名作と呼ばれるコンテンツにはどのような特徴があるのか。関西大学文学部心理学専修の石津智大教授は「1995年に放送されたアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』では、セリフも動きもないシーンが1分以上続いた回が話題を呼んだ。
現代のエンタメは曖昧さを感じさせる余白がなくなっており、それが心の動きの幅を狭めている」という――。
※石津智大『泣ける消費 人はモノではなく「感情」を買っている』(サンマーク出版)の一部を再編集したものです。
■エヴァンゲリオンの「有名なシーン」が伝えたもの
安心の中で心を動かすことが求められる今だからこそ、もう一つ、考えておきたいことがあります。
それは、心の動きの「幅」についてです。
近年は作品に曖昧さを感じさせる余白がなくなっていて、それが心の動きの幅を狭めているとわたしは考えています。
たとえば、Jポップの曲の長さが、どんどん短くなっているそうです。
インタールード(間奏)がなくなっているし、昔は曲の構成にAメロ、Bメロというパターンがありましたが、それも崩れてきている。
こんな例もあります。
1995年に放送された最初のテレビシリーズの『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明監督)に1分ほど映像が止まってしまう有名なシーンがあります。
主人公が友達だと思っていた人が実は「使徒」という敵だったことがわかり、主人公はその相手を殺さないといけなくなった。非常に葛藤するけれど主人公は人型決戦兵器エヴァンゲリオンに乗って、相手を掴んで握りつぶす。そのシーンが1分以上続く。
その間、セリフも動きも一切ありません。
この静止の時間で、葛藤や怒り、そしてそれが収束していくまでの心の動きを感じさせたかったのでしょう。
■庵野監督が語った“動かない表現”の限界
その後『エヴァンゲリオン』は映画化され、わたしは映画の完成を伝える庵野監督のインタビュー映像を観ました。すると監督曰く、もうテレビ版のときのような、1分以上静止させる表現方法は使えない。
なぜなら視聴者がついてこないからだと言うのです。
何も動かない場面があれば、動画を早送りして観ることに慣れている今の視聴者には飽きられてしまう。
飽きられては余白を作る意味がない。制作側は、鑑賞者が余白に込められた葛藤を感じることを前提として話を作っていくので、余白とは情報がないムダなものとして無視されると、伝えたいことが伝わらないまま話が進んでしまいます。
そんなふうに作品の中で、視聴者が立ち止まれるスキがなくなっている。
そういった作品が増えているうえに、サブスクでは面白そうな作品がいくらでもある。そんななかで消費者に選んでもらうには、曖昧さを排除し限られた時間内で効率よく泣いたり笑ったりしてもらう必要がある。
このようにして静寂や余白のなくなっていくエンタメ業界を、わたしは少し憂えているのです。

■曖昧な表情が脳にもたらす変化
曖昧さについて、こんなことがわかっています。
たくさんの顔写真のなかから、「喜怒哀楽が明確にわかるもの」と「やや表情はあるけれど喜怒哀楽に分類不可能なもの」を見せたとき、それぞれの脳の活動には違いがあります。
はっきりと怒っている顔や、見るからに悲しい顔など、喜怒哀楽が明確にわかる表情を見せたときは、扁桃体などの感情ネットワークに関連する一部の部位が活動していました。
しかし曖昧な表情のときは、前頭回の中部や下部という言語やイメージを使って何か想像しているときによく働くところなど、比較的多くの高次の部位が活動することがわかりました。
曖昧さの中にある意味を自分の中で一義に定めるための活動が行われているのかもしれません。
美術史学では、「偉大な芸術は、曖昧で多義的なものを包摂できる表現になっている」と言われます。
たとえばフェルメールの『真珠の耳飾りの少女』という有名な絵画があります。青いターバンを巻いてこちらを振り返った少女の顔は、かすかに唇を開けてこちらを見ていますが、彼女が何を思っているのかはよくわかりません。
人によっては、八つくらいの感情に見えると言われています。わたしは八つには見えませんが、でも四つくらいには見える。
悲しげに見えるときもあれば、薄く微笑んでいるようにも見える。なんだか誘っているような表情に見えるときもあるし、無表情な顔のときもある、というように。

■3時間、ずっと見続けてみたら
わたしはこの絵の実物を見に、オランダのデン・ハーグという都市にあるマウリッツハイス美術館に行ったことがあります。
この作品の前は、通常は大勢の観覧者でにぎわっているのですが、わたしが訪れた2020年の3月はコロナ禍が始まったところで人がほとんどいませんでした。
だからその絵の前に座って、3時間くらい見ていたのです。するとやはり印象がいろいろ変わりました。
これも少女が曖昧な表情をしているからです。
記憶に残るものというのは、必ずしも明確に意味づけられたものではありません。
むしろ、「これってどういう意味だったんだろう?」「あのときの気持ちは、何だったんだろう?」と、受け手の中に引っかかりを残すものこそが、長く心に残りやすいのではないでしょうか。
曖昧な表現には、それをどう受け取るかという「余地」があります。
「こういうことを言いたいのかな」「でも、こうも解釈できるな」と、自分の中で何度も意味を探ろうとする。そのプロセスが、自然と心の動きを引き出し、感情の幅を広げてくれます。そして大きく心が動いた記憶は、情報としてではなく、体験として長く残りやすくなるのです。
■結末を曖昧にする勇気が深い余韻を生む
たとえば、動画コンテンツや広告、漫画、ドラマなどストーリー性があるものは、結末を曖昧にしておくことで消費者に深い余韻を与え、物語が終わった後もその世界に引き込み続けることができます。

結論や説明をつけたくなるところですが、あえて全部は説明しないということが重要です。完全に解決されないことで、消費者はその後何度も考えたり、想像を巡らせたりすることになるのです。
曖昧さを上手に使うことで、消費者や視聴者に「自分なりの解釈」を促すことができます。体験をただ受け入れるのではなく、自分の感情や考えを加えながら、その体験を深く感じてもらえるようになります。
その結果、「また体験したい」「もう一度考えてみたい」と思わせるような、記憶に残る体験を生み出すことができるのです。
■ポジティブで満たされた世界では得られないもの
「感情を消費する」
この言葉に、どこか軽薄さや即時性を感じる人もいるかもしれません。
けれど第1回記事〈「壮大なネタバレ」があるほうが逆にいい…若者たちが「主人公が亡くなる余命もの映画」にハマる意外な理由〉で見てきたように、「泣ける」コンテンツに代表される感情消費が提供するのは、一時の感動ではなく、もっと深い満足感です。
わたしたちが「余命もの」を読んだり観たりするのは、ただ泣きたいからではありません。死や別れといった重たいテーマを、あらかじめ「予告された物語」というかたちで受け取ることで、心の準備を整えながら、安心して揺さぶられることができる。
そうして初めて、感情を全開にして味わうことができるからです。
それは、ポジティブで満たされた世界では得られない、ネガティブを含んだ「豊かさ」とも言えるかもしれません。
さらに近年では、曖昧さや余白のあるコンテンツが減っている中で、「わからなさ」を抱えながら考え続けること自体が、記憶に残る体験へと変わりつつあります。

すぐに答えが出ないからこそ何度も立ち戻りたくなる。
曖昧なものが許す「解釈の余地」は、感情の振れ幅を広げ、より長く、深く、わたしたちの中に印象を残すのです。
■「特別な体験」を生み出す3つの要素とは
もしあなたが、商品を作る側、物語を届ける側にいるのなら、大切なのは「安心して感情を動かせる設計」をすることです。
それはつまり、以下の三つを掛け合わせるということです。
①安心できる「予測」(こういうものなんだろうな、という入り口)

②ほんの少しの「ズレ」(思ったより○○だった、という意外性)

③ちょっとした「余白」(すぐには説明しきれない、あとを引く感じ)
この三つがそろったとき、人は「これは特別な体験だった」と感じ、またその世界に戻ってきたくなります。
それは、「体験してよかった」という深い満足へとつながる感情設計のかたちなのです。

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石津 智大(いしづ・ともひろ)

関西大学文学部心理学専修教授

専門は「神経美学」。慶應義塾大学大学院心理学専攻を修了後、ウィーン大学心理学部研究員・客員講師、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ生命科学部上級研究員などを経て現職。アートや広告、映画など、人の心を揺さぶる表現や体験を脳科学の手法を用いて分析し、「なぜ人は涙を流すのか」「なぜほしくなるのか」といった、感情のメカニズムを明らかにしてきた。脳の働きと心の動きをつなぐ研究は、マーケティングや商品開発の現場から注目を集めている。著書は『神経美学 美と芸術の脳科学』(共立出版)など。

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(関西大学文学部心理学専修教授 石津 智大)
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