■「記述式」が苦手な子どもたち
小学6年生と中学3年生を対象に、今年4月に実施した「全国学力・学習状況調査」(全国学力テスト)の結果を文部科学省が発表した。注目すべきは、中3国語だ。
平均正答率は現行方式が導入された2019年度以降で最低で、特に記述式の正答率が他の形式より低く、25%台にとどまった。読売新聞は「文章全体を理解し、理由や根拠を踏まえて記述することに課題があるとみられる」と分析している。
私も、複数の塾や予備校の関係者から「最近、子どもたちの読み書きの力が目に見えて落ちている」と聞き、学校現場にも意見を求めた。
教員たちからは多様な意見があったが、私は教材のデジタル化が進んだことで、学力の土台となるべき「覚える学習」が疎かになっていることが原因ではないか、と考えている。
2009年に紙の教科書を廃止したスウェーデンでは小学生の読解力が低下していることが国際調査(PIRLS)などで判明して、紙の教科書に回帰している。その理由はスクリーンであると、脳が文字情報を「消費すべきもの」と判断して、流し読みになって記憶に残りにくくなるからだと言われている。
■学力格差は「小学校入学前」に始まっている
そもそも、子どもの学力はいつ差が生じるのか。
これは教育政策を考える際に、前提とすべき根本的な問いである。だが、先天性が問われる可能性があることから、表だって議論されることは多くない。
このような問いを考えるとき、先天性のほか、家庭環境、学校の質、教師の能力、地域差など、さまざまな要因が語られてきたが、近年の研究が示している驚くべき共通点がある。
それは、「子どもの学力は小学校入学時点でおおよそ決まっている」という事実だ。
2011年に発表されたルード・ヴァーホーヴェンらの研究は、語彙力と読解力の関連性を明らかにした。
※Verhoeven, R., & Vermeer, A. (2011). Vocabulary breadth and depth as predictors of reading comprehension in Dutch primary school children. Applied Psycholinguistics, 32(3), 453-466.
語彙の量だけでなく、語彙に対する理解の深さが読解力に与える影響は大きく、小学校1年生の時点でできた語彙力の差が、小学6年生になっても縮まらず、むしろ固定化するという。
読解力はすべての学力の基礎であり、読解力の土台になるのが語彙力である。語彙力が小学校入学前の就学前教育に形作られるという事実を考えると、就学前教育の重要性は極めて高いと言わざるを得ない。
■就学前教育がその後の人生を左右する?
アメリカ・ミシガン州で1960年代に開始された「ペリー就学前教育計画(Perry Preschool Project)」は、就学前教育の効果を示す大規模かつ代表的な研究である。
いわゆる「スラム地区」やその周辺に住む3~4歳のアフリカ系アメリカ人の子どもに、高品質な教育を提供し、40年以上にわたって追跡した。
対象は、学校教育上のリスクが高いと判定されたIQ70~85の123人で、1年間(合計30週)にわたり平日午前中の2.5時間、質の高い教育を施した。教師1人あたりの子ども数は平均5.7人の少人数制で、家庭訪問や保護者支援を定期的におこなった。
その成果はめざましいものだった。
この教育を受けた子どもたちは、受けなかった子どもたちと比べて、高校卒業率や大学進学率、就労率が高かった。
小学校に入る前の約1年間の学習が、学歴・就労・納税から犯罪率まで、あらゆる面で改善をもたらしたこと、そして、就学前教育がその後の子どもたちの人生に大きく影響することがわかった。
ノーベル経済学賞を受賞したジェームズ・ヘックマンは、教育投資のリターンを「1ドルに対して最大12ドル」と試算している。「教育は未来への投資である」という考え方が確立したのが、ペリー就学前教育計画の最大の成果だった。
■2~4歳ごろの「独り言」が重要なワケ
カナダの心理学者アンドリュー・ビーミラーは、語彙力が読解力の「上限」を決定する要因であるとし、幼稚園入園時に語彙力が下位25%の子どもたちは、その後に平均水準に追いつくのがかなり難しくなると指摘した。
語彙力と読解力の関係をさらに深く理解するには、「内言(inner speech)」という概念が鍵となる。
内言とは、言葉を口に出さず、心の中でつぶやくことだ。
内言を確立することで、子どもは思考できるようになる。内言は人が生きていく上で重要となる論理や自己制御、創造的表現の基盤となる。
内言自体は一般的に6~8歳ごろに確立されるが、問題は2~4歳ごろの「独り言」から始まる内言の形成期にある。
語彙が豊富に蓄積されていなければ、内言は発達せず、ひいては思考力そのものが制限される。語彙力が重要なのは、内言を充実させるのに語彙が重要だからにほかならない。
■子どもの語彙を増やす“おうち習慣”
語彙獲得には「文脈」が重要であると主張する学者が多い。
子どもが語彙を獲得するには、その言葉がどんな場面で使われているかを理解する必要がある。したがって、語彙を増やすには以下のような環境が効果的である。
・絵本や物語の読み聞かせ
・大人による語りかけ
・質の高い映像コンテンツを見る
・教室での発表や作文の機会
・類義語、反意語を語彙に関連づける
・知っている漢字から別の漢字の意味を推測する
OECDによる報告書では、家庭での読書習慣がある子どもは、そうでない子どもに比べて読解力が平均で1学年分高いことがわかっている。
就学前に身につける語彙力の豊富さがその後の学力の土台を決める。そのため、大人がどれだけ語りかけ、本を読んであげるかが重要である。
ちなみに、江戸時代から明治・大正期にかけて、母親に代わって乳児の授乳や育児のほか、礼儀作法や言葉づかい、基礎的な読み書きなどを子どもに教える乳母(うば)が存在した。
一流の乳母を雇うことは、それぞれの地位にふさわしい人材を育てるのに重要な役割を果たしており、当時の人々が就学前教育の重要さを知っていたことの証左だろう。
また、伝統的な家族形態は子どもの教育にとっても理想的だった。父母が働いている間も祖父母が子どもの面倒をみて、これまでの経験から子どもに多くの言葉を語りかける。それが核家族化で、その負担を保育施設が担うようになっている。
■「暗記」を重視したインドの快進撃
教育は、家庭・地域・学校の三位一体で成立する。
日本の義務教育においては、「探究的な学び」や「アクティブラーニング」が注目され、基礎的な語彙・計算・読解・文法といった「暗記と反復」による土台づくりが軽視されがちになっている。
一方、暗記を重視しているのがインドだ。
インドでは、子どもたちに「19×19」まで暗記させることが一般的である。これは日本の「9×9」までの九九とは桁違いの量であり、暗記力と計算力の鍛錬を重視する姿勢がうかがえる。
インド工科大学(IIT)などの名門理系大学の輩出にもつながっており、シリコンバレーのIT企業トップとして活躍するインド出身者の多さは、日本の九九を超えた暗唱をさせていることと関わっているのではないだろうか。
※ただし、「インドで一般的」とは言っても、日本のように全国統一的におこなわれているわけではない。インドは教育格差が激しく、世界屈指のIT教育を確立している一方で、いまだに初等教育を行き渡らせることができていない州もある。
■自主性を尊重したフィンランドの“異変”
教育の文脈でインドとしばしば比較されるのがフィンランドだ。
日本でも支持者の多いフィンランド式教育は「自由で創造的な教育」の代名詞として称賛されてきた。詰め込みを排し、子どもの自主性を尊重する教育方針は、2000年代初頭のPISA(国際学力調査)で世界トップクラスの成績を収めたことで注目を集めた。
だが、近年、フィンランドの教育にも陰りが見え始めている。
2023年の調査では、フィンランドの中学生の約3分の2が分数の計算ができないという衝撃的な結果が報告された(詳しくは拙稿「『フィンランド式教育』は日本に必要か?本国は数学力低下の深刻な事態」を参照のこと)。
これは、基礎的な数学力の低下を示すものであり、「自由すぎる学び」が基本的な知識の定着を妨げているのではないかという懸念が広がっている。
私はインド式教育を賞賛し、フィンランド式教育を否定しているのではない。それぞれに教育スタイルにふさわしい時期があり、幼い時期は暗記がより重要であることを示しているに過ぎない。
「暗記」は思考力の敵ではなく、思考力を高めるための最大の武器だということだ。重要なのは暗記の土台を作ってから、思考力を磨くという順番にある。基本と応用を切り分けることが大切だ。
■「詰め込み教育」は悪者ではない
「詰め込み教育」という言葉には否定的なニュアンスがつきまとう。しかし、実際には「基礎の徹底」と「反復による定着」を意味する。これは教育心理学的にも有効な学習法であり、記憶の定着やスキルの習得にとっても欠かせない。
たとえば、英語学習でも、語彙と文法を理解して初めて、内容理解や要約、考察といった高次の学びに進める。
「文法のせいで英語がしゃべれない」という言説があるが、明らかに間違っている。文法を母語のように無意識に使いこなせているのなら、英語をしゃべることに邪魔にはならない。
重要なのは基本と応用を切り分けて、基本について暗記して、暗記したことを反復練習によって無意識化することである。それが叶うからこそ、読解や作文やリスニングなどに応用できる。
これは英語に限らず、算数や理科、社会、国語でも同じである。基本事項を覚え、それを反復練習し、応用に至る。
■ゆとり教育が失敗したのは必然だった
教育の目的は、単に知識を与えることではない。知識を「内在化」させ、思考の道具として使えるようにすることだ。語彙がなければ思考できず、思考ができなければ、創造も批判も探究も生まれない。
インドのような徹底した暗記教育は、知識の内在化を重視する点で学ぶべき部分がある。フィンランドのような自由教育は、子どもの主体性を尊重する点で魅力的だが、基礎力の欠如が学力低下を招いている。
日本はその中間に位置する国として、両者の長所を取り入れながら、バランスの取れた教育モデルを構築することが可能だ。特に、就学前教育と小学校低学年においては、「基礎の土台」を徹底的に築くことが、後の自由な探究や創造的学びを支えるのである。
ゆとり教育が失敗したのは、基本を学ぶべき時に「自由な思考」などの理想を無理強いしたことにある。自由な思考に最も必要なのは、しっかりした基本である。
ゆとり教育の反省を経て、再び基礎学力の重視に舵を切りつつあるが、私は十分だとは考えていない。
語彙や計算、文法といった基礎知識の反復は、思考力や創造力の前提条件である。詰め込みを否定することは、基礎の軽視につながり、結果として学力格差を固定化させる。
■子どもの可能性を最大限に引き出す方法
教育は、家庭と地域と学校の協働によって成立する。
就学前教育は子どもの言語形成を充実させることが重要で、まずは、親が子どもにどれだけ語りかけるか、どれだけ本を読んであげるか。それが、将来の学力を左右する。
就学後は暗記が最重要だ。「詰め込み教育」を恐れず、正しく理解し、活用すること。自由な学びを支える土台としての基礎教育を再評価すること。それこそが、子どもの学力低下を食い止め、可能性を最大限に引き出す教育のあり方である。
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白川 司(しらかわ・つかさ)
評論家・千代田区議会議員
国際政治からアイドル論まで幅広いフィールドで活躍。『月刊WiLL』にて「Non-Fake News」を連載、YouTubeチャンネル「デイリーWiLL」のレギュラーコメンテーター。メルマガ「マスコミに騙されないための国際政治入門」が好評。著書に『14歳からのアイドル論』(青林堂)、『日本学術会議の研究』『議論の掟』(ワック)ほか。
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(評論家・千代田区議会議員 白川 司)