ã¥ñ{âpòY/Hideo Hashimoto (Gamba), FEBRUARY 25, 2006 - Football : 2006 XEROX Super Cup between Urawa Red Daiamods 3-1 Gamba Osaka at Tokyo National Stadium, Tokyo, Japan. (Photo by Daiju Kitamura/AFLO SPORT) (1045)

2023年12月16日、パナソニックスタジアム吹田で橋本英郎さんの引退試合が行われた。25年間のキャリアの中で、ガンバ大阪、ヴィッセル神戸、セレッソ大阪、東京ヴェルディ、AC長野パルセイロ、FC今治、おこしやす京都ACと、カテゴリーが異なる7つのクラブでプレーした元日本代表MFは、第二のキャリアとして本格的に指導者の道を歩み始めている。

試合後の記者会見で語った「目指す監督像」を、その重厚なキャリアと言葉からから紐解く。

(文=藤江直人、写真=アフロスポーツ)

四半世紀のキャリアに重ね合わせて目指す「何でもできる」監督像

頭がいい。気が利く。みんなを繋ぐ人間性もある。稀代のバイプレーヤーとしていぶし銀の輝きを放った橋本英郎さんの現役時代の印象を問われると、決まって関連性のある言葉が返ってくる。

ガンバ大阪の監督に就任した2002年シーズンから、実に10年間にわたって橋本さんを指導した西野朗氏も、同じニュアンスの言葉を介して愛弟子の頭のよさを指摘する一人だ。

「クレバーな選手であり、当時でポリバレントと呼ばれる選手の代表的な存在だった。

しかも、どこでプレーしても『難しい』とか『できません』と言わない。常にチャレンジもしていた」

ボランチを主戦場として日本代表にも招集された橋本さんだが、西野氏の言葉通りに、ガンバ時代には左右のサイドハーフと左右のウイングバック、そしてサイドバックでもプレーしている。

橋本さんはガンバのジュニアユースとユースをへて、98年シーズンにトップチームへ昇格した。高校2年生でデビューしていた同期の稲本潤一と違い、月給10万円の練習生でキャリアをスタートさせた苦労人はしかし、最終的に43歳だった昨年1月に引退するまで四半世紀にわたってプレーした。

長いサッカー人生のなかで、橋本さんの記憶にいまも鮮明に刻まれている言葉がある。ガンバがJ1リーグを制し、悲願の初タイトルを獲得した05年シーズン後に西野監督からかけられたものだ。

「西野さんから『影のMVP』と言われたんですよ。要は僕には常に影という言葉がつく。脇役というか、決して前に出る選手じゃない。その結果として、僕は長いサッカー人生を歩めたのかな、と」

バイプレーヤーを極めたプロサッカー選手のキャリアは、指導者の道を本格的に歩み始める第2の人生へ反映されようとしている。ガンバの本拠地・パナソニックスタジアム吹田で昨年末に行われた引退試合。終了後に設けられた記者会見で、橋本さんは目指す監督像をこう語っている。

「クラブの理念であるとか、クラブが求めるサッカーを実現させられるような監督になりたいと思っています。こういうサッカーができるとか、あるいはこういうサッカーをやりませんか、といった形で僕からアプローチするのではなく、ファン・サポーターを含めて、しっかりとしたフィロソフィーを持っているクラブで、それを実現できるような監督になりたいんです」

指揮を託されるクラブの要望に合わせて、どのような色にも染めていく。例えるなら「カメレオン」のような監督を目指していく理由を、橋本さんは自身のキャリアに重ね合わせて説明している。

「自分がいろいろなポジションでプレーしてきたのと、さまざまな立場を経験してきたからこそ、クラブ側の希望を実現できるような監督になりたいと思っているんです。カウンターサッカーであろうが、あるいはポゼッションサッカーであろうが、何でもできるような監督ですね」

カテゴリーが異なる7つのクラブで環境と立場の変化を経験

ポジションに関しては前述した通りだが、ならばさまざまな立場とは何を意味しているのか。

ガンバではまず05年シーズンがあげられる。遠藤保仁と組んだダブルボランチは、同シーズンのリーグ最多となる総得点82、1試合平均2.41ゴールを叩き出す源泉になった。

同時に総失点58はJ1が18チーム制になった同シーズン以降の優勝チームのなかで、いま現在も最多となっている。

殴られたら倍返しで殴り返す、超のつく攻撃的なサッカーで、ガンバは07年シーズンのヤマザキナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)、08年シーズンの天皇杯とAFCチャンピオンズリーグ(ACL)を立て続けに制覇。09年シーズンにも天皇杯を連覇する黄金時代を迎えた。

12年シーズンに移籍したヴィッセル神戸では、チームの戦い方がなかなか定まらない状況下でJ2への降格と1シーズンでのJ1復帰を経験。J2リーグではセンターバックでもプレーしている。

15年シーズンからは生まれ育った大阪市阿倍野区に近く、十代の頃には下部組織入りも考えたセレッソ大阪へ移籍。

しかし、同シーズンから戦いの舞台をJ2へ移していたセレッソの力になれないまま、16年夏にはAC長野パルセイロへ期限付き移籍。初めてJ3の戦いに臨んでいる。

17年シーズンからはJ2の東京ヴェルディへ移籍。この年から指揮を執った、緻密なポジショニングを要求するミゲル・アンヘル・ロティーナ監督のもとで2シーズンにわたってプレーしている。

さらに19年シーズンには当時JFLのFC今治へ、カテゴリーを2つも落とした形で移籍する。元日本代表監督の岡田武史会長のもとで変貌を遂げている今治が地元自治体を巻き込みながら、新たな町おこしの中心になっている状況が決め手になったと当時の橋本さんは明かしていた。

「カテゴリーを下に落とすのは、ある意味で自分のなかでも勇気が必要でしたけど、それ以上にこれだけ地元から愛されているクラブでプレーできる喜びの方が大きい、と思ったので移籍を決断しました。そうしたクラブに自分も関わってJ3へ昇格させていくことは意義があるというか、自分のサッカー人生においても非常に意味のあるシーズンになるんじゃないかと思えたんです」

言葉通りに19年シーズンの今治は、悲願でもあったJ3への昇格を果たす。勝利が求められた大一番で移籍後初ゴールを決めた橋本さんは、22年シーズンからは関西サッカーリーグ1部のおこしやす京都ACへ移籍。ヘッドコーチ兼任の形で1年間プレーした後に現役引退を表明した。

遠藤保仁の証言「40歳を超えるまでプレーできた理由」

理念やフィロソフィーが備わっていた00年代のガンバだけでなく、混乱期にあった神戸やセレッソ、低迷期の渦中にあったヴェルディ、より上のカテゴリーを目指していく長野や今治、数えて“J5”にあたる京都で脳裏に刻んださまざまな経験が、橋本さんのなかでいまも力強く脈打っている。

「30年前にJリーグができて、カラーがどんどんついてきているクラブと、まだちょっとついてないようなクラブとがあると思うんですよね。カラーがついてきているクラブならば、監督に求められるものは明確だと思いますし、そのスタイルを僕は表現していきたい」

こう語った橋本さんは、自身が去った後のガンバが長谷川健太監督のもとで国内三冠独占を達成した14年シーズンを例にあげながら、フィロソフィーを作る側への挑戦もありうると続けた。

「ただ、これは一人で決められるものではなくて、クラブ全体がそれで納得するというか、それがズレない形で長い期間、そこへ立ち向かっていける人間がいないと難しいと思っています。ガンバも僕らがいたときは攻撃的なサッカーと言ってもらえましたけど、それでも14年のようにタイトルを全部取れたシーズンはなかった。それを考えれば何が本当に正解なのか、というのはクラブ側がまず考える部分であり、そこに関われるのであれば一緒に考えていきたいとは思います」

高校時代は大阪府内でも有数の進学校である府立天王寺高に通い、トップチーム昇格後は大阪市立大学経済学部に通う「二足のわらじ」も貫き通した。指定校推薦で同志社大進学も薦められたが、ガンバの練習場と京都市内にある同大学とを往復するのは難しいと判断した経緯もある。

学業でも優秀さを誇った頭脳こそが、長く現役を続けられた秘訣だと同学年の遠藤は言う。

「すごく身体能力があるわけじゃないけど、それでも40歳を超えるまでプレーできたのは、それだけハッシー(橋本さん)が頭のいい証拠。サッカーを深く理解しているからこそだと思う」

西野、オシム、岡田。3人のリーダーから学んだ「選手を見る目」

練習生からレギュラーへと昇華した要因は、戦術眼を磨いていく過程で自分の弱点を消し、球際の攻防で不利にならないポジショニングを突き詰めたからだ。その意味では異彩を放つ指導者になる可能性をすでに秘めていると言っていい橋本さんは、同時に自分に足りない部分も見すえている。

それは自身を成長させてくれたガンバの西野、代表での岡田両監督の無言の「厳しさ」だった。

ガンバは連覇を目指す06年シーズンに大型補強を敢行した。新戦力のなかに02年のワールドカップ日韓共催大会に臨んだ代表メンバーで、ボランチで橋本さんとポジションがかぶる明神智和氏がいた。

「優勝したと言ってもまだまだ自分の力が足りない、さらに成長していかないとこの先に生き残っていけない、というメッセージだったと思っています。そのように考える時間を西野監督が作ってくれたおかげで、日本代表への初招集にも繋がったんじゃないかと僕は思っています」

こう振り返った橋本さんは07年3月に、イビチャ・オシム監督に率いられる日本代表に初めて招集され、同年6月のモンテネグロ代表との国際親善試合で国際Aマッチデビューを果たした。さらに3つのキャップを積み重ねたなかで、同年末にオシム監督が病魔に倒れてしまった。

2度目の登板となった岡田監督のもとで、08年1月の国際親善試合、2月の東アジア選手権に招集された橋本さんは、高校の大先輩でもある岡田監督のシビアな視線を感じ続けていたと明かす。

「呼ばれた時点で代表から切られる雰囲気が充満していた感じでしたし、実際に東アジア選手権で結果を出せなかった僕は、その後は呼ばれなくなってしまったんですね。その後のACLやクラブワールドカップでのプレーを評価してくれて、(09年に)再び呼んでもらえましたけど、そこでも力が備わっていなかったので、南アフリカで開催された(10年の)ワールドカップメンバーには選ばれませんでした」

初めて代表に呼んでくれたオシム氏を含めて、3人の監督の共通点を橋本さんはこう語る。

「選手を見る目というか、いろいろと細かいところをしっかりと見るけれども、決して多くを伝えるわけでもない。そのなかで深みがあるというか、ちゃんと感じ取れる選手には伝える。逆にある程度以上は感じられない選手は切ってしまうというか、シビアに見られる監督たちでした」

これまで元選手の引退試合に参加した経験のない本田圭佑を含めて、05年シーズンを中心とするガンバと、オシム及び岡田ジャパンの元チームメイトたちが実に50人以上も集結。西野、岡田両氏が指揮を執った引退試合の豪華絢爛ぶりは、橋本さんの人望を抜きには語れないだろう。

脇役を自任する性格を含めた温和な人柄は、理路整然とした口調と合わせて「指導者・橋本英郎」の武器になる。同時に泣いて馬謖(ばしょく)を斬るようなドライな一面も、状況によってはプロ監督に求められる。

日本サッカー協会(JFA)が発行する公認指導者ライセンスを、橋本さんはすでにA級まで取得している。今後はカメレオン型指導者を具現化させるための具体的な方法論を含めて、現時点の自分自身に足りないものを貪欲に吸収しながら、最上位のS級ライセンス取得への準備を本格化させていく。

<了>

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