ウーロン茶は日本にどのようにして普及したのか。慶応義塾大学教授の岩間一弘さんは「1970年代後半に、テレビや広告の影響で『やせる中国茶』というイメージが定着し普及した。
脂っこくなっていった日本の食事にウーロン茶がマッチした影響も大きい」という――。
※本稿は、岩間一弘『中華料理と日本人』(中公新書)の一部を再編集したものです。
■最初は「紅茶の代用品」として扱われた
ウーロン茶は、日本統治下の台湾を代表する特産物であったが、西洋紅茶の安価な国産代用品として宣伝されたため、台湾や中国の茶という印象があまりなかった。帝国時代を通して、ウーロン茶は日本人になじみ深いものになったが、大都市でたまに飲まれる程度にしか普及していなかった。
さらに第二次世界大戦後、台湾の施政権は日本から中華民国に移り、日本では台湾やその文化への関心が薄れた。ウーロン茶も、一部の台湾料理店で焼ビーフン、豚の腸詰、豚足などと一緒に提供されるくらいになった。横浜のチャイナタウンでも、ほとんどの料理店がジャスミン茶を出し、ウーロン茶は小売りでしか見かけられなかった。
■日中国交正常化で「中国ブーム」
1970年の大阪万博では、日本と国交のなかった中華人民共和国は招待されなかったが、台湾の中華民国が「中華民国館」を出展し、そこで「本場の中国茶」としてウーロン茶を提供した。
その後、1972年に田中角栄首相が中国本土を訪れ、中華人民共和国と国交を正常化すると、中国商品のブームが起きた。田中角栄と周恩来の両総理が「乾杯(カンベイ)」したことで茅台(マオタイ)酒(白酒(バイチュウ)の一種)が一躍有名になり、さらにウーロン茶も贈答品として人気になり、両品の詰め合わせがデパートで販売された。
1979年、伊藤園は中国土産畜産進出口総公司と3年間の代理店契約を結び、真空包装で箱入りのリーフティーのウーロン茶を発売すると、好評で品不足になった。この当時の伊藤園のウーロン茶の新聞広告は、「摘みたてをそのまま福建省から」と宣伝し、ウーロン茶が「日本に本格的に『上陸』したのはほんの最近」としている。

こうしてウーロン茶のおもな輸入元が、台湾から対岸の福建へと変わり、帝国時代にさかんに宣伝されていた台湾ウーロン茶の歴史は忘れ去られた。
■伊藤園社長の「大袈裟な宣伝文句」
日本でウーロン茶が本格的にブームになったきっかけは、1979年にフジテレビの音楽番組「夜のヒットスタジオ」で、国民的アイドル歌手のピンク・レディーなどが「鉄観音茶」を飲んでやせたと話したことであった。このときからウーロン茶は「やせる中国茶」として有名になった。
つまり、ウーロン茶の普及は、ダイエットによいと考えられたことから始まった。当時の伊藤園の社長は、中国の人々を「油ものの食事を大量に取っているのに、ほとんど肥満体がいない民族」と評し、その理由は「ウーロン茶を1日に30杯くらい、ガバガバ飲む」、「まるで水代わり」だからだと述べていた。このように、日本のウーロン茶の販売業者が、中国の実際の飲食習慣とはかけ離れたイメージを宣伝することもあった。
しかし、ウーロン茶がコレステロールを下げる効果は、タンニンやサポニンによるもので、これらは緑茶にも同じくらい含まれている。そのため、緑茶もウーロン茶と同様に健康によいことが知られていった。
さらに農林水産省が、1988年にリーフティーのウーロン茶について、翌年にはウーロン茶飲料について、「ガイドライン」を示した。これらには罰則はなかったが、「やせる」や「健康によい」といった医薬品のような効能をうたった表現が禁止された。
■脂っこくなった日本食にマッチした
それにもかかわらず、ウーロン茶は短いブームに終わらず定着した。その理由としては、1980年当時の日本人1人1日あたりの脂肪分の摂取量が、戦後から1955年頃までの時期と比べると、約2.7倍にも増えていたことがあった。
ハンバーグやチャーハンなどの西洋・中華風の料理の割合が増え、油っこくなっていた日本の食事に、ウーロン茶のすっきりした味がよく合った。
1981年、伊藤園は世界で初めて缶入りのウーロン茶飲料を発売したが、当初は「お茶はただ」という考えが強く、売れ行きがあまりよくなかった。しかし、それはしだいに「お茶は家で急須に入れて飲むもの」という常識をくつがえし、糖分やカロリーをとりたくない消費者に人気となり、コーラやコーヒーのように茶も缶で飲むという新しいライフスタイルを生み出した。
伊藤園に続いて、サントリーが1981年に缶入りのウーロン茶飲料を発売し、85年頃までにトップブランドとしての地位を確立した。さらに、1986年4月にはキリンビールがいち早くペットボトル入りのウーロン茶飲料を発売し、翌月にはサントリーも続いた。
なお、缶入りの緑茶飲料は、変色や異臭が生じやすいために製品化が難しく、ウーロン茶より遅れて1984年に伊藤園が発売したのが世界初であった。
■酒を飲めない人のためのソフトドリンク
ウーロン茶が日本に定着したもう一つの理由は、酒を飲めない下戸のための飲料として重宝されたことである。早くも1925年、芥川龍之介は、滞在中の伊豆・修善寺から弟子の作家・佐佐木茂索に宛てた手紙で、「新曲 修善寺」と題して「酒のまぬ身のウウロン茶、カフェ、コカコラ、チョコレエト」などと記している。
日本の男性中心のビジネス社会では、酒を飲めないのは情けないこととされていた。サラリーマンは無理しても飲酒に付き合う風潮が根強かった。しかし、1985年頃までに、色がウイスキーに似ているウーロン茶を飲むホステスが現れて、それが接待の場での酒の飲みすぎを警戒するサラリーマンにも広がった。
そして1990年代には、日本のビジネス界も「ウーロン茶と言える社会」へと変わっていった。
この頃から、居酒屋で席につくと、酒を飲む人は「とりあえずビール」、酒を飲まない人は「とりあえずウーロン茶」を頼むことが多くなった。
■秋元康が名付けた「ウーロン茶世代」
1990年代初頭、放送作家の秋元康は、当時の若者を「ウーロン茶世代」と名づけた。秋元によれば、ウーロン茶はどうしても飲みたいと思って飲む人がおらず、たいていの人が「まあウーロン茶でいいか」という感じで選んでいるという。
「ウーロン茶世代」の若者は、情報が豊富でモノが簡単に手に入る時代に、あまりこだわりをもたずに何でも選ぶ傾向があるという。こうして無難で万人受けする飲み物になっていたウーロン茶が、世代を表す言葉にもなった。
1990年代には、ウーロン茶がしばしば「国民的ソフトドリンク」や日本の「国民的飲料」などと呼ばれた。ウーロン茶葉の輸入量は、1980年から2001年までの約20年間で6倍以上に増えた。ただし、サントリーウーロン茶の販売量がピークに達した2001年、日本のウーロン茶飲料の市場拡大もピークに達した。同年からは、緑茶飲料の販売量がウーロン茶飲料を上回るようになった。
21世紀の最初の20年間で、ウーロン茶飲料の販売量は3分の1以下に減り、緑茶飲料の販売量が2倍以上に増えた。こうして21世紀に入ると緑茶への回帰が進み、ウーロン茶はとくに中年男性に好まれる飲み物になっている。

----------

岩間 一弘(いわま・かずひろ)

慶應義塾大学文学部 教授

1972年生まれ。
専門は東アジア近現代史、食の文化交流史、中国都市史。2003年東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。千葉商科大学教授などを経て2015年より現職。おもな著書に、『中国料理と近現代日本――食と嗜好の文化交流史』(編著書、慶應義塾大学出版会、2019年)、『上海大衆の誕生と変貌――近代新中間層の消費・動員・イベント』(東京大学出版会、2012年)などがある。

----------

(慶應義塾大学文学部 教授 岩間 一弘)
編集部おすすめ