政治家や企業トップの謝罪会見を見て釈然としないのはなぜか。心理学者の榎本博明さんは「『お騒がせして申し訳ありません』などの定番フレーズは、自分の非を認めずに責任追及を免れるよう巧妙に仕組まれた言葉だ。
だからそこにはうさんくささが漂う」という――。
※本稿は、榎本博明『絶対「謝らない人」 自らの非をけっして認めない人たちの心理』(詩想社新書)の一部を再編集したものです。
■企業はクレーム対応に追われるようになった
店員の対応に不満をもつと、すぐにネット上に酷評を書き込む人もいる時代である。
たとえ不満をもつ人より満足している人のほうが圧倒的に多くても、満足している人はネット上に何かを書き込むことはほとんどないため、ごく一部の不満をもった人の書き込みが拡散され、影響力をもつことがある。
そのせいで店の評判が悪化し、売り上げが急減したり、場合によっては店を閉じなければならないところまで追い込まれることもある。
そんな時代ゆえに、お客のクレーム対応に店の側も非常に気をつかうようになった。店だけでなく、多くの企業が消費者などからのクレーム対応に心を砕いている。部署によっては、本来の業務よりもクレーム対応に追われることのほうが多かったりもする。
クレーム対応で失敗したら、悪評をネット上で広められ、とんでもない目に遭うこともあり得る。そう思うと、理不尽な苦情であっても無下に突き放すわけにもいかない。
■クレーマーをなだめるための「形式的謝罪」
それに、理不尽なクレームをつけてくる人には理屈が通じない人が多い。いくらていねいに説明しても、なかなか納得してもらえない。

本などをほとんど読まず、読解力が鍛えられていないと、文章の読解問題が解けないだけでなく、人の話もなかなか理解できない。そのため、苦情が見当違いであることをいくら説明しても、ごまかしているなどと思うようで、納得してもらえない。
そこで、最悪の事態を想定し、理にかなったクレームかどうかに関係なく、とにかく謝罪しようといった感じもある。事を荒立てず、ものごとを円滑に進めるために、ホンネではこちらに非があると思っていないのだが、とりあえず表面的に謝る形式的謝罪が増えている。いわゆる自己呈示としての謝罪の一種である。
冷静に考えたら謝罪など必要ないだろうと思うのに、店員や企業の該当部署の人が謝罪することが多いのには、そうした事情が関係しているのである。
ただし、近頃はあまりに理不尽なクレームをつける客もいて、店員が困惑するばかりでなく、心を病むほどに責め立てられるケースも出てきているため、カスハラなどという言葉さえ用いられるようになり、その対応の整備が急務となっている。
■「45度で2秒程度」のお辞儀が最も効果的
このように、うっかりクレーム対応に失敗すると、ネット上で悪評を広められて苦境に追い込まれることもあり得るからこそ、まずは謝ろう、たとえ相手が理不尽なクレーマーであっても、むやみに刺激せず、とにかく謝ろう、といった感じになっている。
ただし、謝罪の仕方を誤ると、せっかくの謝罪も逆効果となり、相手をますます怒らせたり、ネット上に悪評を書き込まれることもある。ゆえに、そうした事態に陥るのを避けるべく、効果的な謝罪の仕方を戦略的に求める企業側の需要が高まっている。
そんな時代ゆえに、「謝罪力が明暗を分ける」などといって、効果的な謝罪の作法を指南するコンサルティングなどが商売として成り立つようになってきた。
企業の危機管理部門や企業トップなどが、効果的な謝罪の作法を学ぶのだ。
効果的かつ責任追及を免れるための謝罪の言葉を頭に叩き込み、お辞儀の仕方も練習する。
心理学の領域でも、効果的なお辞儀動作の研究が行われている。
心理学者の柴田寛たちは、お辞儀が与える印象に関する研究のなかで、屈体角度と屈体後の静止時間に関して、謝罪の気持ちを伝えるお辞儀としてどれくらいが適切かを評定させている。
その結果、屈体角度は浅めの15度より深めの45度のほうが適切と判断されやすいことがわかった。また、屈体後、つまりお辞儀をしたままの静止時間については、2秒程度がもっとも適切とみなされやすく、静止しなかったり、静止時間がそれ以上に長かったりすると、適切とみなされにくくなることが明らかになった。
■巧妙に仕組まれた謝罪会見の言葉の数々
このようなデータをもとに効果的なお辞儀の仕方を練習して、不祥事等の記者会見に臨むわけだが、ホンネの部分で反省がなければ形式的謝罪に終始することになり、誠意ある謝罪かどうかを見極める必要がある。
お辞儀の仕方だけでなく、謝罪の言葉も謝罪研修などで叩き込まれる。
政治家や官僚、企業トップ、芸能人などの謝罪会見において、
「このようなことになり、誠に遺憾の極みです」

「お騒がせしてしまい、大変申し訳なく思っております」

「ご心配をおかけして、申し訳ありません」

「混乱を招いてしまい、ほんとうに申し訳なく思います」

「不安を与えたことをお詫び申し上げます。誠に申し訳ありません」
などといった言葉を耳にすることが多い。
こうした謝罪の言葉を聞いて、「謝っているし、反省しているのだからいいだろう」と許しの気持ちに傾く人も少なくないかもしれない。だが、これらの言葉は謝罪研修などで叩き込まれた、巧妙に仕組まれた言葉なのである。だまされてはいけない。

なぜなら、「このようなことになり、誠に遺憾の極みです」というのは、このような結果になったのが非常に残念だと言っているのであって、自分が悪かったとか自分に責任があったなどと言っているわけではないからだ。
■どれも自分の非を認めるものではない
「お騒がせしてしまい、大変申し訳なく思っております」というのも、このような騒ぎになったことに対して申し訳ないと謝罪しているわけで、自分に非があることを認める謝罪ではない。
「ご心配をおかけして、申し訳ありません」というのも、大騒ぎになり不安になる人たちがいることに対して申し訳ないと謝罪しているわけで、自分に非があることを認める謝罪にはなっていない。
「混乱を招いてしまい、ほんとうに申し訳なく思います」というのも、さまざまな情報が飛び交って混乱していることに対して申し訳ないと謝罪しているのであって、自分に非があることを認める謝罪にはなっていない。
「不安を与えたことをお詫び申し上げます。誠に申し訳ありません」というのも、情報が錯綜して不安になった人がいることに対して申し訳ないと謝罪しているのであって、自分に非があることを認める謝罪にはなっていない。
つまり、これらの謝罪会見の言葉は、今後の責任追及を免れながらも非難を軽減できるように巧妙に仕組まれたものなのである。
ほんとうに誠意のある謝罪なら、自分の非を認め、その償いをどのようにするかといった提案も含むものでなければならない。
それがないために、多くの謝罪会見に胡散臭さが漂うのである。
■戦略としての謝罪に過ぎないからまた繰り返す
このような誠意に欠ける形式的な謝罪が世にはびこっているため、とりあえず謝りはしても、反省がないため、その後また同じようなことが繰り返されるということになりがちである。
政治家の不祥事にしても、芸能界やメディア業界の不祥事にしても、一般企業の不祥事にしても、表沙汰になって謝罪会見が行われたにもかかわらず、似たようなことが繰り返される。
それは、謝罪の作法に則った謝罪会見を行いながらも、「とにかく謝罪すれば事態は収束するはず」、「神妙な表情で謝罪すれば炎上は防げる」などと思っており、心から反省しておらず、「こんなこと、どこでも(だれでも)やっているだろうに」、「自分だけ(ウチだけ)バレるなんて、運が悪い」といった思いが強いからだろう。

あくまでも戦略としての謝罪であって、「謝罪の作法を踏まえて謝ればうまくいく」といった発想で動いているだけで、誠意などどこにもない。「謝ってすむなら警察はいらない」という子どもがよく口にするセリフがぴったりあてはまる事例と言える。
ときに加害側とみなされている人が自分は悪くないと思っており、謝罪する必要もないと思っているのに、事態を収束させるため、意に反して謝罪させられることもある。
あるいは、なんの反省もないのに、早急に事態を収束しないと面倒なことになりかねないといった考えから謝罪が行われることもある。
その場合は、組織の戦略として謝罪しているだけで、反省の気持ちは微塵もないため、その後の改善は期待できない。重要なのは、謝罪をするかどうかではなく、心からの反省があるかどうかだ。それがなければ、その後の改善もあり得ない。

----------

榎本 博明(えのもと・ ひろあき)

心理学博士

1955年東京生まれ。東京大学教育学部教育心理学科卒業。東芝市場調査課勤務の後、東京都立大学大学院心理学専攻博士課程中退。カリフォルニア大学客員研究員、大阪大学大学院助教授などを経て、現在、MP人間科学研究所代表、産業能率大学兼任講師。おもな著書に『〈ほんとうの自分〉のつくり方』(講談社現代新書)、『「やりたい仕事」病』(日経プレミアシリーズ)、『「おもてなし」という残酷社会』『自己実現という罠』『教育現場は困ってる』『思考停止という病理』(以上、平凡社新書)など著書多数。


----------

(心理学博士 榎本 博明)
編集部おすすめ