※本稿は、古谷経衡『激戦地を歩く』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
■徒歩で400キロ踏破する「インパール作戦」の実態
インド最東部のマニブル州の首都であるインパールはアラカン山脈を間近に臨む、盆地の一番底に位置します。そこから急峻な山岳地帯を進むと、コヒマがあります。インパール作戦は、当然このインパールの占領を目的としたものですが、同時にコヒマの占領も目的としていました。
日本軍の追撃によってインドに逃げ込んだイギリス軍の補給拠点として機能していたのがこのコヒマの街だったのです。よって日本軍はインパール占領と同時に、コヒマの占領をも目指してアラカン山脈をひたすら西に突き進んだのです。
日本軍が駐屯していたビルマ国境付近から、実にこのインパールやコヒマまでは、距離にして約400キロ離れています。これは東京から岐阜の距離に相当するものです。そしてその行程は、アラカン山脈とチンドウィンの大河を越えねばなりません。
つまり山岳地帯の道なき道を400キロも踏破して、徒歩によりインパールを占領するという無茶苦茶な作戦なわけです。日本兵は一人当たり、実に30キロから60キロの食料、弾薬などをリュックに背負いました。
■行軍は夜間のみ
現在の感覚でも、数十キロの荷物を背負って、山岳の密林を歩くのがあまりにも無謀であるというのは分かろうというものでしょう。ハイキングやアウトドアとは根本的に次元が異なるのです。
しかもこのころ、インド‐ビルマ国境付近の制空権はイギリス軍に握られており、昼間にイギリス軍の偵察機や爆撃機に発見されるのを恐れて、その行軍は夜間に限られました。
つまり日中は睡眠して、日が落ちてから山岳のジャングルを移動するというわけです。このことからもいかに、インパールまでの行軍が困難を伴ったものかが分かろうというものです。実際には、けもの道しかない山岳を、日本兵は軍刀でもって植物をなぎ倒し、時として断崖絶壁の山道を進んだのでした。
■「ジンギスカン作戦」という愚策
インパール作戦を立案し実行した第15軍司令官の牟田口廉也陸軍中将は、さすがにビルマからインパールまでの400キロの道のりを徒歩で進むにあたって、心もとない補給では厳しいということは自覚していました。そこで牟田口が考えたのは通称「ジンギスカン作戦」と名付けられた補給戦法です。
これは主に牛を運搬手段として活用するというもので、牛の背中に武器弾薬、食料、それにトラックや野戦砲などを分解して載せ、自動車の代わりとして活用する一方、現地インパールに着いてからは牛そのものを肉として食料にすればよいという、一石二鳥の補給構想でした。
ところが私がインド東部を訪れて分かったのは、現地の牛は人間の言うことを全く聞かない生き物であるということです。インドはヒンドゥー教が寡占的で、牛は神聖な動物とみなされています。
そして牛たちは人間から邪魔されないことを知っているようで、あらゆる道路の真ん中に「むにー」という憮然とした表情で座り込んで眠りこけ、夜中になるとほうぼう活動地に帰っていくという、そういう手前勝手な動物なのです。
■敵のイギリスからはバレバレ
このインド牛に日本兵の荷物を載せ、400キロの山岳を歩かせるという計画は、土台破綻していました。この「ジンギスカン作戦」を実行するにあたっては、人間慣れしていないインド牛を調教する訓練がなされました。
しかし現実には、この牛たちは日本軍がインパール作戦を実行するや、最初の難所であるチンドウィンの大河を渡河するにあたって、その半分がおぼれ死ぬことになります。幸運にも生き残った牛たちも、アラカンの山岳地帯の断崖絶壁を進むにあたって、ことごとく落下し、息絶えることになるのです。
こうして牟田口の思い付き同然で企画された、「ジンギスカン作戦」は早くも初手で大失敗することになったのです。罪なき牛さんたちが本当にかわいそうでなりません。
「ジンギスカン作戦」の破綻はほかにもありました。インパールに進撃する日本軍に帯同した牛たちは、イギリス軍偵察機によりすぐさま発見されます。何千頭という牛が一斉に西進するのですから、イギリス軍にしてみれば「日本軍の大規模攻撃が始まった」ことが丸分かりになるわけです。
日本兵は草むらなどに隠れて空からの写真撮影を免れるとはいえ、動物はそういうわけにはいかないからです。
■圧倒的な火力差
1944年3月に発動されたインパール作戦は、牟田口率いる第15軍隷下の3個師団計10万人を北部、中部、南部から一斉に突進させることで始まりました。山岳・密林という過酷な地形を徒歩で乗り越えた日本軍は、インド国境を越境し、当初の目的であったインパールとコヒマの占領に踏み切ることになります。
しかしこれは前述した通りイギリス軍の罠でした。インパール作戦の発動を知った英軍は、400キロの山道をへとへとになって行軍し、疲れ切った日本軍の消耗を見計らって反撃に転じたのです。
山岳や山道を徒歩で歩き、トラックや戦車を分解して担いできた日本軍は、当然微弱な火力しか持ちえませんでした。対してイギリス軍は、制空権を握っていることに加え、膨大な火力で日本軍を砲撃したのです。
例えば日本軍は、インパール周辺における1日について、5~8発の野砲を撃つのが精一杯でしたが、英軍は実に1日4000発を打ち込んだのです。空については日本軍が延べ2800機を出撃させたのに対して、イギリス軍は延べ27万機を出撃させました。勝負は火を見るよりも明らかです。
「ジンギスカン作戦」が破綻した以上、20日分しか携行していない食料を食べ尽くした後は、日本軍は占領した敵地から食料を調達するしかありませんでした。
■補給をあまりに軽視した日本陸軍
先の戦争にあって、日本陸軍はとりわけ補給を軽視しがちでした。
もちろん陸軍将校を養成する陸軍士官学校には、この輜重兵科の養成部門があります。しかし補給部隊は基本的には実戦部隊の後方にいて、戦いを支えるという地味な存在です。ところがこの目立たない黒子の存在である「補給」こそが、戦争において最も重要な部隊なのです。
当たり前のことですが、いくら精強な軍隊であっても、飲まず食わずで戦うことはできません。十分な補給があって初めて、第一線の部隊の戦闘力が生かされるのです。これは軍事学の常識ですが、戦前の日本軍はとにかく「前線の突撃精神」を重視しました。血気盛んに敵陣に突撃し、敵をなぎ倒す戦闘部隊こそが至上である、という価値観が浸透していました。
なぜなら戦前の日本における「直近の戦争」であった日露戦争は、その主戦場が日本から近い旅順や奉天など中国東北部などに限られたからです。むろん日露戦争でも補給の問題は起こりましたが、結果として執拗な白兵突撃で旅順を攻略したのですから、補給こそが重要であるという価値観は下位に置かれたのです。
■現地人の反日感情が極度に悪化
さらに太平洋戦争につながる日中戦争でも、やはり日本本土から近い中国大陸であり、その気になれば膨大な人口を抱える中国農村部からの収奪は容易であり、制海権も制空権も日本軍が握っていたので、少なくとも戦争後半まで中国戦線で破滅的な補給問題は起こらなかったのです。
よって太平洋戦争における日本陸軍もこの考え方を汲み補給を軽視しがちで、食料が足りないとなれば占領した敵地から収奪すればよい、という考え方が主流でした。
これを「軍の自活」と呼びます。つまり軍隊は自給自足せよ、ということです。この思想が、日中戦争における中国の農村などからの搾取、南方作戦における占領地などからの収奪となって、現地人の反日感情を極度に悪化させたのです。
その調達方法は事実上、軍が主体となって無限に発行できる「軍票」によるもので、戦局悪化によるハイパーインフレによって紙くず同然となった後は、事実上の「略奪」に等しい方法で物資を調達していたのです。
この軍票を巡る問題は、日本の敗戦後、アジア各国との戦争賠償において大きな問題として浮上することになったのでした。
■イギリス軍は空中補給の三次元作戦
イギリス軍にはインパールのさらに奥にあるカルカッタ、またはコヒマの背後にあるディマプルから膨大な物資が常時補給され、そればかりではなく日本軍と戦う前線の兵士には空中補給が行われていました。
空中補給とは、読んで字のごとく主に輸送機から落下傘を付けた物資袋などを地上に投下することによる補給方法です。これは道路が整備されていないジャングルや砂漠などでとりわけ有効な補給方法です。
主にイギリス軍とイタリア・ドイツ軍が激突した北アフリカの砂漠戦線では、連合国の空中補給が奏功し、最終的には「砂漠のキツネ」の異名を冠したロンメル将軍率いるドイツ・アフリカ軍団を撃退するに至っています。
日本軍が牛に物資を担がせ、機械を分解して人力で運ぶという、地べたを這う二次元の発想を実行したのに対して、イギリス軍は空を使った立体の三次元での作戦を実行しました。
■現在も劣悪・過酷なインパール街道
ガイドのアランバム氏と雇われ運転手、私の3名が乗ったトヨタの四駆は、一路山岳都市コヒマを目指します。このインパールとコヒマを結ぶ道路は「インパール街道」と呼ばれ、日本軍と英軍双方が利用した道でした。
ところが道といっても、舗装道路ではありません。未舗装の砂利道であり、その車線は一つしかなく、徐々に高度が上がるにしたがって、断崖絶壁を横に見ながら滑落しないように慎重な運転をしなければなりません。
戦後七十数年を経ても、インパール周辺の道路状況はこのように劣悪なのです。アランバム氏は、「この道は、戦争中と全く変わっていない」と教えてくれました。インパール作戦において英軍が撮影したモノクロのインパール街道と比較してみましたが、確かに当時と全く変わらない、か細い未舗装の道が延々と蛇行しながら続いているのです。
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古谷 経衡(ふるや・つねひら)
作家
1982年、札幌市生まれ。立命館大学文学部卒。保守派論客として各紙誌に寄稿するほか、テレビ・ラジオなどでもコメンテーターを務める。オタク文化にも精通する。著書に『愛国商売』(小学館)、『「意識高い系」の研究』(文春新書)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)(自由国民社)など。最新刊に『敗軍の名将 インパール・沖縄・特攻』(幻冬舎新書)。
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(作家 古谷 経衡)