■秀吉恩顧の前田家が百万石大名になったワケ
江戸時代の大名の石高ランキングで、2位以下を引き離してダントツだったのは、加賀藩前田家である。「加賀百万石」として知られるとおり、唯一、100万の大台を超えて102.5万石を誇った。
その領地は加賀(石川県南半部)、能登(石川県北部)、越中(富山県)の一円におよび、3代利常の時代の寛永16年(1639)に分藩した富山10万石、大聖寺7万石を加えれば、実質的には119万石以上にもなった。
ちなみにその下は、2位が薩摩藩島津家の72.9万石、3位が仙台藩伊達家の62.6万石、4位が尾張藩徳川家の61.9万石、5位が紀州藩徳川家の55.5万石、6位が熊本藩細川家の54万石と続き、50万石を超えたのはこの6つの家だけだった(しかも2つは将軍家の親戚である)。
別格なのは石高だけではなかった。外様大名なのに松平姓および三つ葉葵の紋が下賜され、前田利家から数えて4代の光高以降は徳川将軍の偏諱(へんき)、つまり実名の一字があたえられた。光高は家光から、5代綱紀は家綱から、6代吉徳は綱吉から、7代宗辰は吉宗から、8代重煕、9代重靖、10代重教は家重から、11代治脩は家治から、12代斉広、13代斉泰は家斉から、14代慶寧は家慶から。幕末まで見事に全員が、将軍の偏諱を賜っている。
そればかりか極官、つまり就くことができる最高の官位は従三位参議で、将軍家の一門を除けば唯一、公卿になれる大名だった。このため江戸城本丸御殿内の伺候席(しこうせき)も、ほかの外様大名は国持大名でも大広間なのに、前田家だけは御三家等と同じ大廊下だった。このように、なにからなにまで別格の扱いだったのである。
では、前田家はどうやって、これほど特別な地位を築いたのだろうか。
■信長に通じる前田利家の残酷さ
前田家の祖はいうまでもなく前田利家である。まずは利家の人生に、徳川家康から一目置かれた理由が見いだせる。
若いころから武勇にすぐれ、槍の名手として知られた利家は、尾張(愛知県西部)の土豪の四男だった。織田信長に仕え、早々から功を重ねたが、信長の寵臣を信長の面前で惨殺するという過ちを犯してしまう。この時点で成敗されても不思議ではなかったが、柴田勝家らのとりなしにより出仕停止処分で免れた。
その後、永禄3年(1560)の桶狭間合戦などに無断で参戦しては首級を挙げるなどし、帰参を許されると、その後は順調に功を重ねた。とくに永禄12年(1569)には、四男なのに家督を継ぐように信長から命ぜられ、こうして前田家の当主となると、信長の主要な戦いに軒並み参戦した。
天正2年(1574)、信長から越前(福井県北東部)をあたえられた柴田勝家の与力になると、越前一向一揆の鎮圧に尽力。一揆平定後は越前に3万3000石をあたえられ、はじめて大名になった。続いて天正9年(1581)からは能登を治め、七尾城(石川県七尾市)を居城にしている。
戦の際に手段を選ばない利家の残忍さは、信長と相通じるものがあったのではないだろうか。
こうして信長に尽くしては、順調に出世を重ねていたが、天正10年(1582)6月に本能寺の変が発生。こういう局面で、利家は本領を発揮する。
■戦況を見極めて秀吉を選ぶ冷静さ
信長の死後の清須会議で羽柴秀吉と柴田勝家が対立すると、勝家の与力だった利家は、まずは勝家にくみしている。前述のとおり、勝家は若き利家の命の恩人でもあった。
ところが、天正11年(1583)4月の賤ケ岳合戦で利家は勝家側につき、5000ほどの兵を率いて参戦しながら、戦わずに撤退している。こうして勝家敗北の原因をつくり、勝家が居城の北ノ庄城(福井県福井市)に撤退後は、秀吉側に寝返って北ノ庄城を攻めている。
おそらく、早くから秀吉からの勧誘もあり、戦況を冷徹に見極めながら、どちらにくみすべきか判断したと思われる。
こうして戦後、秀吉から加賀2郡を加増され、居城を後々まで前田家の本拠となる金沢城(石川県金沢市)に移した。天正12年(1584)の小牧・長久手合戦では、家康らに呼応した佐々成政を破り、天正13年(1585)の時点で石高は、嫡男の利長の領地と併せて76万石を超えた。
秀吉の九州征伐、小田原征伐にも参戦し、文禄の役がはじまってからは、官位の面でも抜きんでた。当初は毛利輝元や上杉景勝のほうが官位は上だったが、文禄3年(1594)に従三位権大納言に叙されて以降、利家が彼らを上回った。
■「家康暗殺計画」の顛末
慶長3年(1598)に秀吉が没すると、家康は秀吉が定めた法度を破り、有力大名らとの婚姻政策を進めたが、これに強く反発したのが利家だった。多くの大名から慕われていた利家が健在だったら、はたして関ヶ原合戦に突入しただろうか。
実際、加藤清正や福島正則らいわゆる「武断派」と、石田三成や小西行長ら「文治派」との仲裁にも、利家は動いていた。家康とて自分と同格に近く、人望が厚い利家を差し置いては、滅多なことはできない状況だった。
ところが翌慶長4年(1599)閏3月、利家が病没すると、嫡男の利長はまずい状況に追い込まれる。秀吉の遺言を無視する動きが目立ちはじめた家康に対抗する党派の、親玉に祭り上げられてしまう。それは家康には好都合だった。家康は利家を首領に浅野長政や大野治長らが、自分の暗殺を企てているという話を流す(「家康暗殺計画」は現在では、利長らを廃除するための謀略だったと考えられている)。
一時は家康による加賀征討が行われかねない流れだったが、そこで利長らがとった戦術はたくみだった。家康のもとに重臣の横山長知を3度にわたって派遣し、弁明を試みただけでなく、実母の芳春院、すなわち利家の正妻「まつ」を江戸に人質として送ることを提案し、決着している。
実際、芳春院は慶長5年(1600)5月に江戸へと出発した。
■こうして「加賀百万石」が成立した
関ヶ原合戦では必然的に東軍についた利長だが、次弟の利政に手を焼いた。父の利家は、利長に男子がいないままだった場合、利政を後継にするように命じていた。ところが、西軍に妻子を人質にとられたと知った利政は軍務放棄したので、利長は激怒。利政が西軍についたと、みずから家康に報告したとされる。
しかし、その結果、利政が治めていた能登や西加賀の領土が、みな利長にあたえられることになった。東軍に加わった利長の領土は減俸されるはずもなく、こうして119万2760石の「加賀百万石」が成立したのである。
利政がドロップアウトしたために、男子に恵まれなかった利長のあとは、利家の四男の利常(初名は利光)が利長の養子になって、そのあとを継ぐことになった。
ただ、兄弟とはいえ、永禄5年(1562)年生まれの利長と、文禄2年(1594)生まれの利常の間は、親子ほどの年齢の開きがあった。利常は利家が文禄の役で肥前名護屋に在陣していた折、侍女として派遣された下級武士の娘に産ませた子で、もちろん庶子であり、じつに利家56歳のときの子だった。
利長が巧妙だったのは、関ヶ原合戦の直後、養子にしたての利常と、徳川家康の嫡男、秀忠の娘の珠姫との結納を交わし、翌年、金沢に迎え入れたことだ。その時点で利常は数え8歳、珠姫は同3歳にすぎなかった。
■利光から利常に名前を変える
しかし、この結婚により、利家の庶子だった利常は、将来の将軍の甥であるばかりか、秀忠の長女の千姫が嫁いだ豊臣秀頼の義弟になり、同じく五女和子が嫁いだ後水尾天皇、すなわち将来の皇后の義兄になり、さらには将来の将軍たる家光の義兄になったのである。ちなみに、この時点では利光と呼ばれていた。
慶長10年(1605)6月、利常はわずか数え12歳で、隠居した利長に代わって藩主になった。将軍の甥という立場は大変で、慶長19年(1614)の大坂冬の陣では、その立場ゆえに功を焦って真田丸に攻撃をかけ、多数の死傷者を出した。一方、夏の陣では3000人以上を討ち取ったとされる。
その功が認められ、家康から戦後に四国4カ国の提供を打診されたが、丁重に断っている。石高が増えることより領国経営の安定を重視し、また金山などからの収入が途絶えるのを避けたと考えられる。したたかなのである。寛永3年(1626)には、諱を利光から利常に改めた。「光」の字が義弟で将軍の家光から偏諱でない以上、遠慮したほうがいい、と考えたようだ。
■金沢城天守が再建されなかった理由
だが、そのおかげで前述のように、嫡男の利高が家光から「光」の字をもらって光高と名乗り、その後も代々、将軍の偏諱をあたえられ、それを通して前田家と将軍家の関係は堅固に結ばれた。
加藤忠弘(清正の息子の熊本藩2代藩主)や福島正則ら、秀吉恩顧の大身の外様大名が改易されても、加賀藩前田家は安泰で、それが幕末まで続いた。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)