江戸時代後期に活躍した大田南畝とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「文筆業で高い名声を持ち、特に狂歌では天明狂歌のスターといえる存在だった。
彼の本職は幕府に使えるエリート官僚で、こちらの評価も高かった」という――。
■好感度抜群の大田南畝とは何者か
蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)は須原屋(里見浩太朗)と連れ立って、自分が出版した『見徳一炊夢(みるがとくいっすいのゆめ)』を激賞てくれた大田南畝(桐谷健太)に会いに行った。南畝の本職は、将軍の行列を警護する「御徒」を務める幕臣(御家人)だが、その住まいはかなり侘しいものだった。NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第20回「寝惚けて候」(5月25日放送)。
しかし、南畝は赤ん坊をあやしながら陽気そのもの。蔦重が「畳が焼けておりますが」と問いかけると、「十年欠かせず陽は上り、十年欠かさず日は暮れた。めでてえこったの太平楽」と返した。
蔦重は、今度は「障子が破れておりますが」というが、南畝は「穴の向こうにゃ富士が見える。穴、穴、穴、穴、あなめでたし」。ふたたび見事に返して、「料簡ひとつでなんでもめでたくなるものよ」と話す。蔦重はそんな南畝がすっかり気に入ってしまった。
耕書堂でなにかを書かないか、と蔦重が勧めると、南畝の返事は「いまなら狂歌」。
「一度覗きに来るか、狂歌の会?」と誘われるのだった。
■教養があるからできる「言葉遊び」
蔦重が義兄の治郎兵衛(中村蒼)と連れ立って狂歌の会に参加すると、「うなぎに寄する恋」という人を食ったようなお題で歌を詠み合っていたが、お題のわりにはまじめな内容だった。会のあとの酒席でも、「四方赤良(よもの あから)」という狂名(狂歌の作者としての号)で参加している南畝は、次のような狂歌を詠んだ。
「あなうなぎ/いづくの山の/いもとせを/さかれて後に/身を焦がすとは」
実際に南畝が詠んだこの歌は、分析するほどに見事である。「あなうなぎ」は「穴にいるうなぎ」と「あな憂」(ああつらい)の掛詞だ。
「いもとせをさかれて」は「妹と背(恋人同士)の仲を裂かれて」という意味がベースにあり、そこに別の意味が掛かる。「山のいも」すなわち「山芋」は、山芋がうなぎに化けるという俗信があることから、うなぎの縁語である。また、「せをさかれて」には「うなぎの背が裂かれて」という意味が掛けられているのは、いうまでもない。
「身を焦がす」は、仲を裂かれた恋人同士が恋に身を焦がす、という意味だが、うなぎの身も焼かれて焦げているわけだ。
酔いつぶれて帰宅した蔦重は、回らない呂律で歌麿(染谷将太)にいうのだった。「狂歌、ありゃ流行る。俺が流行らせるぞぉ!」。

■幼少期から神童と目された
史実における大田南畝と蔦重の出会いも、ほぼ「べらぼう」で描かれたとおりである。
南畝は天明元年(1781)、役者評判記のパロディとして、黄表紙(洒落や滑稽を交えた大人向けの絵入り小説)の評判記である『菊寿草』を刊行。そのなかで、蔦重が出版した朋誠堂喜三二の『見徳一炊夢』に最大級の評価(巻頭の極上上吉)をあたえたため、よろこんだ蔦重が南畝の自宅を訪ねたのだ。それが蔦重との初対面だったと、南畝自身が日記に書き遺している。
以後、1歳年下の蔦重と急速に交流を深めていく南畝は、少年時代から才にあふれていたと伝わる。知識欲が旺盛で、記憶力にすぐれ、幼少期から神童と目されていたという。15歳で江戸六歌仙の1人、内山賀邸に入門して和歌を学び、同時に、借金をしながら国学、漢学、漢詩、狂詩などを学んだ。
賀邸の弟子のなかには唐衣橘洲(本名は小島源之助)や朱楽菅江(本名は山崎景基)がいて、ことに唐衣橘洲の影響を受けて狂歌会に参加するようになったという。
明和4年(1767)、数え19歳にして、すでに最初の狂詩集『寝惚先生文集』を刊行し、大きな評判を勝ちとっている。狂歌が和歌のパロディなのに対し、狂詩は漢詩のパロディである。安永4年(1775)には、内藤新宿の遊里を描いた『甲駅新話』を刊行し、このころから洒落本(遊廓などを舞台にした小説や戯作)の作者としても活躍するようになった。
■大田南畝グループの勢い
南畝の狂歌との出会いは明和6年(1769)、唐衣橘洲(からごろも きっしゅう)が開催した狂歌会に参加したことだったようだ。
このころから四方赤良の狂名を使いはじめている。
狂歌とは、前出の「あなうなぎ」ではじまる歌が典型だが、五七五七七という和歌の形式のなかで、上品な言葉(雅語)はあまり使わない代わりに、掛詞や縁語などはむしろ過剰なほどもちいて、卑俗な内容、滑稽な内容を詠むものだった。狂歌とはこのように、日常とは別人格として戯れるものだったので、狂名がもちいられたのだ。
いわゆる「江戸狂歌」は、こうして唐衣橘洲をはじめ、内山賀邸(うちやま がてい)のもとで和歌を学ぶ武士たちのあいだで起こった。その後、狂歌を詠む人たちは「連」というグループを組織し、自身を中心とした狂歌会を開催するようになった。四方赤良こと南畝のグループは「四方連」と呼ばれた。
ちなみに、四方赤良、唐衣橘洲、朱楽菅江(あけら かんこう)の3人は「天明狂歌三大家」と呼ばれた。なかでも赤良は「高き名の/ひびきは四方に/わき出て/赤良赤良と/子供まで知る」と、狂歌に詠まれたほどだった。子供も知るくらい、赤良の狂歌は評判だったというのである。
■パトロンとの縁が運命を変える
ただし、狂歌とはもともと詠み捨てられるもので、江戸狂歌にしても、当初は狂歌の会の場で読み捨てられるのが原則だった。
だが、狂歌がブームになって狂歌人口が拡大するなかで、状況は次第に変わっていく。天明3年(1783)に唐衣橘洲編の『狂歌若葉集』と四方赤良編の『万載狂歌集』が相次いで出版された。
とくに平安末期の勅撰和歌集『千載和歌集』に倣って、古今の狂歌を内容別に並べた『万載狂歌集』は話題になり、以後、狂歌本は「売れる」ものとみなされ、多くの版元が続々と出版するようになった。そして、ほとんどの狂歌本に赤良こと南畝が関わっている。
『万載狂歌集』が刊行されたころから、南畝は吉原に通うようになり、たいていは幕府勘定組頭の旗本、土山宗次郎とつるんでいた。狂歌会は吉原で開催されることも多かったが、女郎遊びにものめり込んだという。だが、侘しい家に住む御徒の御家人には、吉原で遊ぶ金など捻出できるはずもなく、費用はたいてい土山宗次郎が負担していたようだ。
ブームにあやかって、蔦重は『狂歌才蔵集』などの狂歌集を企画する一方、狂歌会をお膳立てし、そこで詠まれた狂歌をそのまま書籍化する、という方法も生み出した。イベントを仕かけ、それをまるごとパッケージングし、書籍化するのである。こうすれば流行の最先端を短期間で市場に提供できる。蔦重の面目躍如だが、その際、常に主導的な役割を果たしたのが赤良こと大田南畝だった。
■幕府の登用試験に首席で合格
だが、天明6年(1786)8月に10代将軍徳川家治が死去し、直後に田沼意次が失脚すると、田沼派に対する粛清の嵐が吹き荒れる。田沼に対ロシアの政策の必要性を説き、蝦夷地の調査などを主導した土山宗次郎も、500両の横領の疑いがかけられ、天明7年(1787)末には斬首されてしまう。
ということは、南畝が宗次郎とつるんで吉原で遊ぶのにかかった金額も、不正で得られた可能性がある。
実際、南畝は幕府から目をつけられたとされる。折しも、松平定信が主導して、風紀の乱れを厳しく取り締まった寛政の改革がはじまったこともあり、以後、南畝は幕臣としての職務に立ち返り、執筆は細々と続ける程度になった。
ただ、もともと優秀なのだ。寛政4年(1792)には幕府の登用試験に首席で合格し、寛政8年(1796)に支配勘定に出世している。そして、享和元年(1801)に大坂の銅座に赴任すると、南畝の名声を知る人たちの強い要望を受け、蜀山人の名で、細々とではあるが狂歌を再開している。
死去したのは文政6年(1823)で、数え75歳になっていた。一時はにらまれながらも、うまく立ち回った人生だったといえよう。「今までは/人のことだと/思ふたに/俺が死ぬとは/こいつはたまらん」という、人を食ったようでいて、いい得て妙の時世の歌を遺している。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。
ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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