ボブ・ディランの孫であるパブロ・ディランは、ラッパーという肩書きを捨て、フォークシンガーとしての道を歩むことを決意した。「僕は世界一ビッグなスターになりたい」と、ローリングストーン誌に語ってくれた、若干23歳のパブロ・ディランの野望とは?

約7年前、「ボブ・ディランの孫がラッパーとして活動中」というニュースが世間を賑わした。
パブロ・ディラン(ボブの長男のジェシーの息子)は当時まだ15歳で、完成させたばかりのミックステープのプロモーションに励んでいた。「祖父はきっと、僕の世代にとってのジェイ・Zみたいな存在なんだ」彼のそのコメントは、ネット上の隅々にまで拡散されていった。「彼のことは死ぬほど尊敬してるよ」非オフィシャルのディラン家は滅多に公の場に出ないが、叔父にあたるジェイコブが20年前に試みたように、パブロもまた音楽業界へと足を踏み入れたのだった。世間知らずでナイーブだったパブロは、史上最高のソングライターのひとりを祖父に持ち、偶然にも20世紀を代表する芸術家と同じ名を有することで、世間からの厳しい批判に晒されることになるとは夢にも思っていなかった。

「当初は僕の曲のことなんか誰も気に留めないだろうと思ってたんだ」彼はそう話す。「最初の1ヶ月の視聴回数は限りなくゼロに近かった。でもその後、いくつかのブログが取り上げてくれた途端に状況が一変したんだ。たかだか15歳の子供に、「死ね」なんてツイートを向けてくる人間がいるなんて思いもしなかったよ。面食らったけど、そういうのを早い段階で経験できたおかげで、メンタル面はかなり鍛えられたね」

そして今、マンハッタンのミッドタウンにあるサブウェイの店内に腰掛けた彼の隣には、アコースティックギターのケースが置いてある。最新EP『The Finest Somersault』のプロモーション目的で、彼はニューヨークを訪れていた。当面ラップからは距離を置くことにしたという彼が夢中になっているもの、それはフォークだ。その方向転換が彼の祖父との比較を加速させることは確実だが、それがどのみち避けられないことをパブロは知っている。
ミュージシャンとして歩んできた道のり、ディラン一族のひとりとして背負ったプレッシャー、そしてホメロスやエドガー・アラン・ポーからハンク・ウィリアムスやチャーリー・パットン、さらにはユリシーズ・グラントといった偉人たちから受けた影響まで、パブロ・ディランがローリングストーン本誌に語ってくれた。

ー 初期の音楽体験について教えて下さい。音楽にのめりこむようになったきっかけは何でしたか?

ザ・クラッシュだね。子供の頃から大好きで、父のお気に入りのバンドでもあった。妹や従兄弟と一緒に、いつも「ロンドン・コーリング」「トレイン・イン・ヴェイン」「ジミー・ジャズ」なんかを聴いてた。どの曲にもすごく思い入れがあるよ。

ー彼らはジャンルの壁を軽々と飛び越えてみせました。

僕はヒップホップのレコードを作り始めた時、ザ・クラッシュの本当の魅力を理解した気がしたんだ。サンプリングをやるようになって、それがまさに彼らがやってたことなんだって気づいた。異なる要素を持ち寄ってユニークなものを作る、それって両者に共通してるからね。

ーあなたは何年生まれですか?

1995年だよ。

ーつまりあなたは2000年代初頭にそういった音楽を聴いていたと?

そうだね。
クラッシュに限って言えば、生まれて間もない頃からずっと聴いてたけどね。ウチじゃいつも音楽がかかってたから。クラッシュ以外にも、ロバート・ジョンソンとか、チャーリー・パットンとかね。一番多かったのはフォークだと思う。6歳の時に初めてエミネムを聴いた時は、ものすごく衝撃を受けた。あんなにも攻撃的な音楽は聴いたことがなかったから。僕はジャンルの違いっていうのを意識したことがないんだ。ジャンル分けをする意味が理解できない。僕がアコースティックギターを弾いてるってだけで、世間は僕のことをフォークのミュージシャンだって捉える。シェイクスピアは演劇だけじゃなくてソネットも書いたけど、彼は両者を区別したりしなかった。そんなことはどうでもよかったんだよ。

ーパブロというのは本名ですか?

そうだよ。
パブロ・ネルダにちなんでるんだ。

ー世間の大半はピカソにちなんでいると思っているはずです。

(麻薬王の)パブロ・エスコバルにちなんでると思ってる人はもっと多いよ。

ーあなたが幼かった頃、あなたの父親は『ビー・バッド・ボーイズ』や『アメリカン・パイ3:ウェディング大作戦』といった映画を撮っています。撮影現場に行くことは多かったですか?

そうだね。父さんの撮影現場にも行ったし、祖父のコンサートにもよく行ったよ。小さな頃から何度もね。

ー父親の仕事ぶりから学んだことはありましたか?

やるからには最高のものにしないといけないってことと、絶対に妥協しないってことだね。

ーずっとミュージシャンになることを夢見ていましたか?

最初はバスケの選手になりたいと思ってた。ひどい怪我をして諦めたんだけど、そもそも僕はNBAに行けるほどの選手じゃなかったんだ。背も高くないしさ。でも音楽がやりたいって気持ちは、小さな頃からずっとあったよ。
ヒップホップやR&Bからポップ系アクトまで、いろんなタイプのアーティストをプロデュースする機会に恵まれたのはラッキーだったね。

ーあなたのキャリアはオリジナル曲をネット上で公開することから始まりました。そうしようと思い立ったきっかけは?

ラップトップとキーボードだけで作った曲がたくさんたまってたんだ。子供の頃からギターやピアノも弾いてたから、コードの知識もあった。一番のインスピレーションはカニエ(・ウエスト)だったね。

ービートの作り方はどうやって学んだのですか?

独学だよ。毎日何時間も自分の部屋にこもって、全パートに納得がいくまでひたすら没頭してた。大きかったのはDavid Bannerと知り合えたことだね、僕は彼からいろんなことを教わったから。彼は僕の大切な友達だけど、師匠でもある。特に勉強になったのは、他人が作ったビートを完コピするっていうやつだった。課題曲は(カニエ・ウエストの)「オール・オブ・ザ・ライツ」で、僕は丸2ヶ月かけて、あの曲のありとあらゆる音を完全に再現してみせた。曲を解体するっていう作業を通じて、僕は自分なりのビートの組み方を学んだんだ。
プロダクションについての知識を身につけてからは、他のアーティストをプロデュースするようになった。

ー「オール・オブ・ザ・ライツ」に限らず、『マイ・ビューティフル・ダーク・ツイステッド・ファンタジー』からの影響は大きかったんでしょうね。

カニエの作品の中でも一番好きなアルバムだね。あのアルバムには、僕が子供の頃から慣れ親しんだロックンロールの要素が詰まってるんだ。実は「オール・オブ・ザ・ライツ」と「ロンドン・コーリング」のリズムは同じで、単なるバリエーション違いなんだ(両曲をハミングしてみせる)。ラップから今のスタイルに転向した理由についてよく聞かれるけど、コードとメロディ、リズムと歌詞で構成されてるっていうのは、あらゆる音楽について言えることなんだよ。

ー学業との両立に苦労したことはありましたか? 音楽をやりたいという気持ちがありながら、化学の授業に集中することなどは難しかったのでは?

僕は化学はまるでダメだった。毎日のようにセッションするようになってからは、学業はおざなりになっていったね。だから大学に行こうとも思わなかった。やりたいことがはっきりしているのに、別の道に進むための勉強をするなんて馬鹿馬鹿しいからね。エリカ・バドゥ、エイサップ・ロッキー、D.R.A.M、Goody Grace、Brent Faiyaz等と仕事ができたのはすごく幸運だった。

ーあなた自身がラップする曲を公開するようになってから、世間からの中傷は激化しました。
そのことには傷つきましたか?

当時はね。でも最近じゃ笑い飛ばしてるよ、そういう奴らのことが愛おしく思えるくらいさ。僕は自分の深い部分にあるものを音楽として表現してるし、中傷なんかいちいち気にしていられない。音楽は僕の魂の声であり、身体中を流れる血に宿っているんだ。音楽をやることは自分の使命だと思ってる。誹謗中傷を浴びせられた経験も含めて、僕はトップに立ちたいと思うようになった。そのためには血の滲むような努力をしないといけない。僕がプロデュース業について学ぶことにしたのは、世間からアーティストとして見られることなくスキルを培うためだったんだ。

ーあなたが大学に行かないことに、家族は反対しましたか?

家族は僕のやりたいことに理解を示してくれた。大学に行きたくないっていう僕の意思を汲んでくれたんだ。でも高校は卒業したよ。高校中退だけは認めないって、家族からも言われてたからね。高校で自分が何をしてたのかは、はっきり言ってほとんど覚えてないんだ。当時の知り合いで、今でも連絡を取り合ってるやつは1人もいないし。とにかく自分に縁のない場所だった。唯一印象に残ってるのは、ホメロスのことを教えてくれた英語の先生だね。とにかく夢中になったし、それは今も変わってない。ホメロスは僕にとって指標みたいなものなんだ。

ーホメロスとは随分古典的ですね。

そうだよね。今の世の中は過去の偉人たちが作り上げた土台の上に立ってるんだってことを、人は時に忘れてしまいがちだと思う。アレクサンドロス3世はアキレスに憧れ、実際にアキレスに極めて近い存在になり、若くしてこの世を去った。リンカーンはシェイクスピアから多くを学んでいるし、ジョン・ウィルクス・ブースもそうだ。

ー再び自身の名前で曲を発表するようになった理由は?

僕は数多くの才能ある人々と仕事をする機会に恵まれたけど、プロデューサーっていう職業はレコード会社との退屈なやりとりも多いんだ。レーベルは曲を自作しないアーティストと契約を交わしておきながら、彼らをどう売り出すべきか把握していない。トップの人間たちが重要視するのは、売れそうな曲を確保できる人間をそばに置くことだ。でも優れた曲を書きたいだけの僕にとって、そういう役回りは結構しんどいんだよ。そのうちにだんだん嫌気がさしてきたんだ。

そんな頃にトランプが大統領になって、誰もがどうかしちゃったんじゃないかと思えるような世の中になった。僕の周囲の共和党支持者は民主党を支持する人々のことをまるで理解できなかったし、その逆もまた然りだった。そんな状況下で、人々の心をひとつにするような何かが求められているような気がしたんだ。それで僕はギターを手に取って、自分が本当に書きたい曲を書くことにしたんだよ。

ビートルズのハンブルクでの武者修行時代のことや、ロバート・ジョンソンが墓地でギターのテクニックを磨いたっていうエピソードに感化されたっていうのものあるよ。自分もそういう経験をすべきだと思って、出演させてもらえそうな場所を手当たり次第にあたっていった。ギターを片手に小さなバーに飛び込んで、「演奏させてくれないかな?」って頼むんだ。オーケーしてくれるところもあれば、門前払いされることもあった。そういう時は店の外で演奏してたよ。

ー道端で演奏していたと?

そうだよ。ホームレスのギャラリーが集まってきたこともあった。通りを行き交う人の大半は、「何だこのギターを抱えた変な髪型のガキは」と思ってただろうね。時には雨に打たれながら、朝の4時とか5時まで路上でギターを弾いてた。

ー世間の捉え方は「ラッパーがフォークシンガーに転向」ということになりますが。

長い話ははしょられるもんだからね。でも気にしないよ、僕は曲に真実を語らせたいから。僕はいつも自問自答してるんだ、他のアーティストのことを意識することに意味はあるのかって。エドガー・アラン・ポーも、シェイクスピアも、ホメロスも、自分の表現と関係あるのかって。多分そうじゃないと思うんだよ。

ーあなたはこれまでにEPを発表していますが、アルバムのリリース予定はありますか?

今作ってるところだよ。6月頃に出せたらと思ってるけど、もう少し先になるかもしれない。ベストを尽くすよ。

ー全米ツアーの予定は?

もちろんやるつもりさ。隅々まで回りたいね。

ー姓を他の名前に変えようと考えたことはありますか? あまりに大きなプレッシャーを伴うと思うのですが。

考えたこともないよ、それが僕の名前なんだからさ。家柄は家柄でしかない、今はそう思ってるし、そこから逃げるつもりはないんだ。僕は祖父のことが好きだし、それって孫として当然のことだよ。彼が成し遂げたことには、心の底から敬意を表してる。でも僕は僕だからね、自分以外の誰かになろうなんて思わないよ。自分に宿命があるとすれば、自分自身でいることだと思ってる。名前を変えるなんてことは、そもそも自分の意思で決めるべきじゃないと思う。いろんな事情があって名前を変える人もいるけど、僕にそんな選択肢はないんだ。

ー出会った人々に懐疑心を抱くことはありますか? あなたの家柄を理由に近づいたんじゃないかと思ったりはしませんか?

思ってしまうね。僕は小さな頃から知ってる仲間たちと今もつるんでいて、積極的に新たな出会いを求めていくことは少ないんだ。家族みんながそうなんだけど、僕は内向的な人間なんだよ。

ー内向的ながら取材に応じ、自身の音楽を世に広めようとしているわけですが。

たくさんインタビューをこなしてきたことで、どう対処すればいいか分かってるからね。すべてのインタビューが君みたいにいい人じゃないってことも知ってる。

ーあなたの祖父のことにしか触れない人もいると思います。

あまりにもひどい時は取材を中止してるよ。宣伝やお金目的で家族のことを世間に晒すなんて最低だから。(トルコ大統領の)エルドアンから金をもらって母国を売り渡したマイケル・フリンみたいにはなりたくないからね。あいつはクソ野郎で裏切り者さ。

ー去年気になったアーティストはいますか?

すごくハマッたのがあるよ。暗室でサン・ハウスが演奏してる映像なんだけど、過去数カ月で1000回以上観たと思う。天国で鳴ってる音楽があるとすれば、きっとこんな感じだろうって。

ーミュージシャンとしての目標は?

世界一ビッグなスターになりたい。あとはずっと曲を書き続けることかな。次のプロジェクトは今取り組んでるやつよりもすごくなるよ。アメリカがテーマなんだ。

ーコンセプトアルバムということですか?

ちょっと違うね、もっとリアルなものだよ。あちこちのバーで演奏してた頃、僕はいろんな物語に出会った。農家が中心の町と大都市じゃ、同じ演奏でもまったく違う経験になるんだ。同じ場所に止まっていたんじゃ、そういうことにはきっと気付かない。僕はそのことを伝えたいんだ。

ー影響を受けたアルバムを幾つか挙げてもらえますか?

ロバート・ジョンソンはいつも聴いてるね。彼の歌とギターは誰にも真似できないと思う。声とギターが溶け合っていくようで、どっちがどっちだか区別がつかなくなるんだ。あとはチャーリー・パットン。彼のリズムはニューヨークを走る列車の線路を思わせるんだ。だからこの街にいると、至るところで彼のリズムを耳にするよ。列車が通るたびにね。あとハンク・ウィリアムスも大好きだよ。

ーあえて言いますが、それらはまさにあなたの祖父が駆け出しだった頃に影響を受けていたアーティストです。

そうだね。でも彼はカニエやトラップは聴いてなかったはずだよ。

ーあなたの祖父の曲の中でお気に入りはありますか?

あらゆる曲が素晴らしいと思う。彼のレコードは全部好きだよ。

ー他に尊敬する人物は?

ユリシーズ・S・グラントだね。

ー本当ですか?

もちろんだよ。荒野の戦いに臨んだ彼は、「何が起きようとも、後戻りはできない」と記した手紙をリンカーンに送った。彼は囚われた奴隷たちを解放するために、身を呈して戦い続けた。この国の歴史において、彼の功績は最も偉大だと僕は思ってる。

ー多くの人間がリンカーンに、グラントはアル中で信用ならない人物だと進言していました。

同じことを主張したある人物に向かって、リンカーンはこう言ったらしいよ。「彼が好むウィスキーを突き止めろ。そして同じものを全ての将軍のところに送るんだ」リー将軍が率いる南軍との争いにおいて、彼は当初かつてない苦戦を強いられてた。毎朝のように「昨日我が軍の将官がまた1人命を落としました」っていう報告を受けながら、彼は「わかった。もう一度攻撃を仕掛けろ」って命令してたんだ。そして次第に、彼の軍が優勢になり始めた。彼が本当の実力を発揮するのは、ゲティスバーグの戦いの後なんだよ。

ー歴代の大統領による回想録の中でも、彼のものは最高峰だとされています。

そうだね。執筆はマーク・トウェインが担当したんだ。確か彼は同時期に『ハックルベリー・フィンの冒険』を書いてたはずだよ。

ーホメロス、チャーリー・パットン、グラント…どれも23歳の青年が興味を持つ対象とは思えないのですが、どういった経緯で関心を持つようになったのでしょうか?

さっきも言ったけど、僕は彼らのような存在になりたいんだよ。エドガー・アラン・ポー、ロバート・ジョンソン、エイブラハム・リンカーン、僕にとってはどれも等しく重要な存在なんだ。アメリカの発展に貢献し、歴史に名を残したっていう点においてね。共和党政権が永遠に続けばいいと思ってるけど、そうじゃなかったとしても、ずっと先まで語り継がれるのは彼らの言葉なんだよ。リンカーンと彼に続いたトウェインは、まるでアメリカンっていう言語が存在するかのごとく言葉を紡いでみせた。僕はリンカーンが残した書物を隅々まで読んだ。あらゆる言葉と文章に深い意味が宿っていて、無駄な要素が全く存在しないんだよ。

ーツアーに出ることを楽しみにしていますか?

アメリカのオーディンエンスの前で演奏することほど光栄なことはないと思ってる。僕はライブが何よりも好きなんだ。カリフォルニア以外の場所でショーをやって、行ったことがない場所を訪れるのを楽しみにしてる。街や人々の本当の魅力っていうのは、インターネット上の書き込みなんかじゃ伝わらないからね。

ーボブ・ディランの孫という理由だけで足を運ぶオーディエンスへの懸念はありますか?

そういう人がいたとしても、僕にはどうすることもできないからね。ステージに立つのは祖父じゃなくて僕なんだから。ショーの最中にヤジを飛ばされたこともあるよ。そいつに言ってやったけどね、「黙るか出ていくかどっちかにしな」ってさ。

ーその人物はどんなヤジを飛ばしたのですか?

くだらないことさ。「あの曲を演れよ」とかさ。

ーあなたの祖父の曲を演れと?

その通り。

ー傷つきましたか?

まさか。会場にいた他の人はみんな、僕の言葉に耳を傾けてくれてたと思うよ。そいつは1人で来てたんだけど、一体何しに来たんだって感じだったね。

ーそういった出来事にはもう慣れていると?

僕の宿命だからね、受け入れるしかないさ。君はそんな人じゃないけど、ジョン・キーツはジャーナリストに殺されたんだ。バイロンも評論家受けが悪かったしね。この国に限らず、才能ある人物は世間から追い詰められてしまいがちなんだよ。

ーいつの時代も、芸術作品は数百年遅れて評価される傾向があります。

ポーなんて文無しで、道端で呑んだくれてたからね。(F・スコット・)フィッツジェラルドは、この世を去った時には全ての著書が絶版になってた。そういう話を聞くたびに胸が痛むよ。芸術がかつてない影響力を持っていた時代において、彼らはアメリカ屈指の才能だったんだからさ。

ーあなたは生涯を音楽に捧げると決めていますか?

もちろんだよ。音楽は僕の根底にあるものだからね。それが自分にとってどれだけ重要か、言葉にするのは難しいけどさ。真夜中に急に目が覚めて曲を書いたり、何か他のことをしてる最中に曲のアイディアが降りてきて、何もかもそっちのけになって没頭するようなこともあるよ。アーティストはみんな、自分が作品を生み出す理由を説明できないんじゃないかな。さっきも話題に上ったけど、作り手が亡くなってから作品に対する評価が付いてくることって多いし。だからアーティストにできることといえば、持てる力をすべて注ぎ込んだものを残すことだけなんだよ。
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