スズキを世界的企業に育て上げた鈴木修元相談役は、2024年末に94歳で亡くなるまで絶対的なカリスマであり続けた。存命時、多く取材してきたジャーナリストの永井隆さんは「孤高の独裁者だけが持つ、真実がわからなくなる不安と、いつも闘っていたように見えた」という――。

※本稿は、永井隆『軽自動車を作った男 知られざる評伝 鈴木修』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■「ボンクラ会」
「君たちは不幸の星のもとに生まれた。普通の会社では係長くらいの実力の者が、将来社長をやれというのだから土台無理がある。(創業者の)先代は身体を張って生き抜いてきた。
だが、あなたたちのようなボンクラには荷が重すぎる。いまさら焼き直しても仕方ないが、焼かないよりはマシ。勉強しなさい」
鈴木修は、こう言い放った。
1992年4月、浜松のスズキ本社。集められた代理店の二世(後継者)たち20人は、みな絶句するしかなかった。スズキでの修業を終えて、81年に秋田スズキに戻っていた石黒寿佐夫も、その一人である。
石黒寿佐夫は「二世が優秀な経営者になることを目指し、修さんが立ち上げた研修会でしたが、冒頭でいきなりこんな風に言われたんです。厳しいことを言うなぁ、と正直思いました」と振り返る。

以来、メンバー間ではこの勉強会を「ボンクラ会」と呼ぶようになる。
それから15年が経過した2007年の時点で、メンバー数は半減する。「これが現実なんです」と石黒寿佐夫。
代理店は卸の機能を持っていて、プロパー代理店は減りスズキの直営化は、この間に進んでいった。
■「俺にとって、販売店こそがお客様」
「24時間経営のことを考え、先代の苦労とは別の苦労をしたらどうだ」
という鈴木修が初日に語った言葉を、石黒寿佐夫はいまも鮮明に覚えている。父親でもある創業者の背中を見て育った二世が、会社を引き継いで事業を発展させていくのに、困難は多い。同僚のサラリーマンとは違い、帝王学を身につけていく必要もある。
鈴木修は、そんな二世たちに「別の苦労をしたらどうか」という表現で、取り組むべき方向を示唆していた。
鈴木修は、副代理店大会ではよく次のように話した。
「俺にとって、販売店こそがお客様」
つまりはクルマを購入するエンドユーザーよりも、副代理店などの業販店が大切という意味である。
「三代にわたり知っている業販店主もいる」と鈴木修はよく話した。関係性の深さを強調する彼が、晩年まで業販店向けの講話で披露する十八番は次の噺だろう。

■跡取り息子は親元から離す
「会長、5年間浜松で修業していた息子がもうすぐ帰ってきます。しかも、スズキの女子社員と結婚するので二人でです」
「ほぅ、そりゃ良かった。目出度いことですな。で、帰ってくるのは本当に二人なの?」
「イヤ、イヤ、会長、実はフィアンセのお腹にもう一人いるので、二・五人でなんですよ」
「そりゃ、ホントに良かった。次の次まで跡継ぎができましたね、社長」
勧進帳のように毎回繰り返されるが、副代理店主も夫人も、待っていたかのように興じる。「去年より、今年の方が気持ちがこもっていて良かった」などとだ。
「いまの若い男は恵まれすぎていて、母親を女中のようにこき使っている。だから、一人暮らしをさせた方がいい。3年では短い。5年は親元から離すべきだ」
これは鈴木修の持論だった。
副代理店の跡取り息子をスズキが引き取ると、九州出身者なら敢えて東北に単身赴任させる。実家に帰れないようにするためだ。
5年の月日が流れ、フィアンセを作る。相手がスズキの女子社員というケースもあり、場合によっては跡取りを授かって帰ることもある。
■アメーバ経営をしのぐ「ポケット経営」
鈴木修は30代だった営業本部長時代から、業販店に対して頻繁に語っていた教えがある。
「八百屋のオヤジさんは、二つポケットのあるエプロンをしていた。市場で朝10万円分を仕入れたなら、店を開けて売り上げが10万円になるまでは、右のポケットにだけお金を入れておく。10万円を超えたらはじめて、超えた分を左のポケットに入れるようにする。左のポケットのお金は、パチンコでも何でも自由に使っていい」
左のポケットは利益。10万円を超えないのに、何かに使ってしまったなら、翌朝の仕入れができなくなってしまう。売り上げと利益とを、混同してはいけないという戒めである。この手の話は京セラ創業者、稲盛和夫の「アメーバ経営」が有名だが、それ以上に具体的な教えである。
この教えを好む沖縄スズキ会長の比嘉勉は言う。
「右のポケットと左のポケットでいうところの儲けに対する配分が、修さんの経営の妙でした。
本当の中小企業である販売店の経営を健全化させて、スズキは成長していきました。国内を固めたことで、やがてスズキは世界企業に飛躍していった。(配分では)身内に厳しく、副代理店などの外には優しいのが特徴でした」
■社員を自分の教え子のように…
2000年代初めに入社した元スズキ社員は言う。
「配分のしわ寄せは、社員に来ていたと思う。他社と比べて、スズキの給料はとても低かったのです。それでも、みんな辞めないのは、修会長にカリスマ性があって、この人についていこうと考えたからです」
会社と社員が金だけでつながるブラック企業に共通するのは、社員をモノとしか捉えていない点だ。社員の出入りは激しく、そもそも経営者に魅力も能力もない。辞めていく社員は経営者を尊敬してもいない。
比嘉勉は、「修さんは、良くも悪くも昭和の経営者。いつか、給料をたくさん払えるようにする。だから、いまは我慢してくれ、というスタイルだった。若い頃、教員をした経験を持つせいか、社員を自分の教え子のように捉えていた節もあった」と話す。

■“外様”が社内とカリスマをつないだ
ワンマン経営の特徴だが、トップに対し周囲はモノを言えなくなっていく。
副代理店大会の懇親会では、一番後方のテーブルに鈴木修は着座するが、比嘉勉によれば「修さんのまわりに座るのは、私や有力な副代理店社長といった社外の“外様”ばかり。スズキの関係者は修さんとは違うテーブルに座る。このため、『修会長に、これを進言して欲しい』といったスズキ幹部の依頼をけっこう受けたのです」と指摘する。
スズキ幹部は、トップの鈴木修に対し面と向かってモノが言えない。このため、比嘉のような外部の人間を通して、本意を伝えていく。
鈴木修の超長期政権が維持されたのは、本人がスズキを成長させたことが最大の理由だ。だが、構造的には有力な外様との良好な関係を構築したことは大きかった。創業者から二代目、三代目と引き継がれながらもだ。外様の当主は代替わりしても、立場の変わらない鈴木修はボンクラ会のような施策を駆使し彼らを抱え込んでいた。
比嘉家や石黒家など有力な外様は、代々にわたり、スズキ社内とカリスマをつなぐ“伝達役”の役割を局面によっては担っていた。
■「やる気」を見ている
スズキの元社員は言う。

「修会長に、何らかの提案をしたとき、『(提案の)根拠は』、『絶対に大丈夫なのか』、『将来予測へのエビデンスを出せ』と、修会長は矢継ぎ早に問いただし続ける。提案者は答えられなくなり、その時点で彼のサラリーマン人生は終了します。モノが言えない企業体質にしてしまったのは、修会長の責任だったと僕は思う」
これに対して比嘉勉は、言う。
「修さんは現場を回っていても、現場で起きている問題が自分にまで上がってこないことを、実は感じていた。独裁者として、危機意識を持っていたのです。現実に、HY戦争のときなど、外部から指摘されるまで販売現場の実態を修さんはつかめてはいなかった。
そのため、一時はこんな風に言ってました。
『困ったときには、赤子のように泣け。赤子は困ったら泣くだろう。だから親は気づくんだ。なんで、みんな泣かないんだ』と」
泣かないのは、経営トップに対する畏怖を社員のみんなが持っていたからだろう。鈴木修がこう言ったのは、彼が76歳だった2006年とされている。後述するが、トヨタ・ダイハツ連合との間で熾烈なシェア競争を繰り広げる中で、ある重要な決断を下した年だった。
石黒寿佐夫は、こんな指摘をする。
「修さんから問い詰められたとき、決して怯んではいけません。強気にぶつかっていくのです。数字が間違っていてもいい。とにかく、即答していく。修さんも正確な数字などは、わかっていない。いや、時々わかっていてやっかいなんですけど……、とにかくこちらの本気度を示していくのです。理屈よりも本人のやる気を、どうも修さんは見ている。鍛えられますよ。“すみません”は言ってはいけない」
■三洋電機の教訓
現実として、戦後の経営史の中でも、実力経営者が会社で起きていた実態をつかめずに、巨大企業そのものが傾いた事例は過去にもあった。
1985年、東京三洋電機製の石油ファンヒーターによる、一酸化炭素中毒の死亡事故が相次いで発生した。同社および三洋電機社長だった井植薫は、大阪商工会議所にいてテレビのニュースで初めて事故を知る。会社の幹部たちは重大事故を、トップに報告しなかったのだ。創業者の弟である井植薫は、71年から両社社長の座にあり長期政権を敷いていたが、引責辞任。東京三洋は半導体やコンプレッサーなども作る優良企業だったが、家電を作っていた三洋電機と合併し消滅。ちなみに、三洋電機も経営不振から2011年にパナソニックの完全子会社となり、そのブランドは消える。
周囲からチヤホヤされたり、忖度される“裸の王様”にトップがなることの危うさを、鈴木修はどうやら最初からわかっていた。それでいて、孤高の独裁者だけが持つ、真実がわからなくなる不安と、いつも闘っていたようにも、筆者には思える。だから、現場を回り続けていた。いや、自分の足で回るしか、真実を知る術はなかった。

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永井 隆(ながい・たかし)

ジャーナリスト

1958年、群馬県生まれ。明治大学経営学部卒業。東京タイムズ記者を経て、1992年フリーとして独立。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動をおこなう。著書に『キリンを作った男』(プレジデント社/新潮文庫)、『日本のビールは世界一うまい!』(筑摩書房)、『移民解禁』(毎日新聞出版)、『EVウォーズ』『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『ビール最終戦争』『人事と出世の方程式』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)、『国産エコ技術の突破力!』(技術評論社)、『敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『一身上の都合』(SBクリエイティブ)、『現場力』(PHP研究所)などがある。

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(ジャーナリスト 永井 隆)
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