日本国憲法は1946年11月3日に公布、1947年5月3日に施行された。GHQによる占領下で、どのようにして国の最高法規が作られたのか。
GHQとの交渉に当たった白洲次郎について掘り下げた別冊宝島編集部編『知れば知るほど泣ける白洲次郎』(宝島社)より、一部を紹介する――。
■リークされた日本側の草案にGHQが激怒
マッカーサーは新しい日本の憲法を早急に制定するよう日本政府に指示していた。近衛文麿亡き後、憲法制定に取り掛かっていたのが松本烝治であった。彼は保守的思考の持ち主で、天皇の大権について、大日本帝国憲法を大きく変えることは考えていなかった。
白洲次郎は、GHQと接触する中で、民政局が、天皇の存続は認めるが、権利については大幅に制限すべきであると、考えていることはわかっていた。そのため、松本に対して、天皇の大権について、改めるよう忠告していたが、松本は、「そんなことをしたら、国民に殺されてしまう」と拒否した。
そんなときである。日本側が検討している憲法草案がメディアにリークされ、報道されてしまったのだ。それは松本が検討している草案ではなく、閣議で提案された宮沢俊義東京帝大教授の案であった。
報道された草案を見た民政局の面々は激怒した。大日本帝国憲法とほとんど変わらなかったからだ。その後、日本は松本案を民政局に提出するが、GHQ側が納得できるものではなかった。
松本案も報道された案とほぼ同じだったのだ。ただし、この時点では松本案に対して、GHQ側は何も日本政府に伝えていない。
■他国の憲法を作ることは国際法が禁じている
その一方で、マッカーサーは、宮沢の憲法草案が報道された2日後に、民政局に憲法改正草案を作るよう命じている。本来、国際法上、どの国も他国の憲法を作ることは禁じられている。占領軍は占領をしても、その国の主権を奪うことはできない。国際法の基本条約であるハーグ陸戦法規には以下のような条文がある。
「国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障のない限り、占領地の現行法律を尊重して、成るべく公共の秩序及び生活を回復確保する為施し得べき一切の手段を尽くすべし」(付属書規定第43条)

マッカーサーはこれを尊重して、憲法草案がリークされるまでは、新しい憲法作りには着手していなかった(ただし、白洲次郎は、これが嘘であることを証言している)。
■「ソ連に口出しされる前に草案を作れ」
しかし、あまりに非民主的な憲法草案に、とうとう堪忍袋の緒が切れてしまった。マッカーサーは「象徴天皇、戦争放棄、封建制廃止」の三原則を示して、民政局にリンカーンの誕生日である1946年2月12日までに憲法草案を作るよう命じた。このときが2月3日、たった9日しかなかった。
彼が憲法作りを急いだのには理由がある。ソ連がマッカーサーの占領政策に口出ししてきたからだ。
GHQは連合国による占領司令部だが、実際はアメリカ軍だけによる司令部であった。ソ連はそのことに不満があり、米英ソの外相たちによる極東委員会が設置され、GHQの上部団体となっていた。マッカーサーは極東委員会から指摘される前に、新しい憲法を作ってしまい、占領政策を確実なものにしたかった。
新憲法作成期間はたった9日、GHQ内部で、法律に詳しいものや弁護士などが集められてプロジェクトチームは作られたが、皆、憲法作りの専門家ではなかった。法律は知っていても憲法については素人ばかり。その素人たちがたった9日で作ったのが日本国憲法だった。
■民政局内部でも「極秘」のプロジェクト
このプロジェクトチームは極秘で進められた。チームのメンバーは、他のものと食事をするのも禁じられた。食事の会話で、ポロッとプロジェクトチームのことが触れられるのを懸念したからだ。
次郎は、いつものように、民政局の動きを探っていたが、憲法作りの動きは全く察知できなかった。チーム員の誰とも接触はできなかった。そのときの様子をプロジェクトメンバーだった法規課長のマイロ・E・ラウエル中佐は語っている。

「おもしろい男がいた。白洲次郎がそれで、彼はいつも民政局のあたりをウロチョロしていた。われわれを見ると、遠くから“ハーイ”と叫んで手を振る。日本人らしくない身ぶりで、実際、調子のいい男だったよ。白洲は鼻がいいから、何かを感じてはいたのだろうが、しかし、まさか憲法草案を作っているとは思わなかったらしい」(『マッカーサーの日本』週刊新潮編集部)
■まさかのマッカーサー草案に日本側は仰天
2月13日、外務省官邸で、日本政府とGHQ民政局が会談を持った。日本側は吉田茂と白洲次郎、そして松本烝治と通訳の長谷川元吉、一方、GHQ民政局側はホイットニーとケーディス、ラウエルであった。
日本側は、松本案について、民政局から何らかの回答があると思っていた。そのため、英訳版と説明書を持参した。
しかし、民政局の狙いはGHQ側の憲法案を日本政府に提示することにあった。
会談の席、松本は松本案を説明しようとすると、ホイットニーはそれを制した。そして、GHQ側の憲法草案を見せて言った。
「ここに持参した憲法草案こそ、日本の人々が求めているものであるとして、最高司令官があなた方に手渡すようお命じになったものです」
この言葉を聞いた日本側は、一瞬、あっけにとられてしまった。
全く予想だにしていないことだった。次郎は“やられた”と心の中で地団駄を踏んだ。
■天皇を人質にとられ、拒否できず
そして、ホイットニーは憲法草案に目を通した日本側に、こう伝えることも忘れなかった。
「最高司令官は、天皇を戦犯として取り調べろという他国からの圧力にさらされています。もし、この憲法草案を受け入れれば、天皇は象徴して残ることになります」
逆に、もし受け入れなければ、天皇は戦犯容疑で取り調べられるということを言っているのだ。天皇を人質に取られてしまった。日本側に拒否できる余地はない。次郎も唇をかみしめるしかなかった。
日本国憲法はGHQ側から提示されたものを元に、象徴天皇、戦争放棄、封建制の廃止、の三原則を残しつつ、一部分が修正されて最終版となった。
GHQが提示した草案は議会が一院制であったが、二院制に変わった。その間のやり取りは非常に煩雑を極めた。GHQが英語で作ったものを日本語に翻訳し閣僚に見せ、それを修正して、また英語に翻訳し、GHQに見てもらう。
そして、GHQが修正した点を、また日本語に翻訳し、確認する。何度かキャッチボールをしたのち、最終版ができた。
1946年3月7日に「憲法改正草案要綱」が公表された。民政局のマッカーサー草案が提案されてから23日目、3週間と2日である。この日は、極東委員会が開かれる予定で、ここで日本の憲法制定について議題に上がる可能性があった。憲法制定が進んでいることをアピールできる。
■1夜でファイナル・ドラフトを作成した4人
最後のファイナル・ドラフトの日本語版を完成させるのに使った時間はたった1夜。場所は第一生命ビルの民政局の会議室。その場にいたのは、民政局側がケーディス、通訳のシロタなど。日本側は法制局の佐藤達夫第一部長と白洲次郎、そして屈指の英語力を持つ外務省の小畑薫良、長谷川元吉である。
朝から、GHQの民政局と憲法草案についてやり取りしていた彼ら4人だが、すでに午後6時になっていた。少しでもマッカーサー草案に政府の意向を反映させようとする日本側と、修正にほとんど応じない民政局の間で、徒労の時間が流れていった。
4人ともほとんど休憩のない作業にへとへとになっていた。
特に佐藤はかわいそうであった。本来、ここにいるべきは、日本側の憲法草案の責任者である松本烝治であったが、彼は修正をめぐって民政局と激論になってしまい、そのまま退席してしまった。佐藤は、松本から少し手伝ってくれと言われて、同席しただけだったが、彼が法案を作成するハメになってしまった。
次郎も、英語が堪能だったから、翻訳とGHQ民政局との折衝を兼ねて、とどまることにした。決して責任を取るべき立場ではなかったが、彼らを残して、いなくなるわけにはいかない。最後まで残ることに決めた。
日本国憲法のファイナル・ドラフトができたときに携わっていたのは、憲法学者でもない4人だったのだ。
■「天皇はシンボル」日本語で言うと?
そのときのエピソードがある。翻訳作業の最中のことである。『白洲次郎 占領を背負った男』から引用しよう。
「そもそも天皇がシンボルだというところからして日本語にしにくい。
『白洲さん、シンボルっていうのは何やねん?』
小畑が次郎に大阪弁で尋ねてきた。
『英国じゃイギリス国王は国民のシンボルということになってるから、それを持ってきたんだろう。でも日本語でどう言えばいいのかな……象徴とでも言えばいいのか……。そうだ、ここにある井上の英和辞典引いてみたら?』
“井上の英和辞典”とは、大正4年に井上十吉によって編まれた井上英和大辞典(至誠堂書店)のことである。次郎の言葉に従って小畑は辞書を引いてみた。
『やっぱり白洲さん、シンボルは象徴やね』
新憲法の“象徴”という言葉はこうしたやりとりで決まったのだ」
■夢の中でも論争するほどの激闘だった
ここで、『白洲次郎 占領を背負った男』の著者、北康利は後の次郎の言葉を引用している。
「後日学識の高き人々がそもそも象徴とは何ぞやと大論戦を展開しておられるたびごとに、私は苦笑を禁じ得なかったことを付け加えておく」(「吉田茂は泣いている」『諸君』1969年10月号)

次郎は日本語版の作成が終わると、ファイナル・ドラフトを持って官邸に行き、その後、フラフラになって自宅に戻った。そして、そのままベッドで泥のように眠りに落ちた。次郎は眠りながらも民政局の奴らと論争をしていた。
「シャット・アップ(黙れ)」

「ゲッド・アウト(出て行け)」
うなされるほどの寝言を繰り返していたのだ。激闘を物語る逸話である。
■マッカーサーは戦時中に草案を作らせていた
次郎は、人口に膾炙している日本国憲法が1週間でできたということに対して、秘話を紹介して真実を明らかにしている。引用しよう。
「それから半年以上経過した昭和二十一年十一月三日、わが新憲法は“マッカーサー草案”にいくつかの修正を施した後、公布された。政府はこれを記念して『銀杯一組』を作り、関係者に配ることになった。で、ぼくもホイットニー氏に届けるべく、民政局を訪問した。と、ホイットニー氏はことのほかこの贈り物を喜んだあと、ぼくに向って『ミスター・シラス、この銀杯をあと幾組もいただきたいんだが……』といい出した。
その日、ホイットニー氏の部屋には、ケージス次長以下何人かのスタッフが詰めていたが、彼のいう“幾組”という数字は、このスタッフの数をはるかに上回るものであった。ぼくが、その点を改めてただすと、ホイットニー氏はつい、口を滑らせた。
『ミスター・シラス、あの憲法に関係したスタッフは、ここにいるだけではないんだ。日本には来ていないが、豪州時代にこの仕事に参加した人間が、まだほかに何人もいるのだよ』
つまり“マッカーサー草案”は、すでにマ将軍が豪州の地にあって、“日本本土進攻作戦”を開始したとき、その作業に取りかかり始めていたのである」
■GHQが噂を流してまで隠したかったこと
では、なぜ、1週間で作り上げたという伝説が流れているのだろうか。これについても次郎はこう解説する。
「GHQやアメリカ側が殊更『1週間で作り上げた』と強調するのは、彼らの草案が大したシロモノではなく、あくまで新憲法は日本人自身の手で作られたかの印象を内外に与えんがためであったのではないかと、ぼくは考える」(「『占領秘話』を知り過ぎた男の回想」『週刊新潮』1975年8月21日号)

次郎の言わんとするのは、たたき台はGHQが作ったが、それは大したものではなく、本当は日本人が、たたき台をもとに作り上げたのが日本国憲法であると、見せかけるために1週間で作ったという噂を流布させたということだ。
だが、そこには、民政局のニューディーラーたちの理想が充分に反映され、それは、天皇を人質に取ってまで変えさせなかった、という真実が覆い隠されているのだ。
■「いいものはいい」と素直に受け入れる
ただし、次郎の憲法伝説はこれでは終わらない。彼は次のようにも言っている。
「新憲法のプリンシプルは立派なものである。主権のない天皇が象徴とかという形で残って、法律的には何というのか知らないが政治の機構として何か中心がアイマイな、前代未聞の憲法が出来上ったが、これも憲法などにはズブの素人の米国の法律家が集ってデッチ上げたものだから無理もない。
しかし、そのプリンシプルは実に立派である。マクアーサーが考えたのか幣原総理が発明したのかは別として、戦争放棄の条項などその圧巻である。押しつけられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと素直に受け入れるべきではないだろうか」(「プリンシプルのない日本」『諸君!』1969年9月号)

あれだけ苦労させられ、煮え湯を飲まされた日本国憲法。しかし、いいものはいい、と言えるだけの胆力が次郎の真骨頂なのだ。

(別冊宝島編集部)
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