※本稿は、松尾英明『不親切教師はかく語りき』(さくら社)の一部を再編集したものです。
■現役教員が語る「ここがおかしい日本の小学校」
学校教育とは本来、その国の社会の未来を形作る柱であり、希望そのものです。
しかし今、日本の教育現場には、見過ごされがちな課題が山積しています。その一つに、一見すると良かれと思われる慣習や価値観が、実は子どもたちの可能性を制限していることがあります。それはまた、教師自身の成長をも妨げる要因となっているのです。
教育現場に立つ教師は、日々迷いや葛藤の中で奮闘しています。子どもたちの多様な個性や価値観、保護者との関係性、そして学校全体の調和を図りながらも一人ひとりの個性を尊重する。そのバランスを保つことは簡単なことではありません。
しかし、教育の目的とは、こうした日々の困難を乗り越えてでも向かうに値するものです。教師の仕事が目の前の忙しさに埋もれがちな今だからこそ、私たちはあらためて問い直す必要があります。
そもそも、私たちは何のために教室に立っているのでしょうか。教育は、誰かに言われた通り行動することではなく、自ら考え、選び、行動する力を育てる営みです。
それが、「主体性の向上」です。このような考えのもとに生まれたのが、前著『不親切教師のススメ』(さくら社)です。余計な親切をしないことこそが、子どもたちが主体的に行動し、自らの力を発揮できる環境をつくる真の親切であり、本当の愛情である――そう考えて記した一冊でした。
するとありがたいことに、テレビやインターネットメディアも含めた、様々な場から予想を超える多くの反響をいただきました。さらに教育関係者だけでなく、保護者や子どもたち、そして異業種の方々からも数多くのご意見やご感想をいただきました。
その中で浮かび上がってきたのが、「その理屈で、教育は成立するのか?」という問いでした。そうした問いに応えつつ対話を重ねる中で、「不親切こそ親切」という理念をより具体的な実践として提示する必要があると感じるに至りました。
かつての教育には、「こうあるべきだ」という絶対的な価値観が確かに存在していました。教師は聖職者と呼ばれ、その言葉やふるまいは正しさの象徴とされていたのです。
しかし現代の教室には、もはやそのような一枚岩の正しさは通用しません。100年以上もの昔、哲学者ニーチェが「神は死んだ」と語ったのと同様、現代の教育の世界でも、かつて信じられていた正解や権威は、すっかりその力を失いつつあります。
■「不親切こそ親切」という視点が児童の可能性を引き出す
では、その空白をどう埋めるのか。現代の教師に必要なのは、誰かにすがり信じることではなく、自ら問い、意味を創り出す姿勢です。自らの人生を切り拓く「主体性」とは、内から湧き上がる「もっとよくありたい」という願い、すなわち「力への意志」によって育つものです。これは、子どもだけに求められるものではありません。
教師にもまた、同じ意志が求められます。現状に甘えず、形式的な優しさに逃げず、自らの行為を日々問い直しながら更新していく意志。その意志をもち続けることが、やがて子どもたちの学びの質も変えていくはずです。そうした姿こそ、教育活動の本質ではないでしょうか。
では、私たちは現実の教室で、何をどこまでするべきなのでしょうか。
教育においては「必要なことを行い、余計なことを手放す」を常に心がける必要があります。なぜならば、時間は有限だからです。
そのとき教師が心がけるべきことは、子どもたちを無理に型にはめることではありません。必要なのは、子ども自身が生来もつ力を信じ、見守ること。そのためには、教師自身が自らの実践を省みつつ、主体的な判断を下すことを心がけ、続けなければなりません。
教育は教師だけの営みではありません。保護者や地域社会、そして子どもたち自身も含め、全員が学び合い成長する過程であるべきです。本書が、教師だけでなく保護者や教育に関わるすべての方々にとって、「不親切こそ親切」という視点で、子どもたちの可能性を最大限に引き出す方法を模索するきっかけとなることを願っています
■同じ教員の読者からの異論反論に著者はどう答えるか
Q(ある教員からの声):小学1年生の担任ですが、授業中「トイレに行っていいですか」と頻繁に来る子どもが複数います。全体を授業に集中させるためにも、ここはある程度厳しく対応すべきでしょうか?
A【現役小学校教員・松尾英明】小学校では、「おもらし」で悩む親子が意外と多くいます。家での「おねしょ」も同様ですが、これらは心理的な不安が原因の一つとなっている場合が多いです。ただし、ほとんどの場合、年齢が上がるにつれて自然に解消されていきます。
ちなみに私の教室では、たとえ1年生であっても「おもらし」の問題が極端に少なくなります。なぜなのでしょうか。
この理由について、おもらしがどのような状況で起きるのかを考えてみてください。
まず時間帯について。これは授業中に起きる場合が圧倒的に多いです。そして、トイレに頻繁に行ける状況があれば、防ぐことができるはずです。では、それでも失敗してしまう子どもたちは、なぜすぐにトイレに行かないのでしょうか。
■「おもらしが発生する学校、しない学校」の決定的違い
答えは単純で、「行きたい」と言えないからです(もちろん、身体の発達的な理由ですぐ出てしまう子どもも中にはいます)。それではなぜ、「行きたい」と言えないのでしょうか。大人の場合を考えてみればわかりやすいと思います。
例えば、研修中に話している最中の講師に対して、話を遮って「トイレに行きます」と堂々と伝える人はほとんどいないでしょう。それをするには相当な度胸が必要ですし、一般的には非常識だと見なされることもあります。普通は、講師の邪魔にならないよう、黙ってこっそりと離席するでしょう。そして、それを咎められることもほとんどありません。
つまり、授業中の教室では「トイレに行ってもいいですか」と教師に許可を求める学校特有の「常識」が、子どもたちにとって高い壁となっているのです。私はこれを「便所報告」と名付け、学校から撤廃したい「常識」の一つとして挙げています。
では、教室ではなぜ「便所報告」を義務付けているのでしょうか。このルールは特殊な一部の教室だけではなく、多くの教室で見られる一般的なものです。
その理由は単純で、質問者が心配されているように、授業中にトイレを利用して「エスケープ」されるのを防ぐためです。低学年から中学年では、トイレで遊ぶ子どもがいたり、高学年から中学生以降では友だちと連れ立ってトイレに行ってたむろしたりする行動が見られるからです。
しかし、こういった行動を取る子どもは全体のごく一部に過ぎません。ほとんどの子どもは、授業中にわざわざトイレに行くのは生理的な理由によるもので、どうしても用を足す必要があるからです。
つまり、一部の逸脱行動を取る子どものために、多くの子どもたちの活動が不必要に制限されているというのが、多くの教室の現状です。これは、便所報告に限ったことではありません。同様の理由で、多くの教室で様々なルールが全体に適用されているのです。
さて、最初の話に戻りますが、私の教室で「おもらし」が少ない理由は、「便所報告」を義務付けていないからです。
しかし、「行ってはいけない」とは決して言いません。時には急にお腹を下すこともありますし、どんな「指導」でも生理現象をコントロールすることは不可能です。子どもの心理的な不安を理解すること。そのためには、あらゆる「指導」について、子どもを自分自身に置き換えて考える習慣が必要なのです。
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松尾 英明(まつお・ひであき)
公立小学校教員
「自治的学級づくり」を中心テーマに千葉大附属小等を経て研究し、現職。単行本や雑誌の執筆の他、全国で教員や保護者に向けたセミナーや研修会講師、講話等を行っている。学級づくり修養会「HOPE」主宰。『プレジデントオンライン』『みんなの教育技術』『こどもまなびラボ』等でも執筆。メルマガ「二十代で身に付けたい!教育観と仕事術」は「2014まぐまぐ大賞」教育部門大賞受賞。2021年まで部門連続受賞。ブログ「教師の寺子屋」主催。
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(公立小学校教員 松尾 英明)