Danny Goldbergが、1991年にニルヴァーナのマネージャーに就任した時、彼らはシアトルのシーンの若手注目株のひとつに過ぎなかった。
シアトルのシーンの住人の中には、巨大な波の到来を予見していた人物もいた。Jennie BoddyはSusie Tennantと共に訪れたシアトルのクラブOK Hotelで、『ネヴァーマインド』に収録されることになる曲を初めて耳にした時のことについてこう語る。「「ティーン・スピリット」と「リチウム」を聴いた時は、あまりの衝撃に開いた口が塞がらなかった。スージーは興奮のあまり過呼吸気味になってた。モッシュピットで暴れてる連中さえも、それがどれだけすごい曲かってことは理解してたと思う」
その数ヶ月後、彼女はOff Rampで再びバンドのライブを目撃した。「ドラムがグロールに代わったことで、ライブにおける新曲群のパワーはさらに増してた。彼らはたっぷり演奏して、ショーは深夜2時にようやくお開きになった。一旦は機材も全部片付けれらたんだけど、結局彼らはステージに戻ってきて、さらに数時間演奏し続けたの。カートはすごく幸せそうだったわ」
1月に『ネヴァーマインド』がビルボードチャートの首位を飾った時、ニューヨークタイムズ紙からレーベルのマーケティング戦略について尋ねられたゲフィンのEddie Rosenblattは、記者に対し「邪魔だ、失せろ」と言い放った。
マーケティングにおいてバンドが重視したのは、従来のファンを失うことなく新たなリスナーを多数獲得することだった。アーティストたちが頭を悩ませるレコード会社やメディアとの摩擦は、ロックのリスナーの価値観と大きく関係している。自分とごく少数の友達だけが夢中になっていたアーティストが有名になり、仲の悪いクラスメイトがその曲を口ずさむのを耳にして一気に思いが冷めるというケースは少なくない。そういったことを気にかけていたカートは、10代だった頃の自分が納得する形で成功に対処したいと考えていた。彼はこじんまりとしたサブカルチャーのシーンの住人であることを自覚しながらも、大勢のオーディエンスと共にアンセム的コーラスやパワフルなリフに熱狂する喜びも知っていた。
百聞は一聴にしかずだった当時、音楽業界における最重要マーケティングツールはラジオだった。CMJの統計の対象となるカレッジ系ラジオ局は、「スリヴァー」と『ブリーチ』と収録曲を頻繁にプレイするなど、早い段階からニルヴァーナを支持していた。パンクロックとしてのニルヴァーナのファンを繋ぎ止めておく上で、若いカレッジDJたちは不可欠な存在だった。バンド側から言われるまでもなく、レーベルは『ネヴァーマインド』のプロモーションをカレッジ系ラジオ局へのアプローチからスタートさせた。
その一例として、「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」のミュージックビデオにおけるペップラリーに登場するエキストラたちは、ロサンゼルスの空港の近くにあるLoyola Marymount Universityが運営に携わる非営利目的のコミュニティラジオ局、KXLUを通じて公募された。
カートを同スタジオまで車で送ったのは、ロージーと呼ばれていたプロモーション担当の若手社員John Rosenfelderだった。一方クリスとデイヴを乗せた車の運転は、プロモーション部門のアシスタントだったSharona Whiteが務めた。「僕らの車は405の高速を並走していたんだけど、メンバーたちは窓越しに食べ物を投げたりしてじゃれ合ってた」ロージーはそう話す。当日、初めてインタビューの場で『ネヴァーマインド』について語った彼らは、翌日に予定されていた「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」のミュージックビデオ撮影への参加をリスナーに呼びかけた。
インディーのファンを大切にしようとする一方で、バンドがメジャーレーベルと契約を交わしたのにはいくつか理由があった。そのひとつは、より大衆的なラジオ局で曲をかけてもらうことだった。
そういったラジオ局は広告主へのアプローチを念頭に置き、スポンサーらが求めるリスナー層にアピールするジャンルにそれぞれ特化していた。ポップ(またはトップ40)系のラジオ局は10代前半の子供たち、特に女性リスナーをターゲットとしていた。一方でロック系のラジオ局は10代後半の若者や大学生のリスナーが中心で、その大半は男性だった。
メジャーレーベルにおける制約の多くは、そういった各ラジオ局への依存に由来していた。レコード会社のプロモーションチームがどれほど有能であろうとも、彼らはラジオ局のお偉方たちの前ではひたすら頭を下げるしかなかった。その一方で、各ラジオ局は常にリスナーの顔色をうかがっているという状況だった。自身も熱心なリスナーであるラジオ局のコンサルタントたちもまた、やはりリスナーの動向を常に注視していなくてはならなかった。悪い評価が2~3期続くと、彼らは転職を迫られるからだ。広告スポンサーからの出資金額はその評価に基づいて決定されており、特に評価の高いラジオ局はリスナーにチャンネルを変えさせる傾向がある曲を敬遠した。アーティスト名に無頓着でラジオをBGMとして楽しむ人々と、コンサートのチケットにお金を払う熱心なリスナーを、広告主たちは区別しようとしなかった。アーティストやレコード会社の人間は、関心の低いカジュアルリスナーこそが最も影響力を持っているように感じていた。
評価の高いロック系ラジオ局の大半が、ポイズンやスキッド・ロウ等のいわゆるヘアーバンドのメロディックでポップな曲を好んでかけたことには、そういったマーケティングの影響力が大きく関係していた。またそういったバンドの人気は、MTVでのヘヴィーローテーションによってさらに加速していた。市場を独占していたMTVは各ラジオ局よりも多様で幅広いプレイリストを作成できるとしていたものの、番組編成を担当する人々はそういったラジオ局の出身であることが多く、彼らがそういったマーケティングの影響を受けていることは間違いなかった。
市場の大きな地域では2つ以上のロック系ラジオ局が存在し、18歳から~35歳の男性リスナーの奪い合いを繰り広げるケースもあった。その一部はヘヴィーメタルに特化し、オジー・オズボーンやパンテラの曲を頻繁に流していた。ロック系とメタル系の両方から支持され、名実共にアメリカで最もビッグなバンドとなっていたガンズ・アンド・ローゼズの「スウィート・チャイルド・オー・マイン」は、ポップ系ラジオ局においても重宝されていた。
カレッジ系ラジオ局にはバンドのパンク的側面を強調しながらも、より大衆的なラジオ局にニルヴァーナを売り込むにあたって、ロージーは彼らがジェーンズ・アディクションやフェイス・ノー・モア等に代表される「オルタナティブ・メタル」というニッチなカテゴリーに属し、両ジャンルのリスナーにアピールできると主張した。より多くのリスナーを獲得するためにレーベルが使ったその謳い文句に対して、バンドは不平を言わなかったという。しかしカートは、そういったラジオ局で無数のインタビューをこなすことに対しては懸念を示していた。メタル系のメディアはバンドの音楽を評価する一方で、彼の容姿はその典型的なイメージからかけ離れていたためだ。
『ネヴァーマインド』が発売される数ヶ月前、Silvaと共にドジャースの試合を観にいく途中の車内で、私のパートナーは(DGCの)Mark Katesにアンディ・ウォレスがミックスした同作の音源のテープを聴かせた。「ものすごくビッグで、KNAC(ヘヴィーメタルに特化したロサンゼルスのラジオ局)でもかけてもらえるかもしれないと思った。それが叶えば、ゴールドディスク(90年代当時はアメリカ国内で50万枚以上を売り上げたレコードを対象としていた)も狙えると思った」カレッジ系やインディー系のみならず、バンドがメタル系のラジオ局にもアピールできるという点を、ロージーはレーベルのプロモーションチームの前で強調したという。「DGCのスタッフに『ネヴァーマインド』を聴かせる時、Gershはボリュームを思いっきり上げた」
この段階になってレコード会社は、ニルヴァーナがソニック・ユースよりもビッグになるかもしれないと考え始めていた。マーケティングの成果による商業的成功のみならず、そのアルバムは様々カルチャーを収束させる稀有な現象を引き起こす可能性を秘めていた。
ニルヴァーナを売り込んでいく上で、当初最も妥当なカテゴリーと考えられたのは「オルタナティブ・ロック」(あるいは「モダン・ロック」)だった。KROQをはじめとするロサンゼルスのラジオ局は、疫病のように蔓延するメタルやヘアーバンドの曲を敬遠しつつ、カレッジ系ラジオ局から火がついた人気の曲をかけていた。デペッシュ・モード、ザ・スミス、ザ・キュアー等はメインストリームのロック系ラジオ局から敬遠されつつも、KROQのサポートによって南カリフォルニアに大きなファンベースを確立していた。
KXLUでのプレミアの翌日に、全米のCMJ系ラジオ局がこぞって「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」をかけたことは予想通りだったが、Katesの地元ボストンのWFNXを皮切りに、ロサンゼルスのKROQ、サンディエゴの91X等、規模の大きなオルタナロック系ラジオ局が即座に同曲をプレイリストに加えたことには興奮を隠せなかった。カート、クリス、デイヴの3人は業界におけるハイプから一定の距離を置こうとしていた一方で、彼ら自身やその友人たちが好んで聴いていたメジャーなオルタナロック系ラジオ局でバンドの曲が流れたことには、人知れず喜んでいたに違いない。
翌週、Silvaと私が出席したDGCでのマーケティング会議の場で、Katesは興奮を抑えきれない様子だった。メジャーなラジオ局は通常、プレイリストに新たに加わった曲は日に1~2回プレイし、リスナーからの反応を見つつ、数週間後にローテーションのペースアップを検討するというステップを踏む。しかし各ラジオ局には既に、「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」をかけて欲しいというリスナーからのリクエストの電話が殺到していた。圧倒的な要望に応じる形で、わずか数日後に幾つかの主要局は同曲をヘヴィローテーションさせることを決定した。アルバムの発売はまだ数週間先だったが、Farrellのところには各インディーレコード店に予約が殺到しているという知らせが届いていた。当時はレコードのプレオーダー自体が極めて稀であり、インディーでアルバムを1枚発表しているだけのアーティストとしてはまさに前代未聞だった。

コートニー・ラヴ、フランシス・ビーン・コバーン、Danny Goldberg、そしてカート・コバーン(Photo by Jeff Kravitz/FilmMagic)
『ネヴァーマインド』が大々的な宣伝や積極的なマーケティングを必要としなかったことを、クリスは誇りに思っているという。「後年になってインターネットが普及すると、人々はマーケティングが作り出した現象と、ユーザーに求められて生まれた文化を区別するようになった。俺たちは紛れもなく後者だった」
ラジオ局でシングルが解禁された翌週、ソニック・ユースのブッキングエージェントBob LawtonがSilvaに電話をかけてきた。彼は前日の夜にニューヨークで開催されたガンズ・アンド・ローゼズのコンサートに足を運んでおり、開演前のBGMで「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」のイントロが流れるやいなや、客席から大歓声が上がったという。その話を聞いて、我々は興奮せずにはいられなかった。ニューヨークにはメジャーなオルタナ系ラジオ局が存在しなかったが、彼らの多くはオルタナロックを中心にプレイしていたロングアイランドのWDREで曲を耳にしていたのだろう。そういった状況下で歓声が起きたことは、あの曲が驚くべきスピードで浸透していることを物語っていた。それに我々は、ガンズ・アンド・ローゼズのファンがニルヴァーナを好きになるとは思ってもいなかった。
そういった明るい兆候にもかかわらず、ゲフィンのスタッフの多くは未だにニルヴァーナのことを、話題にはなるが大きな利益を出さないコアなバンドだとみなしていた。レーベルのプロモーションチームはそういった見方を改めさせるべく、同社のオフィスがあるサンセットストリップの真向かいにあった伝説的ライブハウス、Roxyでニルヴァーナのライブを企画するよう我々に依頼した。オルタナ系アクトには無関心だったレーベルの重役も、ライブを見ればバンドが秘めた可能性を理解するはずだと彼らは考えていた。シングルのミュージックビデオを撮影した直後だった8月半ばに行われたそのライブには、レーベルのほぼ全社員が出席した。
私が数十年後にゲフィンの社員たちと話した時、彼らはあの時のライブが自身のキャリアにおいて至福の瞬間だったと語った。500人収容のRoxyは人で埋め尽くされ、その大半は業界人だったが、中にはバンドのファンやミュージシャンもいた(ロージーによると、メタルバンドのウォリアー・ソウルのシンガーが「ブリード」の最中にモッシュしていたという)。当日のニルヴァーナは、真骨頂であるタイトでパワフルなパフォーマンスを見せつけた。ライブ後のカートはいつものようにショーの出来を悲観し、ギターの弦を切ってしまったことを悔いていた。私はマネージャーの責務としてライブの出来を讃えたが、それは紛れもない本心だった。
ライブ終了後、サンセット通りを挟んだ向かいにある社屋に向かいながら、私は何人かのレーベルの重役と言葉を交わした。「1964年にロンドンでザ・フーを観た時のことを思い出したよ」Robin Sloaneは熱っぽくそう語った。Robert Smithは物思いに耽った様子で、私に向かってこう言った。「彼らのレコードは、本当にゴールドディスクを狙えるんじゃないかな」
『ネヴァーマインド』の発売日、バンドのメンバーたちにはシアトルにいるべき理由があった。ロージーは彼らのいつにない真面目さに驚いたという。「アルバムが発売になる週に僕はシアトルにいて、Susie Tennantと一緒にKCMUとKISWを訪れた。そこでメンバーたちは、とてもビジネスライクにインタビューをこなしてた。時間通りに現場にやってきたし、ジョークを飛ばす余裕さえも見せてた」アルバムの発売日には、バンドはシアトルのレコード店Peachesで行われるリリースパーティーに登場することになっていた。現場に向かう前、プロモーション活動にやや疲れていたメンバーたちは、彼女の仕事場でもあったTennantの自宅で休憩することにした。「奥行きのあるリビングにゲフィンのCDが大量に置いてあったんだけど、彼らはそれをドミノみたいに並べてた。デイヴとカートは私のドレスを着て、そのCDの列に体当たりしてたわ」DGCにとって初めてのヒット作は10代の兄弟ポップデュオ、ネルソンのレコードだったが、カートはTennantの口紅を手に取り、そのゴールドディスクに落書きしたという。
店内に入りきらないほどのファンが詰めかけたそのイベントで、彼らはインストアライブを行った。「すごく楽しいショーだったわ」Tennantはそう振り返る。「オーディエンスの大半は、そこで初めて新曲を聴いたの」当日、カートは普段とは異なるプランを用意していた。「Riot Grrrlのファンジンをそこで売ってもらおうって、彼は提案したの」Tennantは顔をほころばせながらそう話す。「バンドにとって特別な日なのに、彼は古い友人たちの力になろうとしてたのよ」
Jennie Boddy曰く、イベント終了後に店内の窓から通りに目をやったカートは、サブ・ポップ時代のパートナーであるBruce Pavittが通りの縁石に座り、頭を両手で抱えた状態でタクシーを待っているのを見つけたという。カートはどこか切ない親しみをこめて、彼に向かってこう叫んだ。「お父さん鳥だ!今すぐこの巣から飛び立たなきゃ!」
アルバムリリース当初、メンバーはハメを外しすぎても大目に見てもらえることが多かった。ピッツバーグのクラブでは控え室のソファに火をつけたが、大きな問題に発展することはなかった。その一方で、ロージーは当時をこう振り返る。「カートはあらゆることに明確なヴィジョンを持っているようだった。ポスターひとつとっても、何年も前からデザインを練ってたかのようだった。メンバーの3人は仲が良かったけど、インタビューを陽気なノリでいくのかシリアスな内容にするのか、そういったことはカートが独断で決めてた。フードファイトが起きる時、ピザのスライスを最初に投げつけるのも決まって彼だった」(フードファイトのことは取材をした何人かの人間が口にしているが、私は現場に居合わせたことがない。カートは自分よりも17歳上の私に気を使ったのだろうが、嬉しいような寂しいような複雑な気分だ)
カートとアクセル・ローズは後に犬猿の仲となるが、『ネヴァーマインド』がリリースされる何週間も前から、ローズは面識のなかったバンドをサポートする姿勢を見せている。「ドント・クライ」のミュージック・ビデオで、彼はプロモーション用に作られたニルヴァーナのハットを被っている。もう1人の意外なサポーターは、元ヴァニラ・ファッジのドラマーでメタル界のアイコン、カーマイン・アピスだ。彼が結成したばかりだったブルー・マーダーはゲフィンと契約しており、彼はいち早く手にした『ネヴァーマインド』を聴いて感銘を受け、Circus誌に寄せたドラミングについてのコラムでグロールのことを賞賛している。
秋が終わりを迎える頃には、ロサンゼルスにあるメタル専門局KNACで7曲がローテーション入りしていた。ロージーはこう振り返る。「ダラスに拠点を置きつつ全米にネットワークを持っていたメタル専門局、Z-Rockのプログラムディレクターは当初、ヴァン・ヘイレンを好むようなトラックの運転手たちはニルヴァーナを敬遠するのではないかと危惧していた。でも蓋を開けてみれば、『スメルズ・ライク・ティーン・スピリット』はZ-Rock史上最も多くプレイされた曲になった」
当時ロージーはまだ20代前半だったにもかかわらず、伝統的なプロモーションにこだわっており、ニルヴァーナの繊細な一面を把握しきれていない節があった。カートの一部はロックンローラーとしての自身に誇りを持ち、エアギターで唸りを上げるようなリフを弾いていた。しかしその一方で、フェミニストでありゲイの人々をサポートしていた彼は、男性が中心のメタルヘッズたちが自分のそういった部分に共感するとは考えにくかったことから、レーベルによるメタル方面への積極的なアプローチには複雑な思いを抱いていた。バンドがゲフィン本社を訪れたある日、CMJのメタル部門のエディターと電話していたロージーは、カートを驚かせようと受話器を手渡した。彼はこう語る。「カートは口を閉ざしてしまって、Silvaは僕が彼を痛めつけたと言った」それからしばらくの間、カートはロージーとの間に距離を置くようになったという。

当時はロック系とポップ系両方のラジオ局でもてはやされるロックの曲が、必ず年に幾つか生まれていた。その多くはポイズンの「エヴリ・ローズ・ハズ・イッツ・ソーン」のような、キャッチーなロックバラードだった。私とGershとSilvaの3人は、『ネヴァーマインド』の中でポップ系ラジオ局でかけてもらえる曲があるとすれば、比較的穏やかでメロディックなフックのある「カム・アズ・ユー・アー」だろうと考えていた。しかし「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」の圧倒的な反響は、瞬時にして我々に考えを改めさせた。ヒットを確信しているものに倍賭けすることは、音楽業界における定石だ。
私はゲフィンのポップ部門のプロモーション担当者に、同曲を冒険心のあるポップ系各局に売り込んでみてはどうかと提案した。彼はオブラートに包みながら、当時そういったラジオ局で受けていたのはポーラ・アブドゥルのような踊れる曲であり、ラウドなギターを使った曲はもれなく敬遠されていると諭してくれた。シアトルのTop 40系ラジオ局へのアプローチについても、私は彼を説得することはできなかった。しかしほどなくして、アトランタのポップ系ラジオ局Power 99のディレクターだったLeslie Framによって、その問題は解決されることになった。現地の各レコード店でオルタナティブ・ロックの売り上げが伸びていることに気づいていた彼女は、アトランタのTop 40系オーディエンスが新鮮さを求めているのかどうか、その試金石となるようなレコードを探していた。『スメルズ・ライク・ティーン・スピリット』を聴いた時、衝撃で開いた口が塞がらなかった」Framは当時をそう振り返る。同曲が圧倒的な支持を集めたことで、彼女とスタッフたちは局のコンセプトをオルタナ寄りに変更し、その名前を99Xに改めた。それをきっかけに、ゲフィンのプロモーション担当者は心変わりした。また多くのポップ系ラジオ局が99Xに追従したことも、バンドにとって追い風となった。「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」はポップのフィールドでヒットし、ビルボードのHot 100チャートで6位を記録した。
ポップ系ラジオ局での支持を勝ち取ったことで、ニルヴァーナは独自の立ち位置を確立した。彼らの音楽はパンク、大衆寄りのオルタナティブ、メタル、メインストリームのロック、そしてポップのリスナーにまでアピールすることが証明された。それはまさに、カートがずっと昔から思い描いていたヴィジョンだった。彼が日記に記していたお気に入りのアルバムリストには、アバやブラック・サバス、R.E.M.、そしてブラック・フラッグが頻繁に登場していた。
当時MTVは、アメリカの音楽文化において絶大な影響力を誇っていた。1992年の終盤に、カートはアルゼンチンの記者にこう語っている。「アメリカじゃMTVは神のような存在だ。ものすごい影響力を持っていて、誰もが見てる」黄金期のR.E.M.の作品を多数手がけ、『MTV アンプラグド』を含むニルヴァーナのプロジェクトにエンジニアとして関わったスコット・リットはこう語る。「当時のMTVの影響力は絶大で、誰も彼らに逆らえなかった。50年代のポップスのラジオ局と同じで、長いものには巻かれるしかなかった」
Amy Finnertyは1989年に、MTVで雑用係として働き始めた。ほどなくして親しくなったJanet Billigから誘われる形で、彼女はイースト・ヴィレッジにあったPyramid Clubで行われた、『ブリーチ』を発表したばかりだったニルヴァーナのライヴに足を運んだ。「凄まじいライヴだったわ。ショーが始まったのは深夜0時よりも後で、オーディエンスはせいぜい20~30人程度だったけど、カートは演奏後に思いっきりギターを破壊してた」ライヴの後、バンドのメンバーたちと共にJanetの自宅に行った彼女は、そこで初めてカートと言葉を交わした。
数ヶ月後、ニルヴァーナがコロムビア・レコーズとのミーティングのためにニューヨークを訪れていた際に、彼女はコンサート会場のバックステージでカートに会い、改めて自己紹介した。彼はこう言ったという。「俺のことを知ってるなんて信じられないな、ちっぽけなバンドなのにさ」カートとクリスは彼女がMTVという「巨大企業」に勤めていることを冷やかし、冗談で彼女にビールを浴びせるふりをしたという。
1991年の夏、Finnertyは22歳になっていた。当時彼女は、カートのルーツである80年代のパンクカルチャーにまだ夢中だった。MTVの番組編成を担当していた人々は、全員が彼女よりも10歳以上年嵩であり、そういったカルチャーへの理解が乏しかった。MTVでは毎週月曜日に、どのミュージックビデオをどの程度の頻度で流すかを決定する「音楽会議」が開かれており、彼女は若者ならではの感性と情熱をもって、その会議に自身を参加させるよう上層部の人間たちを説得した。「私はヒエラルキーの最下層にいたけれど、彼らがターゲットとする層と同年代の人間はチーム内に私しかいなかった。他のメンバーは勤続10年以上の古株ばかりで、フィル・コリンズみたいなアーティストが今時の若者から支持されると考えてた」
各レコード会社で「オルタナティブ」ロックを推していた人間たちは、MTVを味方につけようと躍起になっていた。夏が終わりに差し掛かる頃、ゲフィンはニューヨークのエレクトリック・レディ・スタジオでガンズ・アンド・ローゼズの新作のリスニングパーティを開催し、Mark KatesはFinnertyを招待すると共に、イベント後に『ネヴァーマインド』のテープをいち早く渡すと約束した。「ガンズ・アンド・ローゼズは別に嫌いじゃなかったけど、2枚組アルバムの試聴会はとにかく長くて、早くニルヴァーナのテープをもらって帰りたいってずっと思ってた。イベントが終わって、徒歩で自宅に向かいながらウォークマンでそのテープを聴いたんだけど、これは大ヒットするって確信したわ」
番組編成の担当者たちが週末に検討できるよう、ミュージックビデオは金曜日に送られることが多かった。「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」のミュージックビデオがFinnertyのオフィスに届いた時、そこには前日に彼女のアパートに泊まっていたスマッシング・パンプキンズのメンバーがいた。彼女はビリー・コーガンと他のメンバーをMTVの重役たちに紹介して回っていたが、すべてのオフィスで流れていた「もうひとつのクールなバンド」のミュージックビデオに、彼らは衝撃を受けていたという。Finnertyはその日のことをこう振り返る。「社内全体に興奮が渦巻いていて、そのビデオを一目見ようと、面識のない人々が次から次へと私のオフィスにやってきた」
週明けの会議に先駆けて、Finnertyは上司のAbbey Konowitchとプライベートでミーティングを行い、ニルヴァーナのビデオを即座にヘヴィローテーション入りさせるよう直談判した。「私の読みが外れて曲がヒットしなかったら、私を会議のメンバーから外していいって伝えた。自分のキャリアを賭ける覚悟だった」Konowitchは彼女の気概を評価しながらも、その週に空いていたヘヴィローテーションの枠はひとつだけであり、そこには多くの視聴者を獲得していたガンズ・アンド・ローゼズの新作ビデオを投入しなくてはならないと主張した。しかし彼はFinnertyに、その翌週にニルヴァーナのビデオをヘヴィローテーション入りさせることを約束した。
『ネヴァーマインド』の発売から数日後の9月29日、そのミュージックビデオはMTVのオルタナ専門番組『120 Minutes』でプレミア放送され、その後「ミディアム」ローテーション扱いとなった。それは約1年前に公開されたソニック・ユースの「クール・シング」と同じケースであり、同曲は数週間後にはプレイリストから外された。そのパターンに陥るのを回避するため、私はMTVにビデオをヘヴィローテーションさせることの必要性を、ゲフィンのスタッフたちの前で力説した。Finnertyの助力によって、翌週にビデオがヘヴィーローテーション入りすることが既に決定していたことを、その時私はまだ知らされていなかった。
「数週間のうちに、私のキャリアは一変した」Finnertyはそう語る。社内における彼女の地位は急上昇し、以降彼女はバンドが解散するまでニルヴァーナに関する案件を一任されていた。MTVはニルヴァーナを世に浸透させる上で決定的な役割を果たしたが、後にバンドが最も視聴者を稼ぐアーティストのひとつになったことを考えれば、両者の関係は持ちつ持たれつだったと言える。カートはMTV側からプレッシャーをかけられる度に怒りを露わにしたが、彼らのサポートは必要としていた。普段からMTVを視聴していた彼はニルヴァーナが大きく取り上げられることを望む一方で、そう願っている自分自身のことを嫌悪してもいた。
カートは『ネヴァーマインド』から3つのミュージックビデオを作ることを主張し、MTVが主宰するイベントへの出演オファーは積極的に受けた。アルバム発売から1ヶ月後、MTVのヘヴィーメタル専門番組『Headbangers Ball』に出演した際に、カートはヴィンテージのカナリーイエローのボールガウン(女性用ドレス)姿で登場した。司会役のRiki Rachtmanにその理由を尋ねられると、彼は恥ずかしそうにこう答えた。「だってこれはBall(舞踏会)だろ?」20年後にMTVのウェブサイトで公開されたインタビューで、Rachtmanはカートから何かを聞き出そうとすることは「歯を抜こうとするような」苦痛を伴ったとし、「彼は明らかに居心地が悪そうだった」と語っている。ヘヴィーメタルの番組でパンクスらしい不機嫌さを示すことで、彼は自身が抱えるジレンマを表現していた。彼が新旧両方のファンに伝えようとしていたのは、自分がマッチョイズムを嫌悪していながらも、ヘヴィーメタルの番組に取り上げられることを悪く思っていないということだった。不満を露わにしたRachtmanとは異なり、FinnertyとMTVの重役たちはカートの行動に理解を示した。
KatesとSmithがゴールドディスク獲得という目標を掲げた時、その達成には1年の期間、そして多くの知恵と努力を要するだろうと考えていた。Roxyでのショーによってゲフィン社内でのバンドに対する評価は上がったものの、アルバムの初回プレス枚数は5万枚にとどまっていた。それは『ブリーチ』の売り上げ枚数を上回ってはいたが、大きな反響を見越しているとは言い難い数字だった。初回プレス分は各店舗であっという間に完売し、レーベルには膨大な量の再注文が入った。発売からわずか18日後の10月12日には、『ネヴァーマインド』はゴールドディスク(出荷枚数50万枚)に認定された。Boddyはこう振り返る。「シアトルの人間はみんな興奮してた。『ネヴァーマインド』の成功を、皆自分たちのことのように感じてたんだ。『俺たちの勝ちだ!』って感じでさ」カート、クリス、デイヴの3人は素直に喜ぶ一方で、目まぐるしく変化していく状況の中で、成功を現実として受け止めきれずにいた。私の目にはバンドが、手にした成功から必死に目を逸らそうとしているように映った。
筆者自身はそういった複雑な思いとは無縁で、「俺は世界一ビッグなバンドのマネージャー」などと、勝手にこしらえた自作の曲を運転中に口ずさんだりしていた。前年にインタースコープ・レコードの設立に携わっていたジミー・アイオヴィンに、私はここぞとばかりに自慢した。「これは俺が今まで手がけたどのプロジェクトよりもビッグになる」電話口で意気揚々と話す私に、アイオヴィンは好意的な様子でこう返した。「ザ・ポリスを思い出したよ」その度胸がどこからきたのかは不明だが、私は「ニルヴァーナはポリスよりもビッグになるさ」と答えていた。完全に浮き足立っていた私がどんなに大きな期待を抱こうとも、『ネヴァーマインド』はそれを大きく上回る結果を出した。
ラジオとMTVで大衆に働きかける一方で、熱心なリスナーはレコードを買った。『ネヴァーマインド』の発売直前にバンドがニューヨークを訪れた際に、Janet Billigはメタリカが新作のリスニングパーティーを開催するマディソン・スクエア・ガーデンにカートを連れていった。メタリカが好きな彼は機嫌を良くしながらも、『ネヴァーマインド』にメディアが否定的な態度を示した場合への対処について考え込む様子を見せたという。かつてMontgomeryとサーストンの前で語ったように、カートは「アバウト・ア・ガール」に触れつつ、自分がずっとメロディックな曲を書いてきたことをBilligの前で強調した。彼が言わんとしたのは、メジャーレーベルと契約したからといって、自分がスタンスを変えたわけではないということだった。彼はパブリシストのジャネットを通じて、インディーやサブカルチャー系のジャーナリストたちに自身の考えを伝えたかったのだろう。彼女はこう振り返る。「あらゆるメディアに目を通してたカートは、ロックにおけるインディーとメジャーの間で常に揺れ動いてた。そして彼は、その両方を振り向かせてみせた」
カートの憂慮は現実にはならなかった。パンクのジャーナリストたちは、バンドのスピリットを維持したままヴィジョンを押し広げた『ネヴァーマインド』で、彼らが一貫して追求してきた80年代のパンクカルチャーを開花させてみせたと評した。また同作は、シアトルのロックのコミュニティにおいても広く愛された。Boddyはこう振り返る。「アルバムはあらゆるメディアから高く評価された。Maximum RocknrollやFlipsideさえも好意的で、バンドがセルアウトしたっていう見方は皆無だった。サブ・ポップのプレス担当だった僕が言うんだから間違いないよ」
一方、メインストリームにより深く食い込もうと奔走していた私は、1985年にSpin誌を創刊した友人のBob Guccione Jr.と連絡を取った。パンクカルチャーを同誌のターゲット外と割り切っていた彼は、私と同じくビジネスマンだった。夏の終わりにランチを共にした時、彼は同年12月号でサウンドガーデンを表紙にするつもりだと語っていた(その時点では、サウンドガーデンはシアトルで最も人気のある若手バンドとされていた)。私は彼の前で、年が暮れる頃にはシアトルで一番のバンドはサウンドガーデンではなくニルヴァーナになっていると断言してみせた。Guccioneの若い部下の中には、私の意見に同調する人間がいたに違いない。その証拠に彼は、メジャー雑誌では初となるバンドの巻頭特集を、Lauren Spencerに執筆させている。
9月が終わりを迎える頃、状況が一変しつつあることを自覚していたカートは、Spinの巻頭特集では数週間前にレーベルが用意したアーティスト写真とは別のものを使うと主張した。写真撮影の前日、バンドはノーサンプトンにあったWOZQを訪れ、カートはスタッフの若い女性に髪を青に染めて欲しいと依頼した。初めて全米規模の媒体の表紙を飾ったバンドのあの写真は、そのフォトセッションで撮影されたものだ。
古参の批評家たちが『ネヴァーマインド』をアメリカン・ロックンロールの復権とみなしたことは、特筆に値することだった。深いテーマを扱うR.E.Mが大衆の支持を獲得したのは10年近く前のことであり、リスナーの大半は大学生かそれ以上になっているはずだった。ガンズ・アンド・ローゼズは10代のキッズを中心とするロックのシーンにアドレナリンを注入したが、彼らの音楽には文化としての深みが欠落していた。ロックが安っぽいポップスをラウドにしただけのものに成り下がったと嘆いていた中年の音楽評論家たちは、1991年後半にリリースされた『ネヴァーマインド』が、もはや完全に失われたと思われていた文化としてのロックを復活させたと評した。批評家たちはビッグなアーティストの作品を軽視する傾向があり、レビュー記事に目を通すオーディエンスはごく一握りだとされているが、『ネヴァーマインド』は圧倒的なチャートアクションを誇っただけでなく、何百人ものロック評論家の年間ランキングをもとに決定されるVillage Voice紙の名物企画、Pazz & Jop Pollにおいても堂々の1位を獲得した。
カートは至る所で、ニルヴァーナはピクシーズよりもビッグになるはずではなかったと発言している。それが本心ではなく、彼がリハーサルに臨む時のような覚悟を持って成功に対処しようとしていたことを、私はほぼ確信している。彼は内なる悪魔と格闘し続け、時には思いがけず手にした余りある名声を拒むそぶりを見せたが、アーティストとしてのカートは無意識のレベルでその才能を自覚しており、常に数ステップ先を見据えていた。
ラジオにおけるフォーマットの壁をまたいでみせたように、カートはロックジャーナリズムが生んだあらゆるカテゴリーから逸脱しようと努めていた。「俺は気分屋だと思われてるけど、男性ヴォーカリストには2種類しかないっていう固定観念は本当にくだらないと思う」彼はそう不満を漏らしている。「マイケル・スタイプのような気まぐれな天才肌か、サミー・ヘイガーのような頭空っぽのヘヴィメタパーティ野郎、そのどっちかしかないんだ」自身が名声を手にしつつあると自覚した時、カートはその両方を演じることにした。
ツアーで主要なエリアを初めて回った後、バンドが過去に出演した小さなクラブでライブをすべきだという考えは、Silvaとメンバーたちで一致していた。業界用語でunderplaysと呼ばれるこういったギグをこなすことで、バンドは核となるオーディエンスとの繋がりを保とうとしていた。ツアーは『ネヴァーマインド』の発売の1週間前に始まったにもかかわらず、「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」が恐るべき速さで浸透していたことで、各公演のチケットは即完売した。Montgomeryはこう振り返る。「ものすごい熱狂ぶりだった。どの会場でも、外にはハコのキャパシティ以上の数のオーディエンスが溢れてた」チケットを手に入れた人々は、来るアルバムがロック史に深々と刻まれるであろうことを確信しつつ、ありったけの情熱をぶちまけていた。
セントルイスのショーでは、セキュリティがステージに上がろうとするキッズたちを乱暴に押さえつける一幕があった。爆音が鳴り響く中でセキュリティをなだめるのは困難だと判断したカートはショーを中断し、大勢のキッズたちをステージに上げた。クリスはオーディエンスに向かってこう呼びかけた。「アナーキーってのは、各自が責任を負って初めて成立するんだ」
ゲフィンだけでなく多くのメディアが拠点を構えるロサンゼルスでは、できるだけ多くの人間を招待できるよう大きな会場を選んだ。『ネヴァーマインド』の発売から1か月後の10月27日、2200席を誇るPalace Theatreで開催されたショーはそれまでで最大規模だったが、チケットは瞬く間に完売した。バンドは連日優れたパフォーマンスを見せていたが、この日も例外ではなかった。終演後にバックステージにやってきたEddie Rosenblattは、一緒に来ていたアクセル・ローズをカートに紹介したいといい、バンドの楽屋を訪れてもいいかと相談してきた。私がその旨を伝えると、カートは露骨に顔をしかめ、ガンズ・アンド・ローゼズのシンガーと顔を合わせるつもりはないと言った。ゲフィンの社長の機嫌を損ねるのは得策でないと判断した私は、Rosenblattにパスを何枚か渡しつつ、彼らが来る前にカートを連れて会場を出るという案を出した。そうすれば彼らを怒らせることなく、両者が顔を合わせることもないと考えたからだ。カートは同意し、私は楽屋を出てRosenblattにパスを渡しつつ、メンバーが「着替え中」なので5分ほど待って欲しいと2人に伝えた。その直後、私はカートを連れて裏口から外に出た。後日Rosenblattから叱責されなかったことを考えれば、作戦はある程度成功したと言えるだろうが、ローズが気を害したことはまず間違いないだろう。
バックステージの廊下の角で、カートと私は関係者たちをやり過ごした。彼らの誰一人として、目立たないその華奢な男性が素晴らしいショーを終えたばかりのバンドのシンガーであり、服の下ではまだ汗が乾ききっていないことを知る由もなかった。その時カートは、彼の女性蔑視を否定する歌詞をメディアが集中的に取り上げたせいで、バンドが極端にシリアスでユーモアのセンスを持ち合わせていないと思われているという懸念を口にした。フガジやデッド・ケネディーズといった政治的主張を全面に押し出すパンクバンドを好む一方で、彼はニルヴァーナがそういった括られ方をされることを望まなかった。
メディアの解釈に不満を持つアーティストの愚痴を聞くのは、いつだって気持ちの良いものではない。できることといえば、取材を受けるメディアをより限定することくらいだからだ。相手にニュアンスをうまく伝えることは容易ではないという決まり文句で、私はその場をしのごうとした。
その時のカートの返答が今でも記憶に焼き付いているのは、その時に彼の慧眼ぶりが自分の思っていた以上だということに気付かされたからだ。彼は事務所にいる時にも見せた耐え忍ぶような表情を浮かべつつ、私の言葉を穏やかに遮ってこう言った。「わかってる、俺はその原因についてずっと考えてたから。俺が思うに、レーベルが記者たちに配ってるプレスキットに書いてある政治的な内容の部分が問題だ」
私が責任を負うべき事柄について、彼は私よりも把握していた。バンドのオフィシャルの「バイオグラフィー」は大半が荒唐無稽だったため、ゲフィンはバンドに関する初期の記事の一部を追加し、その中にはレイプに対するプロテストソング「ポーリー」を取り上げたものが含まれていた。そのことに気づいていなかった自分を、私は情けなく思った。その部分を削除しろとレーベルに伝えるべきかと私が問うと、彼は感謝する様子で頷いた。「そうしてくれるとありがたいな」
そういったことへの対処は簡単だった。そうでなかったのは、その数週間前にカートが出会った人物のことだ。彼がこの世を去るまでの間、その人物は彼と関わりのあるすべての人々を振り回し続けた。
本記事は著者の許可を得て、『SERVING THE SERVANT: Remembering Kurt Cobain』の一部を転載したものです。