京王電鉄(東京都多摩市)では、落とし物が持ち主に戻ってくる「返却率」が急激に上がっている。きっかけは、2023年から導入した検索サービス「落とし物クラウドfind」だ。
いったいどんなサービスなのか。ライターの市岡ひかりさんがリポートする――。
■京王電鉄が始めた“神的”落とし物サービスとは
落とし物が増加の一途をたどっている。警視庁によると2024年、東京都内で警察に届けられた落とし物の数が約440万件に上り、統計開始以来過去最多を更新している。
大事なものを「どこかに置き忘れてきた」と気づいた瞬間、肝が冷える感覚は誰しもおぼえがあるはずだ。電車の中か、はたまたコンビニのトイレか。はやる心を抑えて現在地までの道のりを思い出し、お店や交通機関に片っ端から電話をかけまくる……という経験をしたことがある人も少なくないだろう。
恥ずかしながら、筆者にも何度か経験がある。特に、財布やスマホを忘れてしまったときの不安感は筆舌尽くしがたい。もしも盗難なら一刻も早く休止の手続きをしなければ大惨事になってしまう。
急いで駅や店舗の忘れ物センターに電話するも一向につながらず、ようやくつながっても、担当者に「少々お待ちください」と告げられた後、保留音のまま数分間待たされることも……。もちろん悪いのは自分なのだが、陽気な保留音についイラっとしてしまうことも度々だった。

そんな忘れ物の問い合わせが、LINEのチャットで簡単にでき、しかも、わずか数分で返事がもらえるという画期的なサービスが話題を呼んでいる。
京王電鉄が2023年から導入した「落とし物クラウドfind(以下、「find」)」だ。ほぼLINEだけで完結するという、この便利なサービスはどうやって生まれたのか。京王電鉄に取材した。
■最も多い落とし物とは
京王電鉄では、忘れ物は各駅で一時管理されたのち、明大前駅の「お忘れ物取扱所」に集約されている。5~6人の係員が常駐し、お客から問い合わせを受けたり、落とし主が見つからないものを警察へ引き渡したりしている。
課題となっていたのが、膨大な量の忘れ物の管理だった。鉄道事業本部鉄道営業部管理担当課長の境幸一郎さんはこう語る。
「月に約1万6000件ものお忘れ物があり、ラッシュ時には限られた回線に問い合わせ電話が殺到するため、お待たせしてしまうこともありました。さらに、各駅の係員がシステム上に拾得物の特徴などを登録し、それをもとにお忘れ物取扱所の係員がお忘れ物を探していました。ですが検索性が低いことが課題でした」
京王線・井の頭線内で最も多い忘れ物は傘で、昨年度は約2万5000本が届けられた。
ただ、一口に傘、といっても、似たような色や特徴を持つものも多い。
膨大な忘れ物の中から、口頭で聞き取った断片的な情報だけを頼りに見つけ出すのは、骨の折れる作業だった。
■お金は生まないがクレームの原因になる
境さんは「見つかるものはすぐに見つかるんです」と話す。
「ただ、ないものを『ない』と断定するまでに、すごく時間がかかっていました。
特に落とされてすぐお問合せを受けた時などはまだ、各駅からお忘れ物取扱所に届いていない場合も多いため、お客さまからの情報をもとに落としたと思われる駅へ電話で『こういう特徴のものが届いていませんか?』と問い合わせたり、場合によっては係員が直接駅まで見に行って確認したりすることもありました。
それで、ようやく状況をお客さまに伝えるのですが、「見つかりませんでした」と言われたお客さまからすれば『待たされた挙句見つからない』というご不満の原因にもなっていました」
元々は落とし主の責任のはずなのに、対応を間違えればクレームにつながりかねない。その一方で、対策を強化したからといって利益を生むわけではない。「忘れ物」という“厄介者”との戦いに新風を巻き起こしたのがfindだ。
「黒の財布」の落とし物が駅に届けられたとしよう。まず、各駅の係員がそれが見つかった場所や時間など基本情報を台紙に入力。ここまでは以前と変わらないが、その情報と、落とし物を写真に撮影してfindに登録する。すると、AIが自動的に画像から特徴を読み取り、例えば「長財布 黒 PRADA」などと自動入力される。
お客からの問い合わせに応じて、オペレーターは探したい物の特徴をシステムから検索すれば、登録された拾得物の中からAIが候補を絞り込んでくれる。
そこから各種情報をもとに、落とし物を確定させるのだ。
類似した落とし物が届いているのかいないかがすぐに判別できるようになったほか、現場の係員としても忘れ物の特徴を手作業で登録する手間も省けた。また、LINE問い合わせができるようになったことで、対応を待たせることもなく、電話対応のスタッフの業務軽減にもつながっている。
■落とし物の返却率が3倍に
さらにfindでは、落とし主側がLINEを通じて自分が落とした物の画像を登録することもできる。
現物の写真がなければ、ネットショッピングなどの商品画像でもいい。画像を登録すると、AIが自動で色やメーカー名、型番などの特徴を自動で入力してくれる。
オペレーターは、写真をもとに拾得物との照合が格段にしやすくなり、落とし主も情報を入力する手間が減るとあって、写真を登録される数も増えている。
この結果、find導入前と比べ、問い合わせがあったお忘れ物の返却率は約10%程度だったが、導入後は約30%と3倍にまで増加した。さらにお忘れ物の情報を入力する時間も平均8分ほど掛かっていたが、現在は2分程度で入力できるため、入力時間が大幅に短縮された。
実際にこのサービスを利用した人に話を聞いてみよう。
朝の出勤時にワイヤレスイヤホンを車内に忘れてしまった40代の会社員は、帰宅後の20時頃にfindに連絡した。すぐに返信が来て、車両の時間帯やイヤホンのシリアル番号などを追加登録したという。

この会社員は「キーホルダーもつけていない“裸”の状態だったので見つかるか半信半疑だった」と話すが、「わずか30分ほどで、該当の品があると連絡が来ました。これまでの落とし物探しの手間を考えれば、かなりラクでした。なによりオペレーター対応時間外でもAIによるチャットで連絡が来るのは安心感がありました」と感激しきりだった。
■なぜオペレーターが必要なのか
ただ「AIが登録画像の中から落とし物を探してくれるなら、オペレーターはいらないのでは……?」と疑問に思った方もいるかもしれない。しかし、AIと長年の駅係員の知恵とが掛け合わさっているからこそ、このシステムは成り立っているのだ。
境さんが解説する。
「乗っていた電車の種別など、実は皆さんあいまいなことがあるんです。例えば、お問い合わせの際、『○○行の電車で落とした』と伺ったとしても、実際はその時間帯に○○行は走っていない、ということも。
そういう時、我々は経験上『ひょっとして××行のことかもしれない』とピンと来て、別の駅を探してみて見つかることもあります。
すべてを自動的に見つけるというのはまだ難しいですが、findが導入されてからは『あともう一歩踏み込んで推測すれば見つかる』というところまで候補を絞ってくれるので、かなり効率化につながっています」
AIと駅係員の知恵が混ざり合ったなら、たとえビニール傘であっても、さまざまな角度から探し出せるだろう。
■現場の正直な感想
一方、ITツールを現場に導入する際によくある失敗例が「便利だが現場が使いこなせない」というケース。
京王電鉄も駅係員の中には、パソコン操作に疎い人もいるというが、現場に“アレルギー反応”は起きなかったのか。

境さんは、「全然なかったですね。『すごい』『便利!』といった反応でした(笑)。むしろ現場の係員に一からITリテラシーを高めるのは、労務コストもかかり、かえって非効率なんです。操作が手軽なのは現場の人間からすると非常にありがたかったです」と言う。
「あと、一番良かったのは、現場にとってはベースとなるフローは何も変わっていないこと。
品目の分類の仕方や明大前への輸送の仕方などフローは変わらず、ただ端末への入力が簡単になっただけ。新しいことを覚える必要がない状態で仕事業務量が小さくなったので、find導入で業務が停滞することはなかったです」
■社内のIT化という意外な副産物
このサービスを開発したのは、findとはどんな企業なのか。
2021年創業のスタートアップ企業で、2022年、京王電鉄が外部企業との連携を推進する「KEIO OPEN INNOVATION PROGRAM」に応募し、採択された。
そこから開発がスタートした。
オープンイノベーションプログラムは、コロナ禍で大幅に乗客数が落ち込んだことに危機感を抱いた同社が、外部との協業で新たな成長の突破口を開こうという思いから始まった、都村智史社長肝入りの事業だ。
開発にあたっては、実際にfindの担当者が、落とし物取扱所内に一時常駐し、業務の流れをヒアリングしたり、警察への納品に同行するなど細かなニーズをシステムに反映してくれたという。
「findの高島彬社長も『最初はビジョンと熱量しかなかった』とよく仰るんですが、最初の段階ではまだプロダクトがなかったんです。
ただ、企業の悩み事を解決しようとする熱量が非常に高く、こちらの要望に対するレスポンスも非常に速い。その点は、スタートアップならではの強みかもしれません」(境さん)
スタートアップとの協業は、思わぬ副産物ももたらした。
社内で「オンラインツールで気軽にコミュニケーションしよう」という機運が高まり、これまでは本社と駅のやり取りは電話やFAXが中心だったが、チャットツールも併用されるように。また、オンライン会議が導入される機会も増え、ペーパーレス化も進んだ。
■来年からはJR東も導入
さらには、業務全体の見直しにもつながりつつあるという。
境さんは「弊社は現業部門があるので、どうしても現場に人が必要だという発想が強かったんです。ですが、今回のfindの導入によって、お客さま対応などは必ずしも対面である必要はない、と気づけたことは大きかったです」と話す。
これまで京王電鉄の現業部門では、在宅で仕事をするということも考えられなかったという。
「持続的な鉄道事業の観点から見ても、これまでの駅の運営スタイルを続けることで、採用も限定的になってしまいます。
今回を機に、駅の仕事を切り出し、在宅でできる仕事を増やしたり、外注したりしてもいいといった発想に変わってきた。findさんが持ってきてくれた思想によって、弊社の駅業務の全体像がガラリと変わるいいきっかけになったかなと思います」(境さん)
findは、現在は京王電鉄だけでなく、京浜急行電鉄やJR九州など様々な路線でも導入されるようになった。2026年4月からはJR東日本も導入するという。
京王電鉄でも、今後は鉄道だけでなくグループ会社に導入することによって、駅やバス、商業施設など、どこで落とし物をしてもfindで一元管理することを目指すという。
指先一つで忘れ物が見つかるなんて、なんとありがたい世界だろう……などと慢心せず、こちらも落とし物をしない努力をしたいところだ。

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市岡 ひかり(いちおか ひかり)

フリーライター

時事通信社記者、宣伝会議「広報会議」編集部(編集兼ライター)、朝日新聞出版AERA編集部を経てフリーに。
AERA、CHANTOWEB、文春オンライン、東洋経済オンラインなどで執筆。2児の母。

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(フリーライター 市岡 ひかり)
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