■江戸城、大坂城を手掛けた築城の名手
徳川幕府の拠点となった江戸城(東京都千代田区)。その縄張り、すなわち設計図の製作を家康みずから依頼した武将。大坂夏の陣後、大坂城(大阪市中央区)を徳川の手で再築する際にも、2代将軍秀忠が縄張りをまかせ、石垣の高さも堀の規模も秀吉が造った城の2倍にするように指示した武将。それは同一人物である。
天下をとった徳川による城のうちでも、もっとも重要な2つの設計を任されるくらいだから、同じく「築城の名手」といっても並みのレベルではないことがわかる。その武将とは藤堂高虎であった。
高虎は武将の生まれではない。近江国藤堂村(滋賀県甲良町)の土豪の次男で、浅井長政を皮切りに、主君を次々と換えていたが、羽柴秀吉の弟で来年のNHK大河ドラマの主人公である秀長に仕えてから頭角を現した。天正13年(1585)の紀州征伐後に大名となり、秀長の死後は養子の秀保に仕え、朝鮮出兵(文禄の役)には若い秀保の名代として出兵した。
文禄4年(1595)に秀保が早世すると、出家して高野山に隠棲してしまうが、それまでにもすでに和歌山城(和歌山市)、赤木城(三重県熊野市)などを築いていた。
とくに天正17年(1589)、数え34歳のときに築いた赤木城は、総石垣で主郭はほぼ正方形、虎口(城の出入口)は枡形(四角い空間の2辺それぞれに門を、まっすぐ進めないようにずらしてもうけた虎口)で、高虎の城づくりの原点といえる。
■革命を起こしたといえる城
その後、才能を惜しんだ秀吉の命令で還俗し、この年、伊予国板島(愛媛県宇和島市)に7万石をあたえられた。板島城(のちの宇和島城)の築城に取りかかり、五角形で北と西は海に面した縄張りを実現し、また、ふたたび朝鮮に出兵すると(慶長の役)、現地に港を見下ろす順天城を築くなど、築城技術を磨いた。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では東軍に加わり、戦後、伊予半国20万石の大大名に取り立てられてからは、自身の居城に加え、家康らの命による築城を数多く重ねていく。
まず、自身の居城としては、あらたに拠点にするために今治城(愛媛県今治市)を築いたが、これはのちの城の姿を大きく変えるほど革新的な城だった。
海に面した平地に築かれたこの城が画期的だったのは、第一に、縄張りが非常にシンプルなことだった。本丸はほぼ正方形で、そこに3つの曲輪が加わった内郭全体としても正方形に近く、これを幅が50~70メートルもある広大な水堀で囲んだ。さらにその三方を中堀で、その外側も三方を外堀で囲んだ(もう一方は海だった)。
■近世城郭の性格を決定づけた
従来の城のような、小規模な曲輪が複雑に連なり、迷路のような通路で結ばれているのとは構造が大きく異なった。高虎がめざしたのは効率性だった。
それまで平地は軍事的に不利とされたが、前述のように三重の堀で囲み、さらに高い石垣をめぐらせて弱点を補った。このころ石垣の構築技術は、日進月歩で進化しており、今治城は地盤が弱い砂地に築かれたにもかかわらず、石垣の高さは9~13メートルにおよぶ。むろん石垣の上は、隅部は多重櫓、櫓と櫓のあいだは一重の多門櫓や塀で守られていた。
また、内堀の50~70メートルという幅は、弓矢の射程距離は超え、城内からは鉄砲で敵をねらい撃てるという絶妙の距離。加えて、ほとんどの虎口に枡形虎口を採用し、守りやすく攻められにくい構造にした。
このように高い石垣と広い堀、鉄壁の枡形虎口により、防御がしっかり固められれば、城の構造は単純なほうが使いやすい。政庁としても機能的だが、軍事拠点としても多くの兵を駐屯させやすい。この高虎の発想が、その後の近世城郭の性格を決定づけた。
■高虎が家康に気に入られた理由
高虎が今治城に建てたとされる天守も画期的だった。下の階から上の階に向かって床面積を規則的に少しずつ小さくして積み上げる「層塔型」の天守は、今治城にはじまったといわれる。
それまでの天守は、大きな入母屋屋根の建物に望楼を載せた「望楼型」だったが、高虎が考案した層塔型は、下の階から規則的に積み上げるだけの単純構造なので、用材を規格化でき、工期も短くて済み、移築も容易だった。
このため、全国の天守はこれ以後、一転して層塔型が主流になった。名古屋城天守も、江戸城天守も、徳川が再築した大坂城天守もみな層塔型で、その原型が今治城天守だった。
同じ時期、すなわち関ヶ原合戦から大坂夏の陣にかけて、家康は大坂との対戦も視野に入れ、諸大名に自腹での助役を命じる、いわゆる天下普請での築城を重ねた。そして、その縄張りのほとんどを高虎が担当した。
家康の屋敷の作事奉行を務めるように秀長に命じられた高虎は、渡された設計図では警護上問題があるとして、独断で設計を変更し、その費用も自己負担した。それを知った家康は心遣いに感謝し、これを機に高虎との関係を深めていったとされる。
■「正方形」がスタンダードに
慶長6年(1601)の膳所城(滋賀県大津市)を皮切りに、高虎は家康の命による築城に深く関わった。関ヶ原の前哨戦で全焼した伏見城(京都市伏見区)や、冒頭で記した江戸城はもとより、篠山城(兵庫県篠山市)、丹波亀山城(京都府亀岡市)などの縄張りを次々と手がけた。
なかでも篠山城は高虎らしい城だ。ほぼ正方形の本丸を中心に二重の堀で囲まれ、本丸の虎口は枡形で、本丸を取り囲む二の丸の虎口は馬出(虎口の外側に堀を隔ててもうける小さな曲輪)で守られている。
家康が隠居城にした駿府城(静岡市葵区)や、やはり家康が西国を牽制する拠点として威信をかけて築いた名古屋城(名古屋市中区)には、高虎は直接は関わっていない。だが、ほぼ真四角の本丸を三重の堀で取り囲んだ駿府城や、本丸がほぼ正方形の名古屋城は、高虎が築いた今治城や篠山城の影響をかなり強く受けている。
高虎は自身の居城もあらたに手がけた。慶長13年(1608)、今治城周辺の2万石を飛び地として残し、伊賀国(三重県西部)と伊勢国(三重県東部)という要地に転封となり、計22万石の大名になると、伊賀上野城(三重県伊賀市)と津城(三重県津市)を築いた。
■伊賀上野城にある30メートルの高石垣
伊賀上野城は高虎の城であっても、大坂城を包囲する役割を負っていた。
そして、慶長20年(1615)大坂夏の陣を経て、翌年に家康が死去したのちに手がけたのが、二条城の改修と大坂城の事実上の新造だった。二条城は京都市の地図を見てもらえばわかりやすいが、ほぼ正方形の本丸を長方形の二の丸その他が取り囲み、まさに高虎らしい縄張りだ。
一方、大坂城は、夏の陣で灰燼に帰した秀吉の城に、場所によっては10メートル以上の盛り土をし、諸大名による天下普請でまったくあらたに築かれた。石垣の高さは高いところで30メートルを超え、堀も南外堀など深いうえに幅も75メートルにおよび、秀吉の城とは段違いのスケールとなって、高虎の面目躍如だった。
■家康の死の枕元にいた唯一の外様大名
高虎は男性の平均身長が157センチ程度だったとされる時代に、6尺3寸(約190センチ)もあったという。むろん外様大名だが、ここまで記した築城の記録からも、この大男が家康にいかに信頼されていたかがわかるだろう。
実際、家康の死に際して、その枕元にいることを許された唯一の外様大名であった。家康は死を前にして、有事の場合は高虎を一番槍に、井伊直孝を二番槍にするように命じている。それを反映し、藤堂家は井伊家とともに幕末まで転封がなかった。むろん、家康亡きあとは2代将軍秀忠からも厚く信頼された。
そんな高虎の最大の功績は、やはり城をとおして徳川の力を高め、太平の世の礎を築いたことだろう。そして、高虎の築城の名人芸は、いまも今治城や伊賀上野城はもとより、大都市の真ん中に威容を誇る江戸城や大坂城をとおしても偲ぶことができる。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)