※本稿は、岩瀬昌美『大谷マーケティング』(星海社新書)の一部を再編集したものです。
■大谷選手の後ろに掲載される謎の広告
大谷選手がホームランを打つたびに、その様子が日本のテレビのニュース番組で放映されます。そしてX(旧ツイッター)といったSNSでも、エンゼルスの公式アカウントがリプレイ動画を投稿します。日米の大谷ファンたちはそれを食い入るように見てしまうのですが、そうなると自然と打席でスイングする大谷選手の後ろにある広告も視界に入ってきます。
そんな中で「くら くら くら」「くら くら くら」と大谷選手の後ろに掲載された“謎”の日本語広告がSNSで話題を呼びました。
「呪文っぽい」「主張激しい」「広告に目がいっちゃう」などと、リプレイ動画に対してさまざまなコメントがつきました。
この呪文めいた広告は「くら寿司」の広告です。シンプルかつインパクトのある広告のためか、多くの視聴者に深く印象を残したようで、「くら寿司(の広告)が出ないと打たない説」などとつぶやくファンもいました。まさかくら寿司の広告が大谷選手にホームランを打つ魔法をかけていたのでしょうか⁉(笑)
■アメリカでも「くら くら くら」
野球場に行くと「球場そのものが広告」という具合に、ありとあらゆる広告が溢れかえっています。その「広告汚染」っぷりには、広告業に身を置く私ですら煩わしさを覚えるほどです。ですが、たしかにこの「くら くら くら」は気になります。
私は日本に住んでいる方から、「くら寿司の広告はアメリカでも見られているのですか?」と質問されたことがあります。実を言うと、そうではない場合もあります。
どういうことかというと、実際の球場では広告枠は緑一色のグリーンバック(スクリーン)が映されていて、合成技術を駆使して視聴する国や区域などによって最適な広告を映していることもあるのです。
今は放送権ごとに変えたりしますが、スマホでの視聴がさらに増えていけば、今後は国や地域という居住地の属性だけでなく、年齢や趣味嗜好に沿ったよりパーソナライズされた広告をここに表示していく可能性すらあります。
なのですが、このくら寿司広告に至っては「はめ込み」ではありません。アメリカで放送された映像を見ても、「くら くら くら」と相変わらず日本語で呪文を唱えています。ただ、ひらがなの「くら」の下に「KURA」と小さくアルファベット表記がされているので、アメリカ人にも少しだけ認識はできます。
■バックネット広告のお値段
アメリカで現在60店舗以上出店しているくら寿司ですが、2019年にはNASDAQに上場しており、現地の日本食人気を追い風に事業を拡大していくことも考えられます。日本には550店舗以上のお店があるので、米国での認知度アップと日本でのイメージアップには、「大谷選手の背後」は最適なミディアム(媒体)ということですね。
それでは、こちらの「妙に目立つ」バックネット広告、一体おいくらだったのでしょうか。
なんと、条件によってはエンゼルス球場では1回数百万円程度で買えてしまいます。
この金額は高いのか、安いのか……。
ズバリ「安い」です。
アメリカの経済誌フォーブスによると、大谷選手はグーグルでこれまで最も検索された投手です。そして大谷のホームラン動画は、ものにもよりますが多いものでは数百万のインプレッション(再生回数)を稼いでいて、様々な媒体で別々に掲載されたリプレイ動画をあわせれば、一つのホームランで1000万インプレッションを超えるものもありそうです。この絶大なインパクトを踏まえれば、ホームベース裏の広告バリューは果てしないですね。
■エンゼルス時代は超お得だった
これを他の広告と比べてみましょう。
例えば日本で著名芸能人のCMを1本制作するのには、ギャラや制作費、放映料などもろもろ含めて1億円かかると言われています。それだけかけて作ったCMがどれだけ見られるかというと、日本の2025年4月期のドラマ視聴率第2位「キャスター」の4月27日の世帯視聴率は10.9%です。
それに対して、先日の3月18日でのMLB開幕戦、カブス対ドジャースの日本での世帯視聴率は31.2%と、3倍近く見られています(ビデオリサーチ調べ・関東地区)。
こう考えると、大谷の広告はとってもROI(投資収益率)が高いのではないでしょうか。
もしアメリカ進出を考えている日本のクライアントさんがいましたら、「大谷選手の背後」のデジタルサイネージをおすすめします! が、ドジャー・スタジアムでは複数年契約が当たり前なので、エンゼル・スタジアムのような破格のお値段では難しいですね。
やはりエンゼル・スタジアムでの広告出稿は、米国進出や認知度向上を狙う企業にとってはお得だったのです。
■「天使のお告げ」を受けたヤクルト
その具体例が、私もお手伝いをしていたヤクルトのエンゼルス広告です。
ヤクルトはアメリカでの販路拡大のため、2014年よりエンゼルスの本拠地と同じカリフォルニア州オレンジ郡ファウンテンバレーの工場で現地生産を開始しました。この場所はエンゼル・スタジアムから目と鼻の先だったので、ヤクルトは大谷が来る前から地域貢献の意味もあってエンゼルスのスポンサーをしており、弊社は球場の壁広告デザインや、球場で流れたヤクルトのCM制作などをしていました。
地元のローカル企業もスポンサーできているくらいなので、広告費はびっくりするほどリーズナブルだったはずです。私自身もいくらご近所とはいえ、どうせならドジャースのスポンサーになれば良かったのにと思ったほどです。
もっとも、当時エンゼル・スタジアムの安い席は10ドル台と本当にお手頃で、家族で楽しめる球場なので、ヤクルトの拡販にはピッタリでした。
2017年オフに大谷がエンゼルスに日本から移籍してきたときにも、日本企業のスポンサーはヤクルトとオレンジ郡コスタメサに米国本社を持つニットータイヤくらいで、本当に数えるほどでした。
しかし、その後あれよあれよと大谷フィーバーで日本航空、セイコー、西川など有名な日系企業がどんどんスポンサーに名を連ね、大谷フィーバー前と後ではスポンサー価格は雲泥の差になっていったと思います。
その前にスポンサー入りしていたヤクルトやニットータイヤは「天使のお告げ」でも受けていたかのような幸運を手に入れたはずです。
■大谷移籍の余波
2022年、エンゼルスが身売りされ、オーナーが変わるかもしれないという噂が流れました。
大谷がエンゼルスに残留するのか、それとも移籍するのか、まだわからなかったときの話です。大谷の去就によってエンゼルスのマーケットバリューが動くとされていました。
というのも、エンゼルスは当時「オータニ・バブル」の真っ最中でした。
2023年12月10日のロサンゼルス・タイムズの記事によると、エンゼルスは大谷効果で毎年1000万ドルから2000万ドル(当時15億円から30億円)の広告費を球場内広告とオンライン広告でゲットしていました。既に述べたようにその出稿の多くは日本の名だたる企業たちです。
ただ、大谷が別のチームに移籍するとなれば、地元に拠点があるバンダイナムコやヤクルトなど少数のスポンサー以外は大谷についていくことが予測されました。
バンダイナムコも2022年4月、カリフォルニア州オレンジ郡アーバイン市に新オフィスを構え、それに伴ってエンゼルスのスポンサーになっていたのです。
ちなみにその後、バンダイナムコは2025年4月22日にエンゼルスとの4年契約を更新しました。ヤクルトはと言うと、引き続きエンゼルスのスポンサーを続けながら、大谷の移動に伴ってドジャースにも広告を出稿し、エンゼルスとドジャースの二刀流のスポンサーを続けています。
それ以外の日本のスポンサーはドジャースに流れていきました。
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岩瀬 昌美(いわせ・まさみ)
マーケター
カリフォルニア州立大学サンディエゴ校で修士号取得後、同大学ロングビーチ校でMBAを取得。米国大手通信会社AT&Tのマルチカルチュラルマーケティングマネージャー、米国初のオンラインデリバリーサイトKozmo.comのフード・ビバレッジディレクターを経て、2002年ロサンゼルスでマルチカルチュラルマーケティング広告代理店MIW Marketing and Consulting Group, Inc.を設立。近年は女性のキャリアと子育ての両立支援のためライフワークインテグレーションを提案し、講演やメンターとしても活動。株式会社ペンシル社外取締役、一般社団法人日本オムニチャネル協会シニアフェローも務める。
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(マーケター 岩瀬 昌美)