※本稿は、宮下友彰『不条理な世の中を、僕はこうして生きてきた。知っているようで知らない「古典教養の知恵」』(大和出版)の一部を再編集したものです。
■無力感しか持てない不条理も、時にはある
「不条理は不条理のまま受け取りなさい」
――抗えない出来事があったときに、支えにしている言葉
僕は、どんな不条理に対してもすべて耐え忍べとは思っていません。
変えるべきことには敢然と立ち向かうべきです。
しかし、人の病や死、天災など、本当の意味でどうしようもないくらい手に負えず、無力感しか持てない不条理も、時にはあります。
神の存在を信じていた昔の人々も戸惑いました。
「なぜ、いい人に限ってこんな目にあうのだろうか?」と。
そして、彼らはその不条理に理屈を通そうと何千年もの間、葛藤してきたのです。
これからご紹介する『ヨブ記』は、ある意味ではその研究の集大成とも言える物語です。
■喉から手が出るほど、その「なぜ」の答えが知りたい
旧約聖書『ヨブ記』のあらまし
――不幸な出来事は必然ではない?
「なぜ、私だけがこんな目にあうのだろう」と苦しむ人間にとって、納得のいく答えを宗教は用意してくれています。
悪質な新興宗教なら「あなたは前世で悪いことをしたから、その報いが起こっている」「悪い霊が憑いているからお祓いをしなければいけない」などと言うでしょう。
人はこのように、喉から手が出るほど、その「なぜ」の答えが知りたいのです。
あなたのお母さんが病気で苦しんでいて、よりどころを求めて、ある新興宗教に入信したとします。
教祖はあなたに「毎日10時間お祈りをすれば、君のお母さんの病気は治る」と言い、あなたはその助言に従って、毎日10時間、お経らしきものを唱え続けました。
しかし、残念なことにそれでもあなたのお母さんは亡くなってしまいました。
そのことを教祖に報告すると、教祖は怒ってこう言います。
「君はお祈りの最中、『こんなお経を唱えたところで、本当に母が救われるのだろうか』と疑念を抱いたのではないか。きっと、それが原因で、君のお母さんは亡くなってしまったのだ」。
たいていの信者は、それで納得してしまいます。
■子どもと家畜を全員死なせる
今回紹介する旧約聖書の『ヨブ記』は、そんなインチキはしません。
「なぜ、善人が苦しむのか」という疑問と徹底的に向き合います。
『ヨブ記』のあらすじは次のようなものです。
ヨブは絵に描いたような善人で、神を信じ、お祈りや儀式も毎日欠かさずおこなっていました。
だからこそ、神はヨブに多くの子どもを授け、多くの家畜を与えました。
神が満足げに天上からヨブを見守っていると、隣に悪魔がやってきました。
神は悪魔に対して、「あれが私の自慢の信徒であるヨブだ」と誇らしく言うと、悪魔はニヤニヤしながら、「本当に彼は敬虔(けいけん)な信徒なのか」と言い、こう続けました。
「ヨブは子どもを授かりたくて、もしくは家畜をもらいたくて、つまり神からご褒美をもらいたくて、お祈りや儀式をしているだけではないか。ヨブという善人をひどい目にあわせてみようではないか。それでもヨブは君(神)のことを信じるかな?」
神は「いいだろう」と言って、この挑戦を快諾してしまいます。
悪魔がヨブにしたことは非道の極致と言えるものでした。
まず、子どもと家畜を全員死なせてしまったのです。
そして、ヨブを、全身に腫れものができる病になるように仕向け、ヨブはその病によって、生きているのがつらくなるほど苦しみました。
すると、悪魔が期待したとおり、ヨブの中で「私は何1つ悪いことをしていないのに、なぜ神は私をこんな目にあわせるのだろうか」と信仰心に揺らぎが生じます。
そこにヨブの親友が3人、見舞いにやってきて言いました。
「何も悪いことをしていない人間はさすがにこんな目にはあわない。
しかし、ヨブは一度だって神を裏切るような行為をしたことはありません。
その質問をされること自体が心外で、親友たちに向かって激怒します。
そして、ヨブはついに、次のように神に恨み言を吐いてしまいます。
文中における「彼」「悪しき者」とは「神」のことです。
大水が突然人の生命を奪っても
彼は罪なき者の困窮を笑っている。
地は悪しき者の手に委ねられている。
(略)
彼でなくて、これは誰の仕業か。
『旧約聖書 ヨブ記』(関根正雄訳/岩波書店)
すると、雷鳴がとどろき、ついに神が姿を表し、ヨブたちを叱りつけました。
「神がなぜ人に褒美を与え、また人に罰を与えるのか。その理由を、お前らの小さな脳みそで考えようとすること自体が不遜だ。神には壮大な計画があるが、それをお前らが理解することはないだろう」
ヨブは最後に神を疑ったことを謝りました。
そんなヨブに対して神は再び子どもや家畜を授け、ヨブは神に愛される日々を過ごすことになったのでした。
この古典教養が救ってくれる人
・自分ではどうにもできない不幸な状況にある人
・理不尽なことで大切な人を失くした人
・大病を患った友人がいて、かける言葉が見つからない人
■不条理なことに対し、救いを求めるのをやめた
『ヨブ記』を読んで、多くの読者が感じることは、まさに神の不条理さだと思います。
悪魔を好き勝手にさせ、神は苦しむヨブに対して最後まで手を差し延べません。
たいていの新興宗教なら、「この宗教に入れば幸せになれる(=不条理から逃れられる)」と謳うものですが、『ヨブ記』では「そんなことはない。たとえ、神を信じていても、不条理な目にはあうのだ」と堂々と主張しています。
結局、神が最後に言いたかったことは、なんだと思いますか?
それは、「出来事に対して、いちいち意味を見出すな」ということだと僕は考えます。
神は善人を苦しませることがある。
その苦しみはいずれの幸福のためにある。
こんなふうに考えると、不幸な出来事にも堪えられそうな気がします。
多くの宗教はそうやって、「信者に不幸が起きても、未来の幸いに繋がっているのだ」とある種の言い訳をしてきました。
ところが、『ヨブ記』の神はそんな薄っぺらい言い訳はしません。
■「神は乗り越えられない試練は与えない」は本当か
僕にとって姉のような存在の、50代の女性がいます。
彼女はがんを患っていて、余命宣告をされました。
今は治療し、なんとか前向きに生活をしていますが、自分ががんであることを告白したとき、周りのみんなは彼女を励ましたそうです。
気持ちは有難いのだけど、その中で一番いやな励まし文句があったと話してくれました。
それは、
「神は乗り越えられない試練は与えない」
という言葉です。
この言葉は、「このがんは、神が『意図的に』与えたものであり、この試練には意味がある」ということを言外に伝えているからです。
しかし「このがんの苦しみには何か意味があるのだから、この苦しみも耐えられそうだ!」なんていう気持ちになれる「意味」なんて、この世に存在するのでしょうか。
いつの時代だって、人は意味を求め、「なぜ」の答えを求めますが、『ヨブ記』の神は、「人間の小さな頭で、神の下す天罰の意味などわかるはずはない。だから、いちいち意味など考えるのではない」と忠告します。
つまり、「不条理は不条理のまま受け取りなさい」ということです。
つい最近も『ヨブ記』について考えさせられたことがありました。
僕には親友と呼べる人がいます。
社会人になり、僕は大阪に移住。
あるとき、彼のことを思い出し、ふと連絡を取ると、「ちょうど家族で大阪旅行に行くところだから家族同士で会おう」という話になりました。
ところが、そのメールのやりとりの中で1つ気になることを提案されました。
「会う前に伝えたいことがあるので、Zoom(オンライン通話)をさせてほしい」と。
当日オンライン通話で、平然と彼は言いました。
「僕、末期がんになったんだよ」
衝撃を受けました。
彼は僕と同じ年で、37歳。
なぜ、そんなことに?
頭の中で収拾がつきません。
でも彼は、あたかも財布をなくしたかのようなレベルで明るく話しています。
■ただ「その出来事が起きた」だけ
通話を終えたあと、僕はこの悲劇に何か意味を見出そうとしました。
たとえば、彼は残す家族を心配していたから、僕も彼の悲劇を無駄にしないように、健康診断を定期的に受けよう、とか。
ところが、ピンと来ません。
僕が健康診断を欠かさないようにするために、彼は病気になってしまったのだろうか?
そんなことは絶対にありえない。
「彼の悲劇を無駄にしない」ということ自体が僕にとっては、彼の悲劇への侵害のように感じました。
僕ができることは甘んじてこの現実を享受し、ただ悲しむだけ。
それでいいじゃないかと率直に思いました。
次は、『ヨブ記』の一節です。
主は与え、主は奪う
『聖書』(聖書協会共同訳/日本聖書協会)
この「主」とは神のことです。
ヨブは「なぜ、神は私にこんなことを?」と喚きましたが、ヨブとは違って、僕の親友は冷静に自分に起きた状況を受け止めていました。
彼は僕と違って、おおらかで、間が抜けたようなところがあり、そこに魅力がありました。
大学進学にかかわるテストに遅刻して、それを反省し、遅刻防止で早めに図書館に到着したくせに図書館で居眠りをし、テストをすっぽかしてしまうような人間です。
それでも、彼は頭の後ろをポリポリ掻きながら、「あちゃー」と半分困り、半分笑ったような反応をしていました。
彼は煙草を吸いませんし、酒も嗜む程度で、健康に悪いことはしていません。
聞いたところ、このがんは遺伝性で、彼自身にはまったく落ち度はありません。
彼自身もこの不条理に対して、なんの意味も求めませんでした。
「世界は不条理である。だから、仕方ない」
そう悟っていたのです。
■意味を見出すことが不謹慎なほどの不幸を神は与える
僕らは、強迫観念のように、何かに意味を見出そうとします。
「なぜ?」
「なんのために?」
「どんな意味が?」
もちろん、意味を見出したほうが有益なこともたくさんありますし、この本(『不条理な世の中を、僕はこうして生きてきた。』)で紹介する古典教養も、むしろその不条理に意味を見出そうとするものです。
しかし、ときに意味を見出すことが不謹慎なほどの不幸を神は与えるものです。
そんなときは、「すべての物事には意味がある」という常識を捨て、これを「ただの不条理」として受け入れたほうがいい場合もあります。
ヨブは、最後に、不条理の意味を見出そうとしたことを謝り、次のように言いました。
わたしにわかりました、
あなたは何事でもおできになる方、
どんな策をも実行できる方であることが。
それなのにわたしはわかりもしないこと、
知りもしない不思議について、
語ったことになります。
『旧約聖書 ヨブ記』(関根正雄訳/岩波文庫)
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宮下 友彰(みやした・ともあき)
古典教養アカデミー学長
1987年、埼玉県出身。学生時代より、哲学・文学・思想の本が好きで、数百冊を読み漁る。早稲田大学政治経済学部を卒業後、博報堂グループの広告代理店に入社。仕事で壁にぶつかるたび、かつて読んでいた哲学・文学・思想の言葉を思い出し、自分を奮い立たせてきた。のちに退職し、2019年、採算度外視で、教養を学ぶサービス「古典教養アカデミー」を大阪天満橋にオープン。2020年、コロナにより、全面オンラインに移行、2022年YouTubeチャンネル開設(登録者数3500名)。日本政策金融公庫、佛教大学、京都先端科学大学などで講演実績あり。
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(古典教養アカデミー学長 宮下 友彰 イラストレーション=さこうれい子)