いつまでもボールを蹴られると思っていた。もっと言えば、当たり前の生活が続くと思っていた。
(インタビュー・構成・撮影=松尾祐希)
好奇心旺盛な幼少期。Jクラブの育成組織でキャリアをスタート
今から24年前。柴田晋太朗は神奈川県の鎌倉市で生を享けた。
「最初は湘南ベルマーレのスクールや個人レッスン、(サッカースクールの)クーバーなどに通っていました。他の習い事もやっていて、水泳、空手、習字もやりました。そこから小3に上がるタイミングでF・マリノスのセレクションを受けたんです」
小学2年生まではスポーツから文化系の習い事まで幅広くトライし、3年生から本格的にサッカーを始めた。選んだクラブは横浜F・マリノスプライマリー。同級生にはMF山田康太(現・ガンバ大阪)がおり、一つ上には今でも親交があるGK早川友基(現・鹿島アントラーズ)、DF常本佳吾(現・セルヴェットFC/スイス)が所属。プロサッカー選手を目指し、Jクラブの育成組織でキャリアをスタートさせた。
チームメイトたちはいわゆるエリート。世代のトップを走る選手たちに囲まれ、晋太朗は笑顔を絶やさずにボールを蹴った。しかし、壁は厚い。簡単に主役になれるほど甘い世界ではなかった。
「たまに飛び級で上の世代のチームに参加させてもらったりはあったんですけど、レギュラーをガッチリつかんでいたわけではなかった。トレセンにも選ばれていなくて、僕が受けるレベルに達していなくて行かせてもらえなかった。試合に出ている時と出ていない時の波がかなりあって、6年生になっても絶対的な存在ではなかったんです」
卒業後は街クラブでプレーすることを考えたのも自然の流れ。当時は身体が小さく、自分の武器を100%発揮できなかったからだ。
「周りの選手がうまかったし、自分よりも優れているというのは感じていた。ジュニアユース昇格の声がかからなかったのは、身長が小さかったことも影響していたかもしれない。技術では負けない自信があったけど、スピードや身体の強さでは勝てなかったので。自分の技術を発揮できないもどかしさはあった」
冷静に見据える現在地。街クラブでの躍動
一方で、小学生ながら冷静に自分と向き合って次の行き先を考えていた。
「自分の気持ちが乗っていたり、自分の間合いでプレーできていれば誰よりもできる自信はあった。うまくいっている時とできていない時のバランス。その波があったので、ジュニアユースへの昇格ができないことを伝えられたときは納得できたし、(身体ができてくれば)上で通用する感覚はあった」
自分は他者からどう見えているのか。
「悔しさが爆発するよりも、一歩引いて、自分を客観的に見る。幼い頃からなんとなくそういう行動をとっていた。周りからも達観していると言われるし、考え方が大人で、冷静で平常心を持っていて、感情で片づけないようにしていた」
そうしたスタンスで自分と向き合い、次のステージで選んだのは街クラブだった。地元・神奈川の強豪であるFC厚木ジュニアユースDREAMSで、晋太朗は飛躍のきっかけをつかんだ。
「僕のサッカー人生において、上向いてくる時期になった。プレー面で自由にやらせてもらえたんです。戦術面を教えてもらい、飛び級で上のカテゴリーでもプレーさせてもらいました。なので、下級生の頃から高校の強豪校やJユースから目をつけてもらえたんです」
ガラッと変わったサッカー人生。特に中学3年生を迎えると、攻撃的なポジションでその才能をいかんなく発揮した。
「3年生になってからはトレセンでも活躍できた。
活躍できた理由は身体ができ上がったことも無関係ではないが、メンタル面の成熟が大きかったという。
「自信を持ってプレーできるようになった。F・マリノスにいた頃はずっと萎縮してプレーしていたし、周りの選手がうまかったので、足を引っ張らないように頑張らないといけないと思っていたんです。周りに矢印を向けた状態で何年間もサッカーをしていたので、胸を張ってプレーができていなかった」
飛躍の年になることを信じて疑わなかったが…
なぜ、前向きな状態でプレーできるようになったのか。それは自分が置かれた立場が変わったからだという。
「言い方は難しいけど、F・マリノスのレベルが高かった。なので、(中学時代は)自分が引っ張る立場になったので、逆にそれが良かったのかなと。自分が活躍できる環境で苦労を重ねた結果、自信がついたんです。ジュニアユースに上がれず、自分としては下に落ちてしまったイメージがあった。この3年間で活躍をしないと、プロサッカー選手になれないと思っていました。3年間でアピールをしてJクラブの育成組織や強豪校から声がかからなかったらプロにはなれないなと。そういう意味では追い込まれていたので、本当に死に物狂いで3年間を過ごしたんです」
その結果、次の進路を決める際には多くの選択肢を持つことができた。
「長い間進路を保留にするぐらい、ずっと悩んでいた。でも、家族の側で日本一とプロサッカー選手を目指すことを考えて日大藤沢を選んだんです。学校の成績も良かったので、文武両道でどっちにも打ち込める。サッカーの環境も良くて、人工芝グラウンドもあったので」
入学すると、早い段階からトップチームで活動する機会を得た。トレーニングは神奈川県リーグ1部で戦う先輩たちと共に行い、週末はBチームの一員として県リーグ2部のゲームに出場。全国大会のメンバーには選ばれなかったが、1年生の頃から同世代の仲間たちよりも一歩先を歩いて研鑽を積んだ。
そして、迎えた2年目。飛躍の年になることを信じて疑わなかったが、少しずつ身体の不調が見られるようになっていた。
「6月ぐらいから重さを感じるようになったんです。痛みとかはなかったんですけど、肩の上に重石がのっているような感じ。何か持ち上げようとしてもできないみたいな。
親の心配をよそに「そんなに深刻になる必要あるのかなと」
騙し騙しやっていた中で晋太朗の身体はついに限界を迎えた。17歳以下の神奈川県選抜に選出され、2016年の8月に行われた韓国遠征の時だった。
「相手選手と接触したら、信じられないぐらいの痛みが襲ってきた。息ができないぐらいで、これは無理だなと……。プレーに集中できない。日本に戻ったらまず病院に行こうと初めて思ったんです」
もともと晋太朗は痛みに強く、簡単には音を上げないタイプだった。「好きじゃない」という病院も滅多に行かない。そんな男が初めて自ら足を運ぼうと思うほど、強烈な痛みと戦っていた。
9月の上旬。地元でお世話になっている整形外科に向かった。
「レントゲンを撮影したんですけど、骨肉腫は見分けにくいんです。ただ、たまたま院長先生が肩に異変を見つけて、『ちょっと骨端線が開いているから病院に行ってみたら?』と言ってくれたんです」
紹介状を書いてもらい、東海大学の大学病院でMRIを撮った。そして、その検査結果を再度地元の病院に持っていき、今の状況を告げられた。
「腫瘍がある、一刻も争う病気だ」
ただ、晋太朗は深刻に捉えていなかったという。主治医に切羽詰まった言葉で伝えられても、重く受け止めていなかった。
「そんなに深刻になる必要あるのかなと。腫瘍があるぐらいにしか思っていなくて、親にもなんか肩にできたから明日もう1回病院に行くと伝えたぐらいで。でも、親は『え?』ってなって、『明日私が一人で病院に行く』って言い始めて。翌日に病院に行って、先生と話したんです。おそらく先生も詳しい話を僕にできなかったと思うんですけど、そこから親が慌てていろんな病院を回ったんです」
親の心配をよそに晋太朗は骨肉腫という認識を持っていなかったため、一緒に病院に向かっている最中も楽観視をしていた。自分で腫瘍について調べることもなかったという。
その中で受け入れ先が見つかり、父親の知人の伝手もあってがん研有明病院に向かうことに。2010年に右大腿骨に骨肉腫が見つかった当時大宮アルディージャ所属の塚本泰史氏を治療した主治医が担当となった。
一から検査をし、自分の身体に何が起こっているかは理解できた。それでも、晋太朗の心境は変わらなかったという。
「ただ、骨肉腫ということを告げられて、ようやく癌であることを認識した。でも、気持ち的にはまったく慌てていなかった」
人生の帰路に立たされたが、晋太朗は動じなかった。目の前の敵と戦うだけ。サッカーと同じように全力で相手を倒しにいくという気持ちで、病魔に立ち向かった。
【後編はこちら】「どんなに泣いても病気は治らない」フットゴルファー柴田晋太朗、病魔と戦う前向きな姿勢生んだ“夢”の存在
<了>
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