10代将軍徳川家治は1786年8月に江戸城で死去する(享年50)。歴史評論家の香原斗志さんは「家治の突然死をめぐってはさまざまな説がある。
確実に言えるのは、その死で得をした人物がいることだ」という――。
■なぜ田沼意次は将軍・家治とサシで将棋を打てたのか
徳川幕府の中枢である江戸城本丸御殿は、130棟もの殿舎からなり、床面積は1万坪もあった。現存し国宝に指定されている二条城二の丸御殿の10倍もの規模だった。
130棟は手前から順に「表」、「中奥」、「大奥」という3つのエリアに分かれていた。表は諸大名が将軍に謁見し、役人たちが政務に励んだ場所で、中奥は将軍が起居し、日常的な政務を行った場所。大奥は周知のとおり、将軍の御台所を中心に、側室や子女、奥女中らが暮らすプライベート空間だった。
NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」で、10代将軍徳川家治(眞島秀和)に老中の田沼意次(渡辺謙)が謁見し、膝を突き合わせ、ときに将棋に興じるのは中奥だ。中奥で将軍は、老中や若年寄といった幕府の重臣と直接話したのではない。原則として老中らは表にある御用部屋にいて、彼らの書類が中奥の将軍のもとに届けられた。老中であっても、この将軍の「居宅」に自由に出入りできるわけではなかった。
中奥で働いていたのは、側衆、小姓、小納戸など将軍の世話をする人たちで、彼らを取りまとめたのが側用人だった。田沼意次は老中だったが、側用人を兼ねていたので、中奥に自由に出入りして、日常的に将軍に接していた。
だから絶大な力を持つことができた。裏を返せば、それだけ将軍家治に信頼されていた、ということである。
だが、意次の権力が家治あってのものであるなら、家治がいなくなった途端に立場が危うくなる、ということでもある。
■予想外だった家治の早すぎる死
「べらぼう」ではこのところ、幕府のなかでも庶民のあいだでも、田沼政治への不満が噴出する様子が描かれてきた。浅間山の噴火や天明の大飢饉による米価高騰や社会不安も重なり、不満は募るばかりの状況になっている。
この状況は田沼政治の転覆を願い画策する人たちにとって、好ましい状況だが、とはいっても家治が健在であるかぎり、田沼政治は続きそうである。しかし、家治にもしものことがあれば……。
家治は意次より18歳も年下だった。家治が若いので年長の意次の地位は、生涯をとおして安泰であるように見えていた。ところが、家治は天明6年(1786)の8月に入ると、突然重い病気にかかり、間もなく数え50歳、満49歳で死去してしまったのである。
そして家治が病床にいるあいだ、意次には老中を辞職するように圧力がかかり、みずから老中辞職を申し出て、8月27日、お役御免が申し渡されることになった。
■身体が震え激しく吐血する異常な死
ところで、家治が没した日は、徳川家の公式記録『徳川実記』には9月8日と記されているが、将軍の死はしばらく秘匿されるのが普通だった。
たとえば、歴史家の内藤耻叟(ちそう)が明治25年(1892)に初刊した『徳川十五代史』には、「将軍の薨は其実二十日にあり。秘して喪を発せず。故に田沼、稲葉をしりぞけるは公の意に非ず、三家及び諸老のする所なり」と書かれている。
すでに20日に没していたというのだ。また、「田沼、稲葉をしりぞける」とは、家治が死去する直前、意次と御側御用取次(将軍の近侍職)で田沼派の稲葉正明が、将軍が危篤と聞いて駆けつけながら、御三家や御三卿から「御上意」だといわれ、入室を阻まれたことを指す。
つまり、意次らを遠ざけたのは家治の意志でなく、意次らが駆けつけた時点で、家治はもうこの世におらず、御三家や御三卿が、意次を拒むのは家治の思し召しだとウソをつき、意次に無理やり、病気を理由にした辞職願を書かせた――。
意次が老中を罷免になったのは、前述のとおり8月27日で、家治が死去した日については、8月20日のほかに、8月25日など諸説もある。命日が8月25日だと記すのは『天明巷説』という史料で、そこには、家治の体が震えだし、吐血が激しく、異常な死だったという旨も書かれているという。なにしろ、8月1日には、家治は普通に朝会に出座するほど元気だったというのだ。
それから3週間前後で異常な死を遂げるということが、なんの人為もなく起きるのだろうか。
■田沼意次による家治毒殺説の真意
秦新二・竹之下誠一著『田沼意次・意知父子を誰が消し去った?』(清水書院)には、反田沼派の記録『星月夜萬八実録』にある家治死去と田沼失脚の経緯が、おおむね次のように記されている。
家治は天明6年夏ごろから病気になり、手を尽くしても祈祷をしても効き目がなく、8月23日午後、老中たちは十数人の医師を招いた。
医師たちが薬の配合を終えてから、若林敬順が再度一味加えたので、納得がいかない医師たちと揉めた。これに対し意次は、若林への苦情ももっともだが、若林も名医の評判があって召し出されたのだから、粗略にあつかうべきではない、と訴えた。ところが、その日の夜12時ごろから家治は容体が急変し、危篤状態になり、世継ぎや御三家、老中や譜代大名などが駆けつけ、大騒ぎになった。
『星月夜萬八実録』によれば、この話が世間に流布し、意次が推薦した医師が処方した薬を服用して危篤になったので、意次が毒を盛って家治を殺害したのだ、という噂になったという。
しかし、前述したように、意次そして田沼政治の命脈は、まさに家治によってたもたれていた。その家治を殺害する合理的な動機が、意次にはまったく見当たらない。
■御三家による“でっちあげ”の可能性
後藤一朗著・大石慎三郎監修『田沼意次 その虚実』(清水書院)には、次のように書かれている。
「意次は以前から、実力ある蘭方医らを支援していたので、彼の家には新進医師が多数出入りしていた。意次は、将軍家治重病にあたり、古い漢方の老御典医にまかせておくのは心もとなく思い、彼の信ずる若林敬順、日向陶庵の両名を推挙し、内殿に召して立ち合わせた。しかし八月十九日伺候した敬順らは、わずか一日で翌二〇日には退けられてしまった」
ふたたび『星月夜萬八実録』から。その後、家治が亡くなると、御三家の水戸治保が登城し、在城していた老中はじめ諸役人と協議して、老中の登城や出入りを差し止めた。そのうえで、老中首座で娘を田沼意知に嫁がせていた松平康福を小石川の自邸に呼び、意次の様子を問いただした。
治保は以前から、将軍が意次にやりたい放題にさせているので、諌めようと思っていたのだという。そして尾張や紀州と話し合い、意次の処分を決めたという。
この流れからすると、家治の容態急変の責任を、意次が推薦した医師に体よく押しつけ、意次による家治毒殺説をでっち上げた、という可能性もあるように思えてくる。
■家治の死で得をした人物
たとえ家治が死去しても、世継ぎとしてすでに「家」の通字を授けられていた嫡男の家基が健在なら、意次の地位は安泰だっただろう。だが、安永8年(1779)2月、元気な盛りに数え18歳で急死した。たとえ家基が世を去っても、意次の嫡男ですでに若年寄だった意知が健在なら、田沼政治が存続する可能性はあっただろう。だが、天明4年(1784)3月、殿中で佐野政言に斬殺された。
これまでも意次および田沼政治にとってのカギであり、最重要の人物、それも次代をになう人物が相次いで急死していた。そこに意次の最後の支えである将軍家治の、あまりに急にして不審な死。
ちなみに、意次は老中を罷免されたのち、閏10月5日には謹慎処分になるとともに、老中時代に加増された2万石を召し上げられた。さらに翌年10月には、蟄居および致仕(官職を退いて引退すること)を命じられ、残された3万7000石も召し上げられた(辛うじて1万石だけ孫にあたえられた)。
これらの処分を主導したのは御三家および御三卿、とりわけ、新将軍家斉の父で、「べらぼう」では生田斗真が演じている一橋治済だった。
治済はその後、松平定信を老中に推薦しながら、定信が自分の意に添わなくなると罷免させるなど、将軍の父として絶大な権勢を誇った。
家治の死去が人為であったかどうかはわからない。だが、死をめぐって政治的な思惑が重なっていたこと、あまりに急で異常な死であったこと、その死で得をした人物がいたことは疑いない。

----------

香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

----------

(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
編集部おすすめ