1945年4月、太平洋戦争下の沖縄本島に米軍が上陸し、激しい地上戦が繰り広げられた。死者は軍人と一般人を合わせて20万人を超え、そのうち一家全滅にあった世帯も少なくない。
80年前の沖縄で一体何が起きていたのか。糸満市のガマ(自然壕)を訪ねたジャーナリストの亀井洋志がリポートする――。(前編/全2回)
■沖縄で生まれた「ニュース23」のエンディング曲
6月23日、沖縄は戦後80年目の「慰霊の日」を迎える。毎年6月に入ると、小中学校はじめ沖縄県内各地で歌われる鎮魂歌がある。沖縄の著名な音楽家・歌手の海勢頭豊(うみせどゆたか)(81)さんの代表曲『月桃(げっとう)』である。かつて、テレビのニュース番組「ニュース23」(TBS系)のエンディングテーマに使われたこともあり、全国的にも知られている。この歌はどのように生まれたのか。そのきっかけを手引きにしながら、改めて県民の4人に1人が犠牲になった苛酷な地上戦の実相に迫る。
沖縄戦最後の激戦地となった沖縄本島南部の集落一帯には、いまも空き地があちこちに点在する。敷地内にコンクリートブロックを積み上げてつくられた「祠(ほこら)」があり、中には祭壇が祀られている。沖縄戦で家族全員が亡くなったため、弔う人が途絶え、親族や近隣住民が供養し続けている。こうした「一家全滅の屋敷跡」がいまも残る。
集落を貫く国道では、ひめゆりの塔など南部戦跡を巡る観光バスが行き来するが、その屋敷跡の存在は「本土」ではほとんど知られていない。
■壮絶な戦闘でおよそ2人に1人が命を落とした集落も
沖縄県糸満市の米須(こめす)地区で、地元の人に案内されて屋敷跡を訪ねた。祭壇に置かれた位牌には、全滅した家族4人の名前が刻まれ、香炉や湯飲み茶碗が供えられている。
糸満市全体では当時、6384世帯のうち440世帯が一家全滅に遭っている(『糸満市史 資料編7 戦時資料下巻』)。米須は戦没率が58.4%と、糸満市内で最も高い。全戸数257のうち一家全滅は62戸で、24%にも上る(『米須字誌』)。80年前、この地でどれほど悲惨な出来事が起こったのか。そのことについては後述する。
沖縄全戦没者追悼式典は、摩文仁(まぶに)の丘にある平和祈念公園で行われる。公園内で放射状に広がる慰霊碑「平和の礎(いしじ)」には、沖縄戦などで命を落とした24万人を超える戦没者の名前が刻まれている。慰霊の日に平和の礎を歩くと、花束を手向けて合掌する人々、愛しそうに亡くなった人の名前を指先で撫でる人々の姿であふれる。また、数人のグループで歌う「月桃」の歌声が聞こえてくる。

月桃ゆれて花咲けば 夏のたよりは南風

緑は萌えるうりずんの ふるさとの夏
※うりずんとは、沖縄の雨が大地に降(う)り染む初夏の季語(全歌詞は、「月桃」歌碑の写真を参照)

■一家全滅の屋敷跡を訪ねても、だれも話したがらない
海勢頭さんがこの歌をつくるきっかけとなったのは、日本復帰後10年目に当たる1982年6月初旬のことだ。地元テレビ局・琉球放送(RBC)の慰霊の日の報道特別番組が企画された。海勢頭さんは番組で流す曲作りを依頼され、レポーター役も任され、冒頭の糸満市米須や、国吉、喜屋武(きゃん)などの「一家全滅の屋敷跡」が残る集落を訪ね歩いたという。
沖縄戦当時、1歳半だった海勢頭さんに沖縄戦そのものの記憶はない。取材をしていて胸が痛んだという。当時、現地を訪れた時の心境などについて、海勢頭さんに話を聞いた。
「米須周辺には当時、そういう屋敷跡が多く残っていた。そこで、近所に住むおじいさん、おばあさんに話を聞くんだけど、『戦世(いくさゆー)の話はならん』と言って固く口を閉ざされ取材にならない。番組の企画はとてもいいが、地獄の戦争で九死に一生を得てきた人たちです。当時を思い出して語ってもらおうというのはつらい仕事でした。近くに地元の人たちが避難したガマ(自然壕)があると教えてもらい、その周辺で取材して何とか番組をつくりました」
■非戦の歌というより「学校の唱歌みたい」
屋敷跡は、親族や住人が草を刈ってきれいにされているところもあるが、夏草が生い茂ったままで荒れた土地もあった。
「それがいっそうもの悲しさを漂わせていて、暗く重たい歌にしたら、これはもう誰も歌わない。
歌っても解決にならない。むしろ、沖縄戦の悲劇を乗り越えていける歌をつくらないといけないと思いながら歩いていた。ふと見ると、崩れた石垣から月桃の白い花が顔を覗かせ、風に揺れていた。帰らない主を待つように……。その時に『月桃ゆれて花咲けば』という1番の歌詞がすらすらと浮かんだんです」
月桃はショウガ科の多年草で、4月末から6月にかけて花をつける。沖縄の人たちが自宅の庭などに植えるのは、旧暦の12月8日に月桃の葉で包んだ餅を仏壇に供え、家族の健康を願う行事があるからだ。
「小学生の子どもでも歌えるように、3拍子で明るいメロディーの歌にしたんです。だけど、報道スタッフは『何だ、学校の唱歌みたいじゃないか』とがっかりしていた。そこで、『いや、この歌は10年、20年たったらみんなが歌うようになるから大丈夫』と逆にスタッフを励ましてやったんです(笑)」
■「六月二十三日待たず」で子供たちが泣く
鎮魂歌、非戦の誓いの歌としては明るい楽曲なので、当時の報道スタッフたちは戸惑ったのだろう。海勢頭さんが「復帰から10年しかたっていないし、復帰してよかったのか悪かったのか、判断が付かない時期だった」と言うように、米軍基地はそのまま温存され、米軍人や軍属が起こす事件・事故が頻発し、沖縄の人々は苦しみ続けていた。
「月桃」はすぐにレコードやCDにしたわけではなかった。県内で徐々に広がり、小中学校で歌われるようになっていた。
当時、海勢頭さんは那覇市内で「エル・パピリオン」というライブハウスを経営しており、地元の政治家や財界人、文化人、メディア関係者が集まる社交場となっていた。
「パピリオンには教職員も多く来ていました。それで『月桃』の歌を知って、楽譜を持ち帰り学校で教えるようになった。子どもが歌うから、大人たちも歌うようになった。そうして県民の間に広がっていったんです。当時、教職員から聞いたけど、『(5番の)六月二十三日待たず』のところで子どもたちが泣くというんです。感性は伝わるもので、まちがっていなかったと思いましたね」
■80年前、沖縄で何があったのか
沖縄戦の時、海勢頭さんの生まれ故郷の平安座島(へんざじま)は大きな被害こそ受けなかったが、父親は戦死していた。那覇港から出航して東シナ海のどこかで亡くなったというが、場所はわからない。
「物心がついた時、毎日のように女の人たちが泣いていた。変なところに生まれたものだと思った。戦死公報が届けられるたびに、島の坂道を登っていく葬列を見ました。そのうち父の番が来て、海で拾ってきたサンゴのかけらを骨の代わりに壺に入れて、野辺の送りをした。
その頃になると幼いなりに戦争とは何か、人間とは何か、を考えるようになりました。成長して戦後、子どもたちだけで本島に遊びに行って、北部のやんばるの緑の濃さと、破壊された那覇や南部の景色とがまったくちがうことを知り、焼け野原を見て衝撃を受けました」
ここで、沖縄戦の経過について見ていきたい。特に焦点となるのが、多くの住民を巻き添えにする元凶となった日本軍の南部撤退だ。
沖縄戦を指揮した第32軍司令部壕は、首里市(現・那覇市)の首里城の地下に構築されていた。当初、日本軍は沿岸部で敵を叩く水際作戦を想定していたが、いったん敵を沖縄に無血上陸させ、一日でも長く地上戦闘を続ける持久作戦に変更した。作戦変更の最大の目的は、本土での日米決戦を遅らせるための時間稼ぎである。
■移動できない重傷者は毒殺、自決させられ…
45年4月1日、本島中部に米軍が上陸して地上戦が始まる。米軍は、第32軍司令部がある首里を目指して侵攻した。米軍の猛攻撃に対し、日本軍は首里を死守するために反撃する。嘉数高地(宜野湾市)や前田高地(浦添市)などを中心に一進一退の攻防戦を続けた。
だが、次々と陣地を突破する米軍を何とか食い止めようと、5月4日、日本軍は最後の「総攻撃」を仕掛けるも大敗。翌日には中止せざるを得なかった。
この戦闘だけで日本兵は約5000人が戦死し、多くの民間人も巻き込まれて命を落とした。首里陥落は確実な情勢に追い込まれていったのである。
第32軍司令部壕内では、牛島満司令官や長(ちょう)勇参謀長らをはじめとする首脳たちは、自分たちの「死に場所」をどこにするかで頭を悩ませていた。5月22日、首里決戦案や、南部の摩文仁撤退案などが議論されたが、本土決戦を遅らせるため、牛島司令官は摩文仁撤退を決定する。
第32軍司令部は5月27日、首里を放棄し、摩文仁へと移動を開始した。その日までに周辺の野戦病院壕にいる重傷者や歩けない兵士はその場で毒殺、または自決を強いられたというから、人命軽視も甚だしい。これから彼ら沖縄戦指導者たちの行き着く先には、軍民の区別ない壮絶な死が待ち受けているのだ。
■兵隊についていくと一人、また一人倒れ…
一方で司令部は一般住民に対して、撤退の方針や避難の指示はしていない。米軍は、右往左往する多くの住民を標的にし、海上の戦艦ニューヨーク、重巡洋艦ニューオーリンズなどから長距離の艦砲射撃を加えた。
首里城と沖縄戦』(集英社新書)などの著書がある元琉球大学教授で、沖縄戦研究家の保坂廣志さん(76)が解説する。
「第32軍の兵隊たちや学徒隊員、従軍看護婦たちがぞろぞろと退避していくから、住民たちも付いていったのです。兵隊と一緒にいれば命が助かると思っているからです。米海兵隊は『民間人に偽装した日本兵だから撃て』と戦艦に伝えるのですが、首里から摩文仁へと通じる道沿いに築かれた死体の山には、多くの子どもや女性、お年寄りが折り重なっていました。これは住民虐殺ですから、米軍の行為は国際法違反としか言いようがありません」
那覇や首里(当時は市)、浦添などから避難してきた家族は逃避行の果て、1人欠け、2人欠けして離散していった。
■卒業式を祝う家庭の上空から焼夷弾が降り注いだ
冒頭で記した糸満市米須の集落は旧摩文仁村の中心地で、南北と東西を結ぶ幹線道路が走る交通の要衝だ。摩文仁の丘へ向かう道と、喜屋武岬に向かう道との分岐点でもあり、第32軍の撤退ルートとぴたりと重なる。6月に入ると、戦場から撤退してきた日本兵や、那覇、首里などからの避難民が多数押し寄せ、軍民混在で十数万人もの人々でひしめいた。
それを遡る3月23日、米軍は慶良間諸島や沖縄本島への上陸に先立ち、艦載機で沖縄各地を空襲した。この日、米須では摩文仁国民学校で卒業式が行われ、赤飯を炊いてお祝いをしている家庭もあったという。その日の午後に米須でも空襲があり、焼夷弾が落とされた。24日には米須海岸沖や喜屋武岬沖に米艦隊が出現し、艦砲射撃を開始、25日までに集落のほとんどの家屋は焼失してしまった。
その後は大きな戦闘はなかったが、第32軍が南部に撤退してきたことで状況は一変する。米須周辺は、住民を巻き込みながら激しい戦闘が起きた。6月半ば、米軍は米須に陣地を置いた日本軍を圧倒的な軍事力で敗走させると、壕から壕へと移動しながら抵抗する日本兵の掃討作戦を開始した。
現在、米須小学校(旧摩文仁国民学校)の近くに戦争当時、住民が避難した2つの自然壕があり、それぞれ慰霊碑が建つ。小学校正門の向かいにある「忠霊之塔」と、小学校の北側にある「鎮魂之塔」である。
■逃げ込んだ壕にガソリンを流し、火炎放射器で…
元中学校校長で、沖縄戦の語り部をしている久保田暁(さとる)さん(80)に案内してもらった。忠霊之塔の下には、いまは入り口が塞がってしまったが、アガリン壕という自然壕の空洞が広がっている。
久保田さんがこう説明する。
「『忠霊之塔』は、159人の犠牲者が祀られていますが、158人が米須の住民で、1人が首里からの避難者です。この方以外にも避難者がいただろうし、日本兵もいましたから、実際はもっと犠牲者がいると思います。日本兵は各地の壕からの住民追い出しを行いましたが、ここでは逆に住民は奥へ押し込められました。
米兵が壕の入り口で『デテコイ、デテコイ』と投降を勧告しても、日本兵が入り口近くを固めて呼びかけに応じない。だから、住民は誰も出られません。出ていこうとすれば、日本兵に撃たれます。米兵は壕内にガソリンを流し込み、火炎放射器で攻撃しますから、一気に爆発します。1人だけ若い女性が壕から飛び出して、米兵に救助されました。
この人のお話では、壕の中は黒煙がものすごく、大人や幼児の叫び声が入り乱れて、阿鼻叫喚の地獄だったといいます。米軍はさらに入り口を重機などで塞いだというから、もう逃げようもありません。戦後に遺骨収集した時に、遺骨は真っ黒焦げでした」
アガリン壕では家族全員が死滅した世帯が15あり、最も多い家で9人が亡くなった。
■住民を虐殺したのは米兵だけではなかった
「鎮魂之塔」の隣では、ウムニーガマ(ガマは自然壕のこと)が黒い口を開けている。ここでは28世帯71人が犠牲になった。全滅家族は11世帯だ。やはり、米兵の呼びかけに対し、日本兵が抵抗したため攻撃された。
「こちらはガス弾です。壕の上から爆弾を投げる馬乗り攻撃です。それだけでは生き残る者がいるから、容赦なく火炎放射をかけて全滅を狙ってきます。ここも小学6年生の男の子1人だけが助かります。お母さんはケガをしており、『早く逃げなさい!』と促されて、一人で出ていかざるを得なかったようです」
また、米須の南側にある「魂魄之塔」近くのカミントウ壕では手榴弾による集団自決が次々と起こり、住民58人が亡くっている。
スパイ視されて日本兵に射殺された住民も少なくない。この2つの壕の近くでも、捕虜になったおじいさんが米兵に「忘れ物をしました」と沖縄方言で言ったら、背後から日本兵に射殺されたという。『糸満市史』に掲載された体験談などでも、日本兵が「この壕から出なさい」と命令したので、入り口にいたおばあさんが方言まじりで返事をしたら、軍刀で首を切り落とした。これを見て、弟をおぶっていた小学校3年生の女の子が驚いて逃げる時、銃剣で串刺しにして殺害した。
また、住民らが海岸の岩陰で隠れていた時、子どもを抱っこした女性がいた。その子が「お母さん」と言ったら、日本兵が出てきてその子の手をつかんで海に投げ込んだ、という証言もある。
沖縄戦では日本兵による壕からの住民追い出し、投降阻止、住民虐殺、集団自決(強制死)などが各地で起きている。
■「遅れた民」という関東軍の差別意識
人が人間でなくなるのが戦場であるとはいえ、なぜ、日本兵は沖縄の住民に対し、これほどまでに非道な行為を働いたのか。前出・元琉球大学教授の保坂さんがこう指摘する。
「第32軍が指揮した陸軍第9師団、第24師団、第62師団は、中国東北部に駐留した関東軍からの転戦組です。彼らの中国人に対する見方は、遅れた民という差別意識に支配されていました。日本兵からすれば言葉はわからないし、食生活も粗末だからです。その感覚が沖縄にもそのまま当てはまったのです。司令部壕内で沖縄方言を禁止したことも注目すべきです。沖縄語は敵性語とされ、それを使用する者はスパイとみなし、スパイは殺せと命令した司令部の責任は大変重いのです。負け戦に必ず付きまとう人間の不信感。それが『スパイ』という言葉に収斂(しゅうれん)されていくのです」
西田昌司参院議員は、「ひめゆりの塔」にある沖縄戦で犠牲になった「ひめゆり学徒隊」の説明について、「日本軍がどんどん入ってきてひめゆり隊が死ぬことになり、アメリカが入ってきて沖縄が解放されたという文脈で書いてある」などと発言して批判をあびたが、こうした歴史的事実の一片でも知っていれば、そのような暴言・妄言の類が出る余地などないはずだ。
■語り部として引き継ぐ「母の記憶」
久保田さんはこう話す。
「戦闘後、この辺りはものすごくたくさんの死体が散乱してました。それを米軍がブルドーザーで、壕の中に次々と放り込んでいったそうです。アウシュビッツと同じです。人間のやることではない。米兵も、日本兵も、住民にとってはある意味、みんな敵でした」
久保田さんは沖縄戦の年に生まれた。母・千代子さんは2歳の長男を背負い、0歳だった次男の久保田さんを抱えながら移動している時、長男を亡くしたという。千代子さんが『糸満市史』で沖縄戦の体験談を寄せている。
〈米須の部落に着いてみると、学校近くの壕が野戦病院になっていることがわかり、負傷兵を案内しました。その時、急に激しい爆撃の音が聞こえ、私が背負っている長男の背中にヒューと弾が当たったようでした。一声泣いただけで即死でした。死んだ子を背負ったまま、泣き泣き壕へ兵隊を案内したのでした〉(久保田さんの話から一部訂正。野戦病院はアガリン壕、ウムニーガマとは別の壕=筆者註)
■沖縄戦の本当を、どこまで知っているか
久保田さんがこう続ける。
「赤ん坊が泣くとうるさいからとの理由で、母は壕に入ることを拒否されました。それで結果的に、母と私は生き残ることになったのです。沖縄のお母さんたちは語り尽くせない体験をした人たちばかりですから、話すことじたいつらいし、言葉が出ない。うちの母もそうでした。母も元教員でしたので、学校に連れてきて話をしてもらおうとしても、しばらく言葉が出てきません。けれども、これではいかんということで体験談を語るようになりました。私はいまその思いを引き継いでいるのです」
小中学校で久保田さんが沖縄戦について語る時、ステージには月桃の花が活けられ、子どもたちが海勢頭さんの「月桃」を歌うという。
「やはり、慰霊の日が終わる6月末ごろから、月桃の房状の白い花が落ちます。亡くなった方々の霊に思いを寄せながら、平和への願いも込められている。この歌は沖縄でずーっと歌い継がれていくと思います」
「月桃」が歌い継がれていくように、悲惨な沖縄戦の記憶も次の世代に伝え続けられていくにちがいない。だが、沖縄で語られていることや報じられていることは、「本土」でこそ知られるべきなのである。

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亀井 洋志(かめい・ひろし)

ジャーナリスト

1967年愛知県生まれ。『週刊文春』『週刊朝日』などの専属記者を経て、現在はフリーランス・ジャーナリスト。著書に『どうして私が「犯人」なのか』(宝島社新書)、『司法崩壊』(WAVE出版)など。

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(ジャーナリスト 亀井 洋志)
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