朝ドラ「あんぱん」(NHK)のモデルである、「アンパンマン」の作者やなせたかし氏。『やなせたかし先生のしっぽ やなせ夫婦のとっておき話』(小学館)を上梓した元秘書の越尾正子さんは「やなせ先生は“遅咲き”と言っても貧乏に陥ったことはなかったが、漫画家としての代表作がなかなか出なくて苦しんでいらした」という――。

■やなせは漫画でもヒットを飛ばしたかった
やなせたかし先生は自分のことを「遅咲き」と言っていましたが、本当の意味での貧乏生活を送ったことはありません。三越でのデザイナー、作詞、舞台の仕事など、幅広い分野で活動し、ある程度の収入は常にありました。それでも先生が求めていたのは、仲間内で知られているだけでなく、子どもも大人もみんなが知っている真の代表作でした。
先生はよく一節太郎という歌手の話をしていました。1曲だけのヒットで有名になった人です。「手塚治虫先生と言えば鉄腕アトム、横山隆一先生と言えばフクちゃん。作家と代表作はセットになっている。でも、やなせたかしはいろんなことをやっている人で、これといった代表作がない」というのが先生の悩みでした。
「手のひらを太陽に」の作詞者として知られていても、漫画家というわりに漫画の代表作がないのが苦しみだったのです。いろんな才能があり、様々な分野でトップ集団に入りながらも、漫画での代表作がないことに、ずっと満たされない思いを抱えていました。
しかも、漫画の世界は手塚治虫先生の出現で劇的に変化し、それまで描いていた漫画が通用しなくなりました。手塚治虫以前と以後では、描き方も作品の質も根本的に変わってしまい、新しい世代の読者には以前の作品への共感が難しくなったのです。

■54歳のときに「アンパンマン」を生み出す
そんな中で1973年、先生が54歳のときに生まれたのが絵本の「アンパンマン」でした。通常のアニメーションは漫画(コミック)からアニメーションになるのが一般的でしたが、アンパンマンは絵本からアニメになったという画期的な例だったのです。
とはいえ、絵本が出た当初は正直話題になりませんでした。アンパンマンが自分の顔を食べさせることが残酷だといった批判などもありました。先生自身も「コミックと違って絵本だからアニメにしても続いていくのか」という心配を抱いていました。
しかし、テレビ局のプロデューサーは「子どもたちがボロボロになるまで絵本を読んで買い替える現象を見れば、絶対にウケる」と太鼓判を押し、制作会社も「キャラクター自体が良いから、(連載漫画ではなく)絵本でも大丈夫」と判断しました。そして、実際にアニメーション化された時には大きな反響を呼んだのです。
■「俺の絵の中には必ずギャグが入れてある」
やなせ先生は、自身の作品が人気を博した理由について、こっそり明かしてくれたことがありました。それは、「俺の絵の中には必ずギャグが入れてある」ということでした。ギャグというのは漫画家の笑わせるネタのようなもので、絵本やイラストの中に笑わせる部分を必ず入れていたのです。私は全く気づかなかったので、先生に教えてもらって初めて知りました。それを知ってからはギャグを探して見てみようと思いましたが、理解するにはある程度の笑いに対する素養が必要なので、私はまずそれを磨くのが先だと思っています(笑)。

現在の漫画には笑いがないシリアスなものもたくさんありますが、先生が活躍していた時代の漫画家達は、漫画には風刺や笑いが必要不可欠だと考えていました。「笑いは絶対のもの」という信念から、作品の中に必ず笑いの要素を織り込んでいたのです。
■やなせ夫人は75歳のとき乳がんで他界
ところで、やなせ先生がアンパンマンのアニメ化でブレイクする少し前に、妻の暢(のぶ)さんは乳がんを患って手術をし、私が就職して半年ぐらいすると、体調を崩すようになっていました。先生は暢さんと二人きりのときは「オブちゃん大丈夫ですか」とニックネームで呼びかけ、体調の悪い暢さんを気遣って夕食を作り、暢さんは自分がいなくてもスムーズに暮らせるようにと、やなせ先生に料理を作ってもらい、見守っていました。
暢さんは病状がさらに悪化してからも、痛いとか苦しいと口にすることがありませんでした。本当は辛いはずなのに、それよりも先生と私がうまくやっていけるかを気にしているのです。私には夫も子もいないので、暢さんの夫を思う無償の愛、夫婦の絆には心を揺さぶられました。
一方、先生もまた、暢さんが亡くなった後、リビングの隣のお茶室に暢さんのお骨を1年間安置し、毎晩電気をつけ続けました。生前の暢さんは電気の無駄遣いに厳しい人でしたが、先生は「寂しいから、つけておいてあげよう」と言ったのです。
奥様を失った先生は、本当は泣きわめきたいのだろうと思いましたが、必死に耐えている様子でした。一人の時は眠れなかったり、泣いたりしたこともあったでしょうが、人がいる時は仕事に黙々と打ち込んでいました。
ちょうど『アンパンマン』のアニメが放送されてからは、フレーベル館からアンパンマンの絵本の依頼が次々と舞い込み、先生はそれを黙々と引き受け、仕事に集中することで気持ちを紛らしているように見えました。

■戦友でもあったかけがえのない妻を失った
暢さんの存在は、やなせ先生にとって経済的な支えだけでなく、精神的な支柱でもありました。妻であり、戦友であり、かけがえのない存在だった奥さんを失った先生が、周囲に悲しみを見せまいとする姿を、私は間近で見ているしかできませんでした。
とはいえ、先生の生活が不便になることは避けなくてはいけない……。そう思い、当時のアシスタント達は、先生のために昼食を当番制で準備し、夕食は私が用意し、一緒に食べることになりました。就職した当初は先生に昔のことを聞いても教えてもらえなかったものですが、次第に夕食の後にぽつりぽつりと話してくれるようになりました。そうして聞いたもの、私がメモを書き溜めたものが『やなせたかし先生のしっぽ やなせ夫婦のとっておき話』(小学館)になったのです。
■周囲を楽しませるためにはお金を惜しまず
やなせ先生が普通の人とは全く違っていたこととして、お金の使い方もあります。ドラマ「あんぱん」(NHK)では嵩(北村匠海)が描いた漫画が新聞のコンクールで入賞した際、のぶ(今田美桜)たちにラムネやかき氷を御馳走したり、弟・千尋(中沢元紀)に小遣いを渡したりしていましたが、やなせ先生も実際、日頃の自分の暮らしに関しては翌月分の生活費をしっかり確保しておく堅実さがある一方で、漫画で賞金が入ったときなどはみんなで使ってしまっていました。
学生時代から、新聞の懸賞で賞金をもらうとクラスの仲間と京都旅行に行くなど、お金を人のために気前よく使っていたと言います。アンパンマンの成功後も、年に一度パーティーを開き、一晩で相当な金額を使い、全て先生が招待する形でした。興味深いのは、お金を全部出したうえで、演出なども全て自分で手がけていたことです。招待状を出した人以上に同伴者が増えて大人数になることもありましたが、そうしたあたりにも先生は無頓着でした。
みんなと一緒に楽しむためのお金は、惜しみなく使えるのです。
■高知のアンパンマンミュージアムの裏話
故郷・高知県の香美市にできたアンパンマンミュージアムのエピソードも印象的です。最初は人が来てくれるかどうか心配していましたが、予想以上に多くの来場者がありました。すると先生は「アンパンマンを見るために来てくれるのだから、ギャラリーに他の人の絵や自分の他の作品が飾ってあったら、来場者ががっかりするだろう」と考えました。そこで「もう一つ美術館(やなせたかし記念館)を建てて、ここはアンパンマンだけにしよう」と決断したのです。
お金を寄付して市が建てるという方法だと入札や議会の承認で時間がかかるため、先生自身が建てて、それを寄付すれば早いと考え、「じゃあ、俺が建てる」と言って本当に実現させました。その後も倉庫が足りなくなると別館を建てて寄付するなど、ミュージアムの充実に私財を投じ続けました。現在も先生の展覧会が全国各地で開催されており、それでもまだミュージアムに展示できる作品があるほど、膨大な数の作品を残されています。
私が先生のお世話をした20年間は、思えば子どもの頃の夢がかなったような時間でした。子どもの頃、詩を書いたり俳句を作ったりして暮らしながら、世の中の経済や一線で活躍する文人のそばで、そういう人の生き方を見てみたいという思いがありました。でも、そんな人は周りにはいないし、私の才能ではそんな人のそばにいられないと、すぐに諦めた夢でしたが、きっと心のどこかに残っていたのでしょう。
■94歳で亡くなったやなせを看取り、本にまとめた
暢さんから「うちで働かない?」と誘われて働き始めた時、「これはもしかすると私が子供の時に願った生活ではないか」と思いました。
先生は絵を描いたり、詩を書いたり、エンターテインメントの仕事をしているけれど、どこか霞(かすみ)を食べて生きているような、現在の世の中から少し浮世離れした部分もありました。同時に、アニメーションという最も厳しいエンタメの世界でも生きている。これこそ私が望んでいたことでした。
働き始めた頃、暢さんには何度も「絶対辞めないで」と言われ続けましたが、辞めないでよかったと今では思います。自分が願っていた生活ができて、大変だったというよりも面白いことばかりの、あっという間の20年でした。
『やなせたかし先生のしっぽ やなせ夫婦のとっておき話』(小学館)では、やなせ先生が2013年、94歳で亡くなったときのこと、その間際の闘病生活についても、最期を看取った者として詳しく書き残しました。やなせ先生の作品に接する方々がその背景を知りたいと思ったときに、私の記憶がひとつの助けになれば、うれしいです。

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越尾 正子(こしお・まさこ)

やなせスタジオ代表取締役

1948年、東京都生まれ。高校卒業後、事務関連の仕事をしながら、趣味で習っていた茶道で柳瀬暢(やなせたかし夫人)と知り合い、1992年に、やなせスタジオに就職。その後、株式会社となったやなせスタジオの代表取締役に就任

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(やなせスタジオ代表取締役 越尾 正子 取材・文=田幸和歌子)
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