほどで。こんな美味しい物が世の中にあるのか、と。修行中の数少ない楽しみでした。
山を下りたのは、上山から3年2カ月後の2019年5月4日です。修行中は好きな物を好きなだけ食べたいと楽しみだったのですが、なんでも食べられる感激は一瞬だけでした。すぐに馴れちゃうんですね。
■実家の寺ではスマホをいじるだけの毎日
このままでいいのか。そんな満たされない思いに苛まれるようになったのは、実家に戻ってしばらく経ってからです。
山を下りた直後は、燃えていたんですよ。修行で得たことを発揮して、檀家さんのために、五戸のためにがんばって、いいお坊さんになろうって。
しかし、いつしか自分は、いてもいなくてもいい存在だと感じるようになっていました。
実家での私の役割は、住職の父のサポート。
あくまでも檀家さんが頼りにするのは住職の父で、私ではなかった。それも修行だと考えられればよかったのかもしれませんが……。
しかもコロナ禍がそんな状況に拍車をかけました。葬儀や法事が縮小されました。本当なら、檀家さんとお話しして、その家や地域の歴史を知って、信頼を得るべきだったのでしょうが、その機会も奪われました。お寺に引きこもるしかなくなってしまったんです。
当時の私は「俺はスマホをいじるために生まれてきたのか」と感じるくらい腐っていました。スマホでヤフーニュースを見る以外は、境内の草取りくらいしかやることがない。永平寺の修行なんて意味がなかったな、努力したつもりだったのにな、と落ち込みました。いつまで経っても檀家さんに、一人前として見てもらえないんじゃないかと思い詰めてしまって……。
■もっと人生経験を積んで、広い視野を持たなければ
自分の無力さを痛感したのは、お坊さんとして、五戸の、もっと言えば、地方で暮らす人たちが抱える現実を垣間見たことも大きかった気がします。
昔は、おじいさんが亡くなったら、息子さんがお寺にやってきてお葬式を挙げて、お布施を包んでいただいて、お墓に納骨して、その後法事を執り行って、とトントンと滞りなく進んでいったんです。

でも、令和のいまは、息子さんやご家族が地元を離れていて、孤独死する方も大勢います。亡くなったあとに親族でお墓を建てるかどうかで議論になったこともありました。コミュニティが崩壊しつつあり、将来、私が住職になったときにお寺に何割のお墓が残っているのか、無縁墓ばかりになっているんじゃないか。そんな危機感を覚えました。
何よりも人が亡くなる前後は、よくも悪くもその人や家族の問題があらわになります。借金や介護の問題、家族の確執……。そんな現実に直面して、もっと人生経験を積んで、広い視野を持たなければ、お坊さんとして多様で複雑な問題に対処できないのではないかと感じたんです。
何か新しい経験をしなければ、と調べていると曹洞宗の宗報で、国内外でボランティア活動を行う公益社団法人シャンティ国際ボランティア会の宗門関係者募集の記事を見つけました。
■日本にいる外国人の悩みを聞いてみると…
シャンティは、曹洞宗の僧侶が立ち上げたボランティア団体です。80年代に行った東南アジアの難民キャンプ支援をきっかけに、いまも海外での教育支援や、国内の災害支援を続けています。修行中、シャンティの職員が行う特別講義を受け、活動の内容は知っていました。
人生経験が積める何かをしたい。それが人のためになるなら、なおよし。そんな感じでダメ元で応募したら、運よく採用してもらえたんです。
親の反応ですか?
父親は私の腐り切った状況を見ていましたし、シャンティの活動を知っていましたから、特に反対はされませんでしたね。
私が東京で大きな影響を受けたことが、2つあります。
ひとつ目が、多様化、国際化する都市の現実に直面したことです。
いま私は、池袋がある豊島区をメインにした外国人支援を担当しています。豊島区は9人に1人くらいが外国人。コロナ禍に豊島区の社会福祉協議会が窓口になり、生活支援のためのお金の貸し付けを行うと、申請者の4割を外国人が占めました。そこで、私たちは豊島区の公共施設や曹洞宗の寺院をお借りして、困窮する外国人向けの食料の配布や、相談会を行ったんです。
人口は中国人がもっとも多かったのですが、相談会にはネパールやミャンマー、ベトナムの方々も大勢いらっしゃいました。はじめは悩みがないと言っていた人でも、じっくり聞くと家族のこと、お金のこと、心のこと、健康のこと……さまざまな不安を抱えていました。とくに多かった相談が、在留資格の問題です。
■外国人にとっても東京は「のっぺらぼうな街」
外国人が日本に暮らすために必要な在留資格は、仕事と紐付いていることが多いです。たとえば、ネパールの人がカレー屋でコックさんとしてたくさん働いています。けれど、コロナ禍でカレー屋が営業できなくなると、仕事だけではなく、在留資格も失ってしまうケースもありました。
外国人と一言で言っても、国籍もキャリアも来日の動機も家族構成も違います。しかしかつては私自身も、外国人を一括りにして、ひとつの記号として受け止めていました。多様さにも複雑さにも気がついていなかったんです。
外国人コミュニティと聞くと、外国人たちがあたかも同胞たちと支え合って日本で生きているイメージを持つ人も多いかもしれません。しかし実際は東京のなかで、同胞とつながれず孤立している外国人はとても多い。同じネパール人でも民族やカーストはさまざまですし、労働者階級かインテリ階級でもコミュニティが違う。
上京前、私はみんなが顔見知りの田舎に比べて、東京は人が多すぎるから逆に人のつながりが薄くなって、ひとりひとりの顔が見えない、のっぺらぼうのような街だという印象を持っていました。それは、外国人にとっても同じだったんです。
■東京で「人とのつながり教の信者」になった
もうひとつの刺激が、支援する側の人たちの情熱です。
シャンティの職員や関係者みんなが、すべての人はみんな平等な存在だと絶対的な確信を持って活動していました。
建前で人間は平等だと語るのは簡単です。しかし実際に行動に移せる人はそうはいません。一緒に活動する弁護士さんにしても、企業の案件を引き受けたほうが収入の面でもいいに決まっています。それなのに、お金のない外国人のサポートを必死に続けている。目の前に困っている人を放っておけない。純粋な気持ちでみんな活動を続けていました。
そんな人たちとの出会いによって、地元に対する私の眼差しが変わりました。
大きかったのが、都市でも、田舎でも、人が生きていく上でもっとも大切なのは人とのつながりだと気づかされたこと。東京での支援活動によって、私は“人とのつながり教の信者”になりました。ただし、東京では人とつながるコストが高い。つまり孤立した人と信頼関係を構築する時間も必要ですし、ときには行政や支援団体の力を借りなければなりません。
一方、田舎では、私を高雲寺の息子として、みんなが認識してくれています。コミュニティは衰退し、人口も減っている反面、みんな顔見知りで、すでにつながりを持っている。人と人のつながりを活かせば、町に活力をもたらす新たな取り組みもできるかもしれませんし、困った人の助けになれるかもしれない。
地域のお寺も、田舎のお坊さんという存在も、希望と可能性に満ちあふれている――そんなふうに捉えられるようになったんです。田舎も捨てたもんじゃない、と。
■東京―青森を往復する生活に
当初は、2、3年くらい東京で社会勉強をして、五戸に戻ろうと考えていました。けれど、いつの間にか4年半も経っていました。家族も高齢になって、お寺の維持も厳しくなってきました。
この6月で東京を引き払って、五戸に戻ります。でも、シャンティの活動にはこれからも関わっていくつもりです。
五戸のお寺から東京駅までは片道3時間半。お寺の仕事をしながら、月に何度か通って、可能な限り外国人支援を続けようと考えています。
東京から地方への移住をIターンやUターンって言いますよね。私の場合は、これからの足場は高雲寺ですが、五戸と東京を行ったり来たりするから、Mターンだな、って思っているんですよ。
プレジデントオンラインでは、「令和の上京」の体験者を募集しています。
本連載は、個々の上京を通して、令和という時代や、東京と地方の格差、社会の変容を浮かび上がらせる目的で取材を続けています。
取材をお受けいただける方は、生年や出身地、ご職業、上京の時期や動機、思い出やエピソードなどを添えて、右のQRコードのアドレスもしくは〈reiwa-jokyo★president.co.jp〉(★を@に変えてください)までお送りください。

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山川 徹(やまかわ・とおる)

ノンフィクションライター

1977年、山形県生まれ。東北学院大学法学部法律学科卒業後、國學院大学二部文学部史学科に編入。大学在学中からフリーライターとして活動。著書に『カルピスをつくった男 三島海雲』(小学館)、『それでも彼女は生きていく 3・11をきっかけにAV女優となった7人の女の子』(双葉社)などがある。『国境を越えたスクラム ラグビー日本代表になった外国人選手たち』(中央公論新社)で第30回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。最新刊に商業捕鯨再起への軌跡を辿った『鯨鯢の鰓にかく』(小学館)。Twitter:@toru52521

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(ノンフィクションライター 山川 徹 取材・構成=ノンフィクションライター・山川徹)
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