NHK大河「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」は7カ月間半、10代将軍家治の時代を描いてきた。歴史研究者の濱田浩一郎さんは「家治は26年間将軍の座にあったが、政治は老中の田沼意次に丸投げしていた。
しかし、その死の間際、異変が起こった」という――。
■10代将軍・家治は50歳で病にたおれ死去
大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(NHK)において10代将軍の徳川家治(いえはる)を演じるのは眞島秀和さんです。家治が生まれたのは元文2年(1737)のこと。その父は9代将軍の徳川家重でした。家治は少年の頃には祖父の徳川吉宗(8代将軍)にかわいがられ、学芸の才能にも恵まれていました。
質素倹約にも努めた名君でしたが、そんな家治にも最期の時が訪れます。それは天明6年(1786)のことです。『徳川実紀』(19世紀に編纂された徳川幕府の公式史書)には、同年9月8日、家治は病が重くなり、常の御座所にて亡くなったと書かれています。享年50。
この日の朝、御三家(尾張・紀伊・水戸徳川家)や諸大名は江戸城に家治の見舞いに訪れていました。そんな諸大名に大老や老中から将軍・家治が薨じたことが伝達されたのです。家治は月の初め頃から水腫(むくみ)に悩まされていたとのこと。
家治の信頼厚い奥医師の河野仙寿院が薬を調合し進上しますが、病状に変化は見られませんでした。
よって8月15日には医師の交代となります。奥医師の大八木伝庵が家治を診察することになったのです。毎月15日には江戸にいる諸大名は江戸城に登城し、将軍にお目にかかる儀式がありました。これまで家治は「外殿」に出て群臣の謁見を受けてきました。
■将軍在位26年間、欠かさなかった謁見の儀式
ところが天明6年(1786)の8月15日、家治は外殿に姿を見せなかったのです。どのような猛暑であろうと、逆にどのような極寒の日であろうと、家治は儀式を欠席することはなかったと言います。将軍となって26年、欠席したことはなかったのです。その家治が儀式を欠席した。これまで「(家治の病は)そんなに悪いものではないだろう」と思っていた人々も、今回の事態を受けて「それ程、重い病なのか」と驚いたと言います。
翌日(8月16日)、民間の医師・日向陶庵と若林敬順が「内殿」に召されて、家治の治療に当たることになりました。この2人を推薦したのが『徳川実紀』によると老中の「田沼主殿頭意次(たぬまとものもかみおきつぐ)」です。
同月17日には奥医師が全て出席して、家治の薬の件について「会議」しています。
■寵臣・田沼意次が民間の医師を将軍の担当に
さて、老中・田沼意次が推薦した民間の医師・日向陶庵と若林敬順ですが、同月19日に新たに召し出されて、奥医師に就任しています。それに伴い2人は俸禄200俵を賜ることになったのです。19日から新奥医師の若林敬順が薬の件を担当していましたが、家治の病状が良くなることはありませんでした。よって奥医師の大八木伝庵が再び薬を調合し、進上するようになったと言います。
これが8月20日のこと。大八木伝庵に代わってから家治の病状は少し良くなったようですが、26日の暁にはまた病が重くなったと『徳川実紀』は記します。群臣は登城し、家に帰らなかったとあります。いよいよその時が迫りつつあると皆、感じ取ったのでしょう。新たに奥医師に採用され、俸禄200俵を支給された日向陶庵と若林敬順ですが、8月28日、解任されています(俸禄も収公されました)。残念ながらあまり役に立たず、解任されたのでしょう。
■死去したのは8月25日と9月8日のどちら?
『徳川実紀』には9月8日に家治薨去の記述がありますが、それまでにも群臣や御三家が将軍の見舞いに訪れていたことが散見されます(例えば9月3、4、6、7日)。
世子の徳川家斉やその父の一橋治済も病気見舞いのため、登城していました。『徳川実紀』の記述を見ていると、当然ながら家治は9月8日まで生きていたと思うでしょう。
ところが家治は同年8月25日には既に亡くなっていたとの見解もあるのです。同時代の旗本の森山孝盛は日記『自家年譜』において8月25日の暁に家治が「御他界」したことを記しています。『自家年譜』の記述に重きを置くとすると、家治が亡くなった9月8日というのはあくまで徳川幕府が将軍の死を発表した日に過ぎなくなります。将軍の死去日とその発表の日がズレるということは稀にあります。よって家治にもそのようなことが起こったとしても不思議ではありません。
■意次が老中を辞任する直前の8月25日説が有力
さて、8月27日、老中の田沼意次が同職を免職されます。意次の老中辞職に密接な関わりがあるとされるのが家治の死です。将軍・家治の後ろ楯や信頼があってこそ、意次は権勢を保ってこられました。しかしその家治が「8月25日」に死去してしまったので「8月27日」に意次が老中を辞職せざるを得なかったと思われるのです。
ちなみに意次には「家治毒殺」の噂もあります。
前述の2人の医師を推薦し、将軍に毒薬を盛ったというのです。が、この噂が荒唐無稽なことであるのは言うまでもありません。江戸時代中期の随筆に『翁草』がありますが、それにも意次が毒を盛ったのではないかとの説が書かれています。
■なぜ意次による「毒殺説」が広まったのか?
ちなみに同書にも家治が「浮腫」で体調がすぐれなかったとあります。そして意次が町医者(日向東庵と若林敬順)を推薦。しかし日向東庵は「恐れ多い」としてこれを辞退しました。一方、敬順は憚ることなく、薬を奉ったと言います。同書には敬順は盲目の大富豪・鳥山検校の「手代」だったとの話が書かれています。敬順はいつしか医師となり、意次にとりいって、今回、将軍を診察する医師として推薦されたとのこと。しかし敬順が将軍に奉った薬により、家治の病状は良くなるどころか悪化します。
よって大奥の年寄などは「意次の推挙により町医者に診察が任されたが、これまでこのような例はなかった。意次の取り計らうことであるから、おかしなことはないと思っていたが、このようなことになるとは……。
言語道断なり」と評したとのこと。そして敬順が奉った薬を見てみたら、それは「十棗湯(じっそうとう)」というものであり、しかも荒い処方だったようです。よって、他の奥医師らは敬順を難詰したのでした。
そうしたこともあり、大奥の女中らは「意次が御上(将軍)に毒薬を差し上げた」と口々に意次を罵倒したと『翁草』は記します(同書は家治の死は8月20日夜と記します)。が『翁草』に登場する大奥の女中らが主張した毒殺説は根拠のないものでしょう。繰り返しますが、意次が自身の後ろ楯とも言うべき家治を毒殺するはずがないからです。
天明7年(1787)5月、意次は上奏文を書いていますが、その中で家治の病中のことにも記されています。家治が病の時、意次に対し「1日にして(将軍の意次に対する)ご機嫌が良くない」と告げる者があったと言います。しかし、将軍の機嫌を損ねるようなことは意次はしておらず「身に覚え」はありませんでした。
■意次を老中にし政治を任せたが、死の直前に…
意次が言うには家治は「昨日までもご機嫌うるわしく入らせらる」(昨日までもご機嫌が良い)状態だったと言います。それがある人によれば「1日にしてご機嫌が良くない」状態になったと言うのです。意次は今は家治の不興を蒙ったとしても、後日、落ち度がないことを言上すれば家治の機嫌も良くなるだろうと考えていました。
しかし家治が死去したことにより、意次にその機会はやって来ませんでした。
意次は8月22日から病と称して登城していません。よってその直前に何者かにより、家治の機嫌が良くないことが伝達されたと推測されます(意次は将軍の勘気を理由とする辞職の勧告を何度も受けたと言います)。が、家治は病が重い中にあって、本当に意次に怒りを見せたのでしょうか。意次が推薦した医師が役に立たなかったことに家治は怒ったとも考えられますが、何者かが将軍の怒りを理由に意次に辞職を勧めていることから見て「陰謀」の匂いも感じられます。
意次は周囲の報告により、自身が家治の怒りに触れたと感じており、その怒りを解くことなく、家治が世を去ったことを極めて残念に感じていたことは確かでしょう。
■「体が震え吐血する異常な死にざま」
当時の噂話を収集した『天明巷説』には8月26日に「家治の躰がしきりにふるえだし、吐血おびただしく、異常な死にざまだった」と記されています。そんな真偽不明の話によって、毒殺説も出てきたのでしょう。
家治は50歳でこの世を去り、当時の平均寿命以上は生きました。しかし、生前に近親をほとんど失っており、母は家治が12歳の時に若くして死去。父・家重は25歳の時に病死。家治との間に2女をもうけた正室(閑院宮直仁親王第6王女の五十宮)は35歳の時に病死。側室との間にできた後継者の家基や娘たちにも先立たれました。愛する者を次々に見送ってきた家治は、自身の死を迎えるにあたって、何を思っていたのでしょうか。

参考文献

・藤田覚『田沼意次』(ミネルヴァ書房、2007年)

・鈴木由紀子『開国前夜 田沼時代の輝き』(新潮社、2010年)

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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)

歴史研究者

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。歴史研究機構代表取締役。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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(歴史研究者 濱田 浩一郎)

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