人間は一面では語れない。かつては全国各地の小学校で銅像となっていた二宮尊徳(金次郎)は、その生涯についてあまり知られていない。
ライターの栗下直也さんは「尊徳は現代でいう再建屋だった。彼の思想は渋沢栄一や土光敏夫など現代の名経営者につながっている」という――。
■日本で一番銅像がつくられた男はなぜ消えたのか
薪を背に、開いた本に目を落とす少年像――。日本人の多くが知る二宮尊徳(金次郎)の銅像だ。近年、その二宮尊徳の銅像をほとんど見かけなくなったというニュースを目にした人は多いだろう。
実際、かつては「銅像といえば二宮尊徳」といえるくらいそこら中に立っていたといわれている。といっても、正確なデータはないのだが、戦前はたいていの尋常小学校にあった。全国2万数千校の半分と考えても、石像、陶像、わらじを手にした姿など、材料や格好が違うものを含めて、1万を下らない数の尊徳が立っていたと推計できる。日本で一番たくさん銅像がつくられた偉人は、おそらく二宮尊徳で間違いない。
だが、戦争で取り巻く環境は一変する。戦後、「戦前の象徴」と米国に忖度し取り壊された。残った像も、学校の老朽化や建て替えに伴い、姿を消した。
20世紀末からは耐久性の問題に加え、「戦時教育の名残だ」「子どもの労働は違法だ」「歩きながら本を読んだら目に悪い」、「歩きスマホにつながる」など、ほとんど難癖のような批判も寄せられ、撤去が進んだ。
21世紀になるまでに、ほとんど見かけなくなったと思われがちだが、2010年に神奈川県土地家屋調査士会が県内860余の公立小学校を調べたところ、17%の144校で尊徳像を確認している。十数年前とはいえ、小中学校全体の約2割に像が残っているというのは思いのほか多いのではないだろうか。そして、戦後も撤去されるだけでなく、定期的に寄贈などで新設され、21世紀になってから設置された学校も7校あったという。
■松下幸之助が愛した思想家
撤去されつつも、新しくもつくられる。不思議な現象だが、考えてみれば、二宮尊徳その人が不思議な偉人の一人だろう。名前は知っているが、何をしたかはよくわからない。
その知名度もかつては他の偉人とは比べようもないほど高かった。銅像が全国1万も立っていたのかもしれないのである。戦前や戦後しばらくは総理大臣よりも有名な人でもあったといっても言い過ぎではない。
その影響が強すぎてか、現代でも「薪を背負って本を読んでいる人」以上のイメージがあまりわかない、「B面」だけが知られている偉人ともいえる。
今回は、尊徳がなぜ銅像になったのかも含めてあまり知られていない「A面」について見ていきたい。
尊徳は正確には経営者ではないが、現代でいう「再建屋」であり、松下幸之助が尊徳の書を愛読するなど尊徳の思想はのちの多くの名経営者の底流をなしている。
■二宮尊徳が読んでいた本
二宮尊徳は薪を背負って本を読む銅像が建つくらいだから、かなり苦労した人生を歩んだことは容易に想像できるだろう。実際、壮絶だ。
江戸後期の1787(天明7)年相模国栢山(現、小田原市)に生まれ、14歳で父を、16歳で母を失う。さらに、自分の家の田畑は洪水によって流失し、伯父の家に身を寄せることになる。ここで苦学して一家を再興する。まさに、薪を背負って本を読む日々だったのだ。
ちなみに、尊徳が銅像で読んでいる本は、儒教の経書の一つである『大学』である。幼少時から勉強が好きだった尊徳は薪を取りに山に行く時や帰る時に大声で『大学』を音読していた。近所の村人の中には「あいつ、ちょっとやばい」と陰口をたたく者もいたというが、それもそのはずだ。当時、本を読んでいる農民などツチノコくらいいるかいないかわからない存在だ。だが、この学問への飢えが尊徳を大いに飛躍させる。

1808(文化5)年、生家の再興に成功した尊徳の評を聞きつけた小田原藩士服部家に財政改革を託される。その手腕が再び評判を呼び、独自の農村改良策で疲弊した約600村を再建したという。のちに幕臣となり、日光領の復興にあたっている最中に、70歳で病死する。
■実は身長180センチ、体重90キロ超
具体的にどんなことをしたのか。尊徳は思想家であり、実践家であった。机上の学問で終わらせずに、実践を重視した。村の再建を依頼されると、現地調査を徹底した。領内の一戸一戸を訪ね、時には調査のためだけに数十日滞在したこともあった。
同時にファクトも重視し、対象地域の収穫高や年貢高も100年以上遡って調べる地道さも持ち合わせた。生きた情報とファクトとなる数字を積み重ねて分析し、その土地ごとの再建策を導き出した。
尊徳の再建策は農学書のように杓子定規でもなく、感情論でもなく、説得力があった。誰も反論できなかったという。
徹底的にデータを積み重ねつつも、状況に応じて修正して、再建に導く。今でいう企業の再建屋のようなものだ。
意外かもしれないが、尊徳は銅像のイメージであまり大きくない印象だが、身長六尺(約182センチメートル)、体重25貫(約94キログラム)と当時にしてはかなり大柄だ。
■世界一多くの著述を残した
尊徳は学者と思われがちだが、自身は学者と坊主を忌み嫌っていた。だが、皮肉なことに、晩年の彼の周囲には崇拝者が多く集まり、結果的に彼らが尊徳の言葉を記録に残し、後世に伝えることになるから、不思議である。
そしてその記録が文字通り膨大なのだ。ネット書店でも『二宮尊徳全集』(全36巻)は古書として流通しているが、これが1巻あたり、軽く1000ページを超える。例えば龍溪書舎が1977年に発刊した第36巻は1244ページもある。36巻全てのページ数は調べる気力もないので、仮に1巻あたり1100ページとしても全巻だと4万ページ弱。1日10ページ読んでも、10年以上かかる。尊徳、しゃべりすぎだ。
気になる内容だが、そこは実践家らしく、携わった約600の村の再建策が描かれており、そこに彼の経営哲学も詰まっている。
(さも全集を全部読んだかのように書いているが、もちろん読めていない)
ありがたいことに尊徳には熱心な信者がいたことで、尊徳の思想や行動は運動として受け継がれ、気軽に触れられるようになった。江戸末期になると各地に尊徳の思想に基づいて結成された報徳社が誕生した。この報徳社が明治末年以降の民衆の思想善導の役割を果たすことになる。
余談だが、日光市今市にある報徳文庫には“原本”が2500冊眠っており、外国人研究者からは「世界一大量の著述」との指摘もあるとか。先に述べた、現代に流通している全集は言行録の全てではないのだ。おそろしい。
■なぜ明治以降に銅像になったのか
では、尊徳の思想で受け継がれたものとは何だったのか。その中心は「報徳」だ。人間の長所などの徳を使って社会に役立てることをそう呼んだ。
これを実行するためのキーワードは至誠、勤労、分度、推譲だ。至誠、勤労は文字通りだが、各自が経済力に応じて支出計画をたてることを「分度(ぶんど)」といい、分度生活の結果生ずる余剰を社会に還元することを求め、これを「推譲(すいじょう)」と称した。分度をたてて推譲を図ることによって人は苦境を脱し、一村は再興され、藩もまた立ち直るとしたのである。

明治以降、内村鑑三などがこの考えを絶賛したことや、国力を増強し欧米諸国に追いつかんとする明治政府にとって、勤勉な尊徳は「使える!」と思ったのだろう。
1904年以降、現在の道徳の教科書にあたる修身教科書に孝行、学問、勤勉、精励、節倹など多くの徳を備えた人物として尊徳を登場させた。唱歌の時間に「手本は二宮金次郎」と歌わされ、悪さをすれば「金次郎さんを見習え」と叱られた。私たちが抱く二宮尊徳像はこうして生まれたのである。
■「つくられたスター」として
そして、昭和に入ると、小学校の校庭に孝行、勤勉、節約の象徴として銅像を寄贈する動きが出てくる。ここにおいて、「徳の高い人といえば二宮尊徳」が確立されたのである。今風にいえば、つくられたスターといえるだろう。
ちなみに、薪を背負って歩きながら本を読むあのスタイルは明治の中頃、幸田露伴が書いた子ども向け伝記の口絵が起源とされる。
日本全体が戦争に向かっている時に、近代国家の統一した国民像を作るために尊徳が利用された側面は大きい。尊徳が語ったとされる「孝行」は、上の人に忠実に従う雰囲気を助長するのに使われ、戦争への動員を後押しし、「質素倹約」は「欲しがりません、勝つまでは」の姿勢を国民に植え付けた。政府が尊徳の思想を戦争の道具としたのだ。
実は尊徳像は戦時中から姿を消す。皮肉なことに、戦局が悪化して、兵器に使う金属を確保するため尊徳像は次々に取り壊されたのだ。生徒たちは「(尊徳像の)出征が決まった」と聞かされたという。
■現代日本の経営哲学の源流といわれるワケ
こうした戦前の背景もあり、尊徳の思想は誤解されがちだ。例えば、勤労や倹約は説いているが、尊徳は武士道徳的な金銭蔑視は全くしていない。農地の復興や領主の財政再建に関わっていく中で、むしろカネの重要性を身にしみて感じていた。「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」とまで言っている。
経済的安定なくして、精神的安定も独立もないとの固い信念があったし、行為の対価として報酬をもらうことも当然と考えた。
問題は「対価としての報酬」とはいかなるものかだ。結論から示すと過大な金銭は必要ないという。「一汁一菜」と「木綿着物」さえあれば十分だというのだ。それ以上の財産を持つことは精神を疲労させるだけだと言い切る。
尊徳は人間にとって最大の報酬は心がウキウキするかであり、それは仕事そのものを通じて得られる喜びだとしている。本連載でも紹介した渋沢栄一や土光敏夫など現代の名経営者たちと言っていることは同じである。尊徳が、時に現代日本の経営哲学の源流と呼ばれる由縁である。その流れを特に受けたのが松下幸之助だ。
■二宮尊徳から受け継いだ松下幸之助の思想
幸之助の名言に「道徳は実利に結びつく」がある。幸之助は1966年に自分の考えをまとめた冊子を無償で広く配布したが、その冊子の表紙にもこの言葉が書かれていた。
これは経済的な利益と道徳を不可分のものとする思想だが、原点のひとつに尊徳の「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」の教えがある。それは、幸之助が生前、尊徳の訓話をことあるごとに引用していたことからも明らかだ。
特によく引用したのが、尊徳の言行筆記録『二宮翁夜話』の中の「江戸の水」のくだりだ。
地方出身の若者2人が江戸で水を売っているのを初めて見た。ひとりは「江戸では水すらも買って暮らさないといけないのか」と驚き、ここではやっていけないと、すぐに帰郷した。もうひとりは「江戸は水を売るだけでも商売になるのか」と江戸に残った。
幸之助は、この訓話を引いて、一杯の水を売っている事実は同じでも悲観的に見ると絶望に通じ、楽観的に見ると知恵や才覚がわいてくると、人生に前向きに取り組む姿勢の大切さを強調した。
実際、幸之助は小さいころに奉公に出され、学歴もなく、その上、体も弱かった。だが、後年、成功の理由を「学歴がなかったからや。家が貧しかったからや。体が弱かったからや」と語っている。
学歴がないからこそ、「常識」にとらわれず、「非常識」なアプローチができたのである。学がなく、会社勤めが厳しかったから、起業できた。起業しても、体が弱かったからこそ、早くから権限委譲を進め、革新的な経営システムを構築できた。尊徳の教えもあり、一般的にはハンディキャップとされる要素を、むしろ成功の要因として解釈し直したことで、「経営の神様」は生まれたのである。
■仕事の喜びが人生を豊かにする
尊徳が凄いのはこうした思想を自らの経験から導き出したことである。荒れ地を耕し、苗を植える。多くの人と協力し、人材を育成し、家を村を再建する。無から有の創造に伴ううれしさこそ報酬だと悟ったのだ。
考えてみれば、功名心では600もの村を再建することはできないだろう。ただただこの創造の喜びに突き動かされただけだったのだろう。創造の喜びを報酬とし、必要以上のモノを望まなければ食うに困ることはないという信念が尊徳にはあった。
人間は必要以上のモノを望むから、争いが起き、だまし騙されの醜悪な修羅場が待ち構えているのだと悟っていた。現代でも遺産相続はその典型だろう。そもそも自分で築いた財産でないのに。そんなことよりも、仕事を通じた心の喜びを大事にすることが人生を豊かに楽しくする。
■中国で人気の理由
尊徳は戦後も1946年に発行された一円札の肖像にもなったが、戦前ほどの存在感はなくなっていく。戦前に国が推奨する模範的な人物として利用された過去が長い間、影を落としていたのは間違いないだろう。
だが、前述したように渋沢や土光の経営哲学の源流には尊徳がいるのである。戦後に尊徳の思想や業績が見直され、再び小学校の校庭などに石像が建てられるようになったのもそれとは無縁ではないはずだ。
尊徳の思想は、近年は国内よりも海外で注目されている。2003年には国際二宮尊徳思想学会が設立された。尊徳の思想を研究するための学会で、北京大学の日本文化研究者らが中心となって発足したものだ。2年に一度開催されており、700人近くが参加した会もあり、関心の高さがうかがえる。
なぜ中国で尊徳なのか。それはまさに道徳なき経済がまかり通っているからであろう。GDPのひたすらな成長率追求、人間性の欠如、道徳の崩壊、拝金主義の横行……。今こそ尊徳ということなのだろう。
日本でも道徳なき経済が当たり前の時代になった。尊徳を「薪を背負って本を読んでいる人」で終わらせてはいけない。徹底した現場主義と数字に基づく分析、そして何より「創造の喜び」を原動力とする。AI時代においても、いや、だからこそ、人間の徳を活かし、社会に還元する「報徳」の思想は色褪せることがない。

参考文献

朝日新聞「ひっそり『出征』した金次郎」2015年3月23日夕刊2面

毎日新聞「二宮尊徳の背、平和託す 茨城の研究家『徳役立てる思想、今こそ』」2025年2月17日夕刊7面

----------

栗下 直也(くりした・なおや)

ライター

1980年東京都生まれ。2005年、横浜国立大学大学院博士前期課程修了。専門紙記者を経て、22年に独立。おもな著書に『人生で大切なことは泥酔に学んだ』(左右社)がある。

----------

(ライター 栗下 直也)

編集部おすすめ