25年前にウィーザーがデビューアルバムをリリースした時、メンバーのリヴァース・クオモはコミュニティ・カレッジに通う学生だった。「学校にアルバムを持っていって見せびらかしたよ」彼は1995年のインタビューでそう語っている。「みんな素っ気なかったけどね。『ふうん、いいね』みたいな感じでさ」
彼のクラスメイトたちとは異なり、音楽業界は同作に大きな関心を示した。1994年5月10日に発表された『ブルー・アルバム』こと彼らのデビュー作は、カート・コバーンの逝去とグランジ黄金期の終焉を経験したオルタナロック界における一筋の光となった。クオモ、パット・ウィルソン、マット・シャープ、ブライアン・ベルの4人は、ビーチ・ボーイズ譲りの見事なハーモニーと、巨大なアンプとクランチーなディストーションペダルで飾った問答無用のフックの数々によって、エルヴィス・コステロのような”ロックスターらしからぬロックスター”となった。カーディガンやボウルカット、D&DやKISSのポスターに言及した歌詞、そして隠そうともしないオタクぶりは、バーゲンで買ってもらった初心者用の楽器を地下室で鳴らしていた若いMTVリスナーたちから絶大な支持を集めた。アルバムはチャートで最高位16位を記録し、アメリカだけで300万枚以上を売り上げた。
「僕は自分の気持ちを誰かに伝えるのが苦手だし、そもそも誰も僕のことなんか気にかけちゃいないし、リアルなことについて語り合うっていうのはまず無理だから、僕は自己表現としての音楽にますますのめり込んでいった」クオモは自ら執筆したレーベル用バイオグラフィにそう記している。ウィーザーを世に広めた楽曲群には、彼のトレードマークである倦怠感だけでなく、はっとさせられるようなロマンチシズム、そして抗いがたいメランコリアが宿っていた。また「バディ・ホリー」のミュージックビデオで、クォモが身につけていた眼鏡の裏側から滲み出ていた彼の孤独感は、賛否両論を呼んだ1996年発表の次作『ピンカートン』でより露わになる。
『ブルー・アルバム』はロック史上最も完成度の高いデビューアルバムのひとつとされるが、多くのフロントマンがそうであるように、クオモは同作を批判的に捉えている。
『ブルー・アルバム』の発売25周年を記念し、同作にまつわる10の知られざる事実を紹介する。
1. リヴァース・クオモは「アンダン~ザ・スウェター・ソング」について、メタリカの「ウェルカム・ホーム(サニタリウム)」のほぼパクリだとしている
60 Wrong Sausagesの残党たちで結成されたウィーザーの前身バンドは、わずか7回のリハーサルと、1991年の感謝祭の週末にカリフォルニアのペタルマにあるPhoenix Theatreで行われた1回きりのライブ後に解散してしまう。ギタリストのリヴァース・クオモとドラマーのパトリック・ウィルソンは新たなプロジェクトを始動させたが、クオモはそのコラボレーションについて厳密なルールを定めていた。「リヴァースはこう言った。『まずは50曲書く。それから最初のリハーサルをやる』」John D. Luerssenによる伝記『Rivers Edge: The Weezer Story』でウィルソンはそう語っている。50曲という目標にこそ至らなかったものの、2人はかなりの数の曲を書き上げ、その中には初期のライブでも頻繁に演奏されていた「Thief, Youve Taken All That Was Me」「ララバイ・フォー・ウェイン」や、後にアルバムに収録される「マイ・ネーム・イズ・ジョナス」「ザ・ワールド・ハズ・ターンド・アンド・レフト・ミー・ヒア」が含まれていた。
クオモが手がけた曲群の中には、同じくデビューアルバムに収録されることになる、彼のアート志向と無意識のうちに現れたヘヴィメタルからの影響が融合した曲が含まれていた。「『ザ・スウェター・ソング』は1991年に僕が初めて書いたウィーザーの曲だ。すごくハマってたヴェルヴェット・アンダーグラウンド風の曲を書こうとしていて、あのリフを思いついた」彼は2009年に本誌にそう語っている。「何年も後になって、僕はあれが『ウェルカム・ホーム(サニタリウム)』のほぼパクリだってことに気付いた。
皮肉と解釈されがちな「アンダン~ザ・スウェター・ソング」だが、クオモは一貫して「鬱についてのとても悲しい曲」と説明している。最初のデモ段階では、ポジティブ思考とネガティブ思考の対比を意図したナレーションが挿入されていた。「あの曲には元々、会話のオーバーラップっていうコンセプトがあった」バンドと縁の深いKarl Kochは、2004年の同作のデラックスリイシュー版に掲載される予定だった未発表エッセイでそう綴っている。「音を左右に振って、片方からは何もかもを嘆くネガティブ思考の声が、もう片方からはやたらと開放的なポジティブ思考の声が聞こえてくるんだ」1992年にデモをレコーディングした際に、クオモはKochにこの統合失調めいたオーディオコラージュを作らせている。くだらないと思いながらも、彼が「妙なレコードの数々」からサンプリングして作ったそのコラージュには、『スター・ウォーズ』(ダース・ベイダーの「お前は反乱軍の一味であり、裏切り者だ」というセリフ)や『ホビット』の一部が使用されていた。
『ブルー・アルバム』のセッション中、Kochは再び同様のマッシュアップものを作るよう指示された。「僕は引き受けた。ハンフリー・ボガートの映画やクリスチャン向けのラジオドラマ、スヌーピーのアニメ、『ブラックホール』のワンシーンまで、使えそうなサンプルを200点ほど集めた。最終的に15点まで絞ったサンプルをMIDIキーボードで鳴らし、ステレオ仕様のヴァーチャルな『対話』を作った」彼は後にそう説明している。その出来は申し分なかったが、ウィーザーのリリース元であるゲフィン・レコードは頭を抱えた。コストと時間の両面において、全サンプルの使用許可を取るのは現実的ではないと判断したゲフィンの重役たちは、最終的に同コラージュのカットを命じた。
2. プロデューサーのリック・オケイセックに敬意を示すべく、バンドはザ・カーズの名曲をカバーした
1993年にメジャーレーベル、ゲフィンの子会社にあたるDGCと契約を交わしたウィーザーは、外部からプロデューサーは迎えず、長く慣れ親しんだロサンゼルスのソーテル地区にあるAmherst Avenueにある小屋でレコーディングするつもりだった。郊外のガレージといった趣のその小屋で、バンドは数多くのデモを録っていた。「勝手を知った場所でレコーディングするのがベストだと最初は考えてた。できる限りプレッシャーを感じずに済むようにね」ベーシストのマット・シャープは1994年11月のインタビューでそう語っている。「レコーディングはロスで、俺たちの指示通りに動くエンジニアだけ雇いつつ、作品はセルフプロデュースするつもりだった」しかしより大きな野心を抱いていたゲフィンのA&Rチームは、名の知れた人物をプロデューサーに迎えることを強く勧めた。
当初クオモはその案に消極的だったが、ふとした時にザ・カーズの『グレイテスト・ヒッツ』を手にし、フロントマンでメインのソングライターだったリック・オケイセックの才能に惚れ込むようになった。「レコード会社は外部からプロデューサーを迎えるべきだと言って譲らなかった」クオモはLuerssenにそう語っている。「プロデューサーを立てるなら、優れたソングライターじゃないと駄目だと僕らは主張した。そこで真っ先に浮かんだのが、カーズの1stアルバムだった」幸運なことに、両者は相思相愛だった。「別のプロジェクトでロスにいた時に、ゲフィンの人間から彼らのテープをもらっていたんだ」オケイセックは2014年にMagnet誌にそう語っている。「車を運転しながら聴いたんだけど、すごい才能だと思った。
バッド・ブレインズ『ゴッド・オブ・ラヴ』のプロデュースのためロサンゼルスに来ていたオケイセックは、ウィーザーがリハーサルをしていたハリウッドにあるスタジオを訪れた。「レコード会社の人間が電話してきてこう言ったんだ。『今日リックが来るから』」シャープは1994年7月のインタビューでそう語っている。「『どうせ言ってるだけだろ』って感じで、最初は真に受けてなかった。でも当日、ドラマーのパットが彼を近くの楽器屋で目撃してたんだ。彼はこう言ったよ『こりゃ本当に来るかもしれないぞ』」彼との対面に備え、ウィーザーは急遽レパートリーにある曲を加えた。「僕らは『燃える欲望(原題:Just What I Needed)』をカバーすることにした」ウィーザーの初期ギタリストだったジェイソン・クロッパーはMagnet誌にそう話している。「茶目っ気と敬意を同時に示したってわけさ」(後にオケイセックはその急造カバーについて「すごくキュートだった」と話している)
オケイセックの過去の作品を聴き漁っていくうちに、バンドは自分たちの音楽との共通点を数多く見出していった。「カーズの初期の作品に夢中になった。音楽的に自分たちと近いものを感じていたんだ」シャープは1995年にAquarian Weekly紙にそう語っている。「コード進行やダウンストロークの使い方、メロディセンスなんかが似ていたし、タイトだっていう点も共通してた。『バディ・ホリー』は『燃える欲望』に似てると言えなくもないね」
オケイセックの気楽なキャラクターは、外部プロデューサーがもたらすストレスに対するメンバーの懸念を払拭した。
3. レコーディングのためにニューヨークへ飛ぶ前日、バンドはロサンゼルスのリハーサルスペースで一晩中どんちゃん騒ぎをした
1992年3月19日は、ウィーザーにとって記念すべき日だ。Hollywood Boulevardで初ライブを行った(キアヌ・リーヴスのバンドであるドッグスターの前座だった)だけでなく、その日彼らは長く愛用することになるAmherst Avenueの小屋を手に入れた。クオモとシャープはロックバンドを組んでいることは伏せ、自分たちがUCLAの映像学科の学生だと偽って大家を説得し、友人のJustin Fisherと共にそこに移り住んだ。その小屋の一部はほどなくしてガレージへと姿を変え、様々な楽器や安物のレコーディング機器が共用の洗濯機とともに持ち込まれたその場所は、彼らの専用リハーサルスペースとなった。防音のつもりでボロボロの茶色のカーペットを吊るし、壁にはエディ・ヴァン・ヘイレン、エース・フレーリー、ピーター・クリス、そしてX-Menのチームなど、彼らのヒーローたちのポスターが所狭しと貼られた。その空間を称えた『ブルー・アルバム』収録曲「イン・ザ・ガレージ」で、クオモはこう歌っている。「壁には大好きなKISSのポスターが貼ってある。
リハーサルや作曲セッション、デモのレコーディング、その他様々なイベントが行われたその窮屈な空間は、バンドにとって極めて重大な意味を持っていた。1993年8月7日、ニューヨークのエレクトリック・レディでデビューアルバムのレコーディングを翌日に控えた彼らは、そこでまたひとつ忘れられない思い出を作ることになる。「有頂天だった僕らの興奮が爆発した」Kochはそう綴っている。「言うまでもなく、そのパーティーは一晩中続いた。空港まで送ってくれることになってたDGCのDenise MacDonaldが(レーベルの取締役)Tom Zutautのレンジローバーでやってきた時、僕らは45分しか寝てなかった」MacDonaldは芝生の上で寝ていたメンバーたちを叩き起こした。彼らが飛行機に乗り遅れなかったのは、その小屋の唯一のトイレがいつの間にか粉々に破壊されていたためだった。
Amherst Avenueのリハーサルスペースへのトリビュートは「イン・ザ・ガレージ」だけではない。『ブルー・アルバム』のカバーの内側には、クワイエット・ライオットやジューダス・プリーストのポスターに挟まれた楽器の数々が映った白黒写真が掲載されている。またSophie Millerが監督を務めた1995年公開の「セイ・イット・エイント・ソー」のミュージックビデオは同スペースで撮影されており、洗濯機を使おうとするKarl Kochがカメオ出演している。ウィーザーのファンにとっては残念なことに、その建物は2005年にリノベーションされ、当時の面影はまるで残されていない。
4. B面曲「マイケル・アンド・カーリー」は、バンドのライブに向かう途中に交通事故に遭って逝去した2人のファンについての曲である
エレクトリック・レディでのレコーディング前に、リック・オケイセックは彼がよく使うニューヨークのリハーサルスタジオにウィーザーの面々を連れていった。「1週間かそこらをかけて、余分なものを削ぎ落とした」彼はLuerssenにそう語っている。「焦点の定まった簡潔なレコードにしたかったんだ」そのセッションに持ち込まれた15曲のうち、アルバムに収録されたのは10曲だった。そのうち「ララバイ・フォー・ウェイン」(「サーフ・ワックス・アメリカ」に似過ぎていた)「Getting Up and Leaving」「アイ・スウェアー・イッツ・トゥルー 」(どちらも『ピンカートン』のセッションに再び持ち込まれている)そして「イン・ザ・ガレージ」のリプライズ・バージョンの4曲は、早々にアルバムのトラックリストから除外された。もうひとつのボツ曲、「マイケル・アンド・カーリー」はエレクトリック・レディでレコーディングされたものの、『ブルー・アルバム』のリリースまで棚上げにされていた。しかし1994年の夏に行われたPaul duGreとのセッションで、同曲はシングルカットされた「アンダン~ザ・スウェター・ソング」のB面曲として再レコーディングされている。
同曲はマイケル・アランとカーリー・アランという、ウィーザーを初期から応援し続けていた正真正銘のファン2人に捧げた曲だった。「あんなにも親切でスウィートで、可笑しくてクールな人はそうはいない」Kochはその姉妹についてそう語っている。2人は1992年7月にClub Dump(後の悪名高きViper Room)でウィーザーのライブを観て以来、すっかりバンドの虜になっていた。その後アラン姉妹はバンドのメンバーたちとも親しくなり、「バンドを組んでる良き友人たち」のために様々な雑用を手伝い、「アンダン~ザ・スウェター・ソング」で使われた「パーティ会場での会話」のレコーディングにも協力した。2人はウィーザーのファンクラブの設立にも尽力し、メーリングリストの整理や郵便物の処理なども引き受けた。ファンクラブ会員番号0001と0002が与えられていた2人は、文字通りバンドの一番のファンだった。
アラン姉妹への感謝の気持ちとして、クオモは2人に曲を贈ることにした。彼は何日にも渡って2人に電話をかけ続け、2人の出身高校や自宅がある通りの名前などを聞き出したという。答えを聞くとすぐ電話を切ってしまうクオモに、2人は首を傾げていたに違いない。完成した曲は「Please Pick Up the Phone」というタイトルで、ハリウッドでのショーでお披露目された。いつものように最前列に陣取っていた2人は、感動のあまり涙を流していたという。
アラン姉妹は1997年夏に行われた『ピンカートン』ツアーにも同行し、ファンクラブの代表として誰よりも彼らのライブを楽しんでいた。しかしある日、ライブ会場に2人の姿がないことにメンバーたちは気が付いた。「2人はソルトレークでのショーに来なかった」クオモは当時MTV Newsにそう語っている。「2人の身に何かが起きたに違いないと思った。マイケルとカーリーの母親に電話をかけた僕らのマネージャーは、辛そうにこう言った。『2人は亡くなったそうだ』」7月8日の夜にデンバーで行われたコンサートの後、ソルトレーク・シティに向かっていた2人は、コロラドのライフル近くのRoute 70で交通事故に遭っていた。その事故はマイケルとカーリーだけでなく、同乗していた2人の妹トリスタの命も奪った。
悲しみに暮れたバンドのメンバーたちは、姉妹の葬式に出席するためにツアーを延期した。同年8月、バンドはロサンゼルスのPalace Theatreで行われた姉妹の追悼コンサートに参加し、その収益金は葬式費用として遺族に寄付された。当日披露された「マイケル・アンド・カーリー」は、以降15年近くに渡って封印されることになる。
5. 「マイ・ネーム・イズ・ジョナス」は、クオモの弟リーヴスが交通事故に遭った際に経験した保険の問題にインスパイアされている
クオモは過去に、彼の運命に対する悲観的思考を見事に表現した「マイ・ネーム・イズ・ジョナス」は、ウィーザーのデビューアルバムの冒頭を飾るに相応しい曲だと語っている。「あの曲は『期待』が外れるものだってことを表してる」彼はLuerssenにそう語っている。「僕の弟はそれを身をもって知った」ウィルソンと共に50曲の完成を目指したセッションで原型が生まれたという「マイ・ネーム・イズ・ジョナス」(イントロの指弾きフレーズを担当したジェイソン・クロッパーがクレジットされている唯一の曲でもある)は、1992年9月にオハイオのオーバリン・カレッジに向かう途中で自動車事故に遭い、深刻な怪我を負ったクオモの弟リーヴスについての曲だ。治療費の負担を要求した彼に対し、保険会社は友人の車に同乗していたそのケースは保険の適用外だと主張した。リーヴス(またの名をJames Kitts)は保険会社を相手に訴訟を起こしたが、1996年後半に控訴棄却されて敗訴している。
「マイ・ネーム・イズ・ジョナス」の歌詞のヒントになったのは、弟の保険の問題だけではない。同曲はロイス・ローリーが1993年に発表した12歳の少年ジョナスを主役とするヤングアダルトフィクション、『ギヴァー:記憶を注ぐ者』からも影響を受けているという。曲のタイトルは、そりを駆使する若き主人公の発言を引用している。また2番目のヴァースの冒頭に登場する「Wepeel」とは、クオモが子供の頃に遊んだそりに付けていた名前だという。
6. 「バディ・ホリー」の原題は「ジンジャー・ロジャース」であり、クオモは「安っぽ過ぎる」という理由で収録を見送ろうとしていた
「バディ・ホリー」の歌詞は、サンタモニカ・コミュニティ・カレッジに通っていたクオモの友人Kyung Heのレトロなヘアスタイルを、バンドのメンバーたちが馬鹿にしたことが元になっている。「僕の『仲間たち』は僕の『女友達』をコケにしてた」デモ集『Alone』のライナーノーツでクオモはそう記している。「滅多なことではメンバー間の揉め事は歌詞にしないことにしてる。その曲を演奏する時に気まずい空気になりかねないからだ。でもこの曲に限っては、特に問題ないと思った」曲の原型は、クオモが友人のKORGのキーボードをいじっていた時に生まれた。「間の抜けた」ヴィンテージなシンセのサウンドにヒントを得て、彼は捻りの効いたニューウェーヴの曲を作ろうとしていた。「コーラスの部分は、キャンパス内の芝生の上を歩いていた時に思いついた。歩調とメロディがマッチしたんだ」彼はそう振り返る。「でも歌詞には苦戦していて、ヒントになる題材を見つけようと悪戦苦闘してた。初期のバージョンには『君はジンジャー・ロジャースみたいだ 僕はフレッド・アステアのマネをする」っていうフレーズがあった」
テキサスを代表するロッカーの名前を引用しても、クオモはまだその出来に納得していなかった。デビューアルバムの制作に着手した段階でも、彼は「バディ・ホリー」がノベルティチューンとみなされるのではないかと懸念していた。しかしリック・オケイセックは、同曲をアルバムに収録するべきだと強く主張した。「『バディ・ホリー』の収録を渋っていた彼を、僕はこう説得した。『リヴァース、よく考えたほうがいい。まずは録ってみるんだ。出来が気に入らなければボツにすればいい。やってみる価値はあると思う。あんなに素晴らしい曲なんだから』」オケイセックはLuerssenにそう語っている。その後数日間にわたって、彼は同曲をプッシュし続けた。「朝スタジオにやってくると、『WE WANT BUDDY HOLLY』と書いた紙が置いてあった」シャープは2008年のBlender誌のインタビューでそう語っている。
「バディ・ホリー」は『ブルー・アルバム』からの2ndシングルに決定し、ミュージックビデオも制作されたが、それは必要に駆られたためだった。ブルースクリーンと固定カメラ、そして数多くの犬だけで強烈なインパクトを残した「アンダン~ザ・スウェター・ソング」のミュージックビデオによって、バンドから絶大な信頼を得ていた監督のスパイク・ジョーンズは、同曲のノスタルジックな面を強調することにした。「『ハッピーデイズ』のセットを使うっていうアイディアは、かなり早い段階からあった。エディターのEric Zumbrunnenと一緒に、僕は何百ものエピソードを見返した」彼は『Rivers Edge』でそう語っている。「Fonzieが踊るシーンを見つけた時は、金の鉱脈を探り当てた気分だった」メンバーの大半はそのアイディアを気に入ったが、リヴァースはギミック的過ぎるとして難色を示した。「最初は好きになれなかった。でも心のどこかでは、その素晴らしいアイディアを実現させるべきだってわかってた」彼は1997年にAlternative Press誌にそう語っている。
ジョーンズは『Arnolds』(10代の若者の間で人気を博した、50年代~70年代へのオマージュが多数登場するシットコム)のセットを再現しただけでなく、Al Molinaroを『ハッピーデイズ』での名物店長役で出演させた。1994年9月29日、直後にカーディガンを着ることになるウィーザーのメンバーたちは、撮影現場を目にして衝撃を受けた。「現場に到着した瞬間、これは素晴らしいものになるって確信した」ギタリストのブライアン・ベルはAlternative Press誌にそう語っている。「セットを目の当たりにして、衝撃で倒れそうになったくらいだ。エキストラはみんな既に衣装に着替えてた。一日中夢を見ているような気分だったよ」
2日間に渡った撮影の後、ジョーンズはその映像を『ハッピーデイズ』のアーカイブ映像(主に第53話『They Call It Potsie Love』)と継ぎ合わせ始めた。そのプロセスは困難を極めたが、それでもまだ『ハッピーデイズ』のキャスト全員から類似作を作ることを許可させるよりは容易だと思われた。「Potsieは作品への関与を一切拒否してた」シャープはBlender誌にそう語っている。デヴィッド・ゲフィンは個人的にPotsieを演じたアンソン・ウィリアムズに手紙を書いたが、状況が好転する決め手になったのはHenry ”Fonzie” Winklerがその案を許可したことだった。「(キャスト全員)最初は懐疑的だったけど、『Fonzがオーケーなら自分も』って言ってくれたんだ」シャープはMagnet誌にそう語っている。Winklerは後に、あのビデオのおかげで子供たちから「お父さんってクール」と言ってもらえたと話している。「喜んで協力を申し出たよ」彼はBlender誌にそう語っている。「Fonzならきっとウィーザーのレコードを持ってただろうからね」(同ビデオによって注目を集めた70年代のテレビスターは彼だけではない。「メアリー・タイラー・ムーアは、額縁に入ったサイン入りの写真を僕ら全員に送ってくれたんだ!」シャープはそう明かしている)
1995年に最も人気を集めたビデオクリップのひとつとなった同作は、MTV Video Music AwardsとBillboard Music Video Awardsでそれぞれ賞を受賞した。しかしより大きな影響を生んだのは、MicrosoftがWindows 95に同梱した「お楽しみ」CD-ROMにそのミュージックビデオが収録されたことだった。誰一人としてコンピュターを持っていなかったウィーザーのメンバーたちは、当初は彼らの許可なく事が進められたことに憤慨していた。「僕らに何の相談も無かったことに、最初は腹が立った。でも実際には、あれは僕らにとってものすごく幸運だったんだ」ウィルソンはそう話している。「現在の状況でいうとしたら、YouTubeで見られる唯一の映像に自分たちの作品が選ばれるようなものだよ」メンバーたちはその影響力の大きさを徐々に実感していった。「大勢の人に言われたよ。『Windows 95と一緒に配布されるのがどれだけ凄いことか、君は分かってない』ってね」ベルはMagnet誌にそう語っている。「僕はコンピューターを持ってなかったから、そのとてつもない影響力を実感しにくかったんだ」
そのビデオの爆発的人気に最後まで首を傾げていたのは、やはりリヴァース・クオモだった。「僕と僕らの曲があんな風に脚光を浴びていることが、不思議でならないよ」彼は1997年にそう語っている。「あのビデオによって、多くの人が僕らのことを知ったのは確かだ。けど僕らの映像作品の中でも、あれは一番好きになれない。自分が出ていなくて、誰か他の人の曲だったら、きっと気に入ってたと思う。素晴らしい出来だからね、そのことにはものすごく感謝している。でも僕は、あの作品と自分を結びつけることがどうしてもできないんだ」
7. ジェイソン・クロッパーはアルバム完成間近になって突如バンドを脱退し、クオモは彼が弾いたすべてのパートを丸一日かけて録り直した
1993年晩夏、バンドが長い時間をかけて制作を進めてきたデビューアルバムは、間もなく完成を迎えようとしていた。しかし、当時プライベートな問題を抱えていたギタリストのジェイソン・クロッパーは情緒不安定ぎみだった。「ロサンゼルスにいる彼女が電話してきて、ジェイソンにこう言ったんだ。『私、妊娠してるみたい』その日以来、彼は何もかもに過敏に反応するようになった。Karl KochはMagnet誌にそう語っている。「彼は明らかに情緒不安定だった。メンバーたちが何度か作業を中断させて、『大丈夫か? ちゃんとやれるのか?』と声をかけたこともあった。彼はその度に大丈夫だと答えていたけれど、数十分後にはエレクトリック・レディの屋上で意味不明な言葉を叫んだりしてた」
9月の初週、クロッパーのバンド脱退が決定した。秘密保持契約のため脱退の理由は明らかにされておらず、Luerssenから繰り返し尋ねられた際にも、彼は定型句のごとくこう答えている。「僕の脱退の理由については、内容がどうあれリヴァースの説明がすべてだ」クロッパーは後に、最終的な決断の引き金になったのは、彼女が事前の連絡なしに宿泊先も決めないままニューヨークにやって来たことだったと明かしている。「あれが決定打になった。リヴァースにこう言われたんだ。『もうこの無遠慮なやつには付き合ってられない』ってね。彼の言うとおりさ。彼は感情的になることなく、言葉を選びながらこう言った。『お前のことは好きだし、俺たちはこれからも友達だ。でもさ……俺たちが文字通り全てを注ぎ込んできたものが、今やっと実を結ぼうとしてるんだ。悪いけど、今のお前にはその成果を享受する資格はないと思う』」
クロッパーの脱退により、バンドは新たな問題に直面した。それはレーベルにどう説明するかということだった。「ああいうデリケートな事をどう説明していいか分からなかったし、アルバムの完成を目前にしていたから混乱は必至だった」Kochは後にそう語っている。「ジェイソンを辞めさせることには誰も異議を唱えなかったものの、デビューアルバムのレコーディング真っ最中でのリズムギター脱退を、ゲフィンが良しとしないことは目に見えてた。アルバムの完成は予定より遅れていたし、ひよっこバンドの細々としたトラブルに目を瞑ってくれていたレーベルのお偉方から見放されることだけは絶対に避けたかった」ニューヨークでのアルバムのミキシングが始まる2日前になって、シャープとクオモはロサンゼルスのパンクシーンの住人であり、Carnival Artでギターを弾いていた友人のブライアン・ベルに声をかけることにした。彼の予定と好きな『スター・ウォーズ』のキャラクターを確認し(彼の答えはハンマーヘッドだった)、バンドはベルをウィーザーの新メンバーとして迎えることを決めた。「オーディションの課題は一本のテープだった」ベルはStarline誌にそう語っている。「ゲフィンの人間からデモテープが送られて来たんだ。僕はその日のうちに4曲を覚えて、演奏を録ったテープをFedExでニューヨークに送り返した」
当初はベルをニューヨークに呼び寄せ、クロッパーのコーラスとギターパートを彼に録り直させる予定だったが、時間が尽きつつあったただけでなく、予算は既に上限を超えてしまっていた。新メンバーに過剰なプレッシャーをかけるのはよくないと考えたクオモは、その課題を自身でこなすことにした。「レコーディングの最終日にリヴァースが電話してきてこう言ったんだ。『ジェイソンはバンドを抜けた。だから彼のパートは僕が全部録り直す』」オケイセックはそう振り返る。「僕はこう返した。『そのまま使えばいいじゃないか。レコーディングはもう終わったんだ』しかし彼はこう言った。『だめだ、僕が全部録り直す。大丈夫、時間はとらせないから』僕としてはOKするしかなかった。僕らはすぐにスタジオ入りし、彼はその日のうちに全ギターパートを録り直した。しかも完璧にね」ベルは『ブルー・アルバム』にリズムギタリストとしてクレジットされているが、彼が実際に参加した初めての作品は、翌年の夏に発表された「アンダン~ザ・スウェター・ソング」のB面曲「スザンヌ」と「マイケル・アンド・カーリー」だ。
クオモとクロッパーの関係は脱退劇の直後から何年にもわたってこじれていたが、最終的に2人は仲直りしている。「ウィーザーのメンバーだった頃のことは、今となってはいい思い出だ。悪く言うつもりはまったくないよ」クロッパーは2000年代上旬にLuerssenにそう話しており、その数年後にはクオモとイトウ・キョウコの結婚式に出席している。2018年9月には、サンフランシスコのAugust Hallでソロライブを行ったクオモが彼をステージに登場させ、2人は『ブルー・アルバム』の数曲を一緒に演奏した。
8. ビーチ・ボーイズの安っぽいグレイテスト・ヒッツ・コンピレーションに触発されたアルバムのカバー写真は、プレイボーイ誌のフォトグラファーによって撮影された
「『ブルー・アルバム』には明確なヴィジョンがあったし、それはカバー写真についても言えたことだ」クオモは2010年にiTunes Originalsのインタビューでそう語っている。「あれが『ブルー・アルバム』と呼ばれるとは思わなかったし、『ウィーザー』って呼ぶ人もいないだろうと思ってた。僕としては無題にしたつもりだった」
ミニマルでありながら印象的な同アルバムのカバー写真はシリーズ化され、以降グリーン、レッド、ホワイト、ティール、ブラックと続くことになる。ビートルズの名盤『ホワイト・アルバム』を連想しがちだが、クオモの考えたコンセプトはそんなに大層なものではなかったという。「リヴァースが意識してたのは、ドライブインで売ってるような安っぽいビーチ・ボーイズのグレイテスト・ヒッツだった」Karl Kochは2014年にUproxx誌にそう語っている。「それは正規のベスト盤じゃなくて、正式には『Do It Again』っていうタイトルだった。アメリカの市場向けに作られたコンピレーションさ。(クオモは)それをカセットで持ってて、いつもウォークマンで聴いてた。ある日彼がこう言ったんだ。『カバー写真はこれでいこう。僕らにぴったりだ』」控えめに言って、レーベルの重役たちは彼のアイディアに困惑していた。「見せてもらったそのカバー写真では、ストライプシャツ姿のビーチ・ボーイズのメンバーがブルースクリーンの前でポーズをとってた」ゲフィンのA&R代表Todd Sullivanはそう語っている。「60年代のSearsのカタログ写真みたいで、正直戸惑ったよ。『そうか、ふーん…』としか言えなかった」
ゲフィンのアートディレクター、Michael Golobはそのアイディアにより理解を示した。「リヴァースからこう言われたんだ。『ごく普通の格好で、ただ立ってるだけの写真にしたい』リヴァースはスタイルってものと無縁でいたかったんだと思う」Golobはチーム全員のイメージを形にすべく、グラマーな写真を撮らせれば業界随一のPeter Gowlandに白羽の矢を立てた。Playboy誌のヌードやピンナップ写真で知られていた70代のGowlandはその依頼を快諾し、多くのバンドマンたちが「『愉快なブレイディー家』のゴージャス版」と形容する彼のプライベートスタジオに、ウィーザーのメンバーたちを招いた。「ブルーのバックグラウンドを使うっていうアイディアをPeterに伝えると、彼は巨大な壁板とその全体を覆うカーテンみたいなものを持ち出してきた」Kochはそう振り返る。「ピーターが指示を出す様は、まさにSearsのカタログ写真撮影さながらだった」
Golobは撮影した写真にいくつか編集を加えており、ブルーのバックグラウンドの明度を上げたほか、マット・シャープの頭部部分は彼が希望した表情のものに差し替えられている。その印象的なカバー写真はアルバムが発売されるやいなや、ニュージャージーのポストパンクバンド、ザ・フィーリーズの1980年発表のデビュー作『Crazy Rhythms』のジャケ写に似ていると指摘された。その存在を知らなかったウィーザーのメンバーたちのために、Kochは入手困難だったその作品を何とか手に入れて意見を求めたところ、彼らはこう答えたという。「悪いけど、僕らがパクったのはザ・フィーリーズじゃなくてビーチ・ボーイズだ」
9. バンドはアルバムがプラチナムを記録した後、「セイ・イット・エイント・ソー」を別バージョンに差し替えている
クオモが書き上げた「セイ・イット・エイント・ソー」は、タイトルこそ決まっていたものの、歌詞がなかなか付けられなかった。物悲しいそのタイトルフレーズからクオモが連想したのは、自宅の冷蔵庫内に継父の酒のボトルを発見した時に思い出した、子供の頃の辛い出来事だった。クオモはそのボトルを見て、彼が4歳の時に家を出て行った実の父親で、アルコール中毒のジャズドラマーだったFrankのことを思い浮かべた。家を出て行ってからも彼が酒浸りだったことを知っていたクオモは、冷蔵庫内のボトルは継父が自分を捨てる原因になるのではないかと危惧した。フィクションではあるものの、その時に感じた不安(および不在がちな実父に対する怒り)から生まれた「セイ・イット・エイント・ソー」の歌詞は、Frankをモデルにしたアルコール中毒の人物が「全てを整理」し、都合よく「神と出会った」ことでペンテコステ派の宣教師になるというエピソードを描いている。「当時の僕は怒れる若者だった。典型的なジェネレーションXで、何かあるとすぐに中指を立ててた」クオモは2014年に本誌にそう語っている。1995年に同曲がチャートを駆け上がると、Frankはクオモと連絡を取り、以降2人は少しずつ関係を修復していった。「今じゃ頻繁に会ってるよ」クオモはそう話す。「自分が父親になったことで、両親のことを許せるようになったんだ」
気づいた人は多くないに違いないが、ラジオ(とミュージックビデオ)版の歌詞は音源とは微妙に異なっている。同曲は『ブルー・アルバム』からの3枚目にして最後のシングルに決定した後、ドラムトラックにわずかに修正を加え、コーラス部にギターのフィードバックを乗せた別バージョンが作られた。『ブルー・アルバム』は既に100万枚以上を売り上げプラチナムに認定されていたが、メンバーたちはそのバージョンをオリジナルよりも気に入り、アルバムの再プレスにあたって曲を差し替えることにした。その後同作がさらに約200万枚を売り上げたことを考えると、ファンは3分の2の確率で新バージョンを耳にしていることになる。
10. クオモはバンドの2ndアルバムとして、『Songs From the Black Hole』と題されたSFロックオペラを発表するつもりだった
『ブルー・アルバム』のリリースツアーに出ていた頃、クオモは『ジーザス・クライスト・スーパースター』や『レ・ミゼラブル』等の演劇のサウンドトラックにのめり込み始めていた。音楽とストーリー性の融合というアイディアに感化された彼は、突如手にした名声がもたらした不信感と困惑を反映したフィクションを自ら作り上げることにした。「僕は当初ウィーザーの2ndアルバムを、ロック的なサウンドよりもシンセサイザーやニューウェイブ調のトーンを駆使した、宇宙旅行をテーマにしたロックオペラにするつもりだった」彼は2010年に本誌にそう語っている。1994年のクリスマス休暇の際、彼はギターと8トラックレコーダーを持って実家に引きこもり、新曲のデモをレコーディングしたり、『アビー・ロード』のB面や『狂気』さながらに過去の曲群をメドレー形式で繋いだりしていた。
クオモは試行錯誤を繰り返したのち、2126年の世界を舞台にBetsy Ⅱという宇宙船が冒険を繰り広げるSFファンタジーを考案した。「男性3人と女性2人とアンドロイド1体からなるクルーは、何かしらを救出するミッションについてるんだ」彼は2007年に本誌にそう語っている。予定ではブライアン・ベルとマット・シャープがそれぞれWuanとDondoという熱心な乗組員を演じ、バンドが信頼を寄せるKarl Kochが(ヴォコーダーを使って)ガイダンスコンピューターのM1の声を担当することになっていた。クオモ自身はというと、レイチェル・ヘイデン(ザ・レンタルズ)とジョーン・ワッサー(ザ・ダンビルダーズ)が演じる2人の女性乗組員との三角関係に悩む気弱な隊長ジョナスに扮する予定だった。物語はBetsy Ⅱが目的地に到着し、ジョナスが平凡な生活に戻ることを望むという形で幕を閉じることになっていた。「急に名前が知れ渡り、長いツアーに出て、アルバムがチャートを駆け上がるっていう、当時の僕が実際に経験していたことの比喩だったんだ。すっかり途方に暮れていた僕の心境を示してもいた」彼は後にそう話している。気付いた人は多くないに違いないが、Betsyはウィーザーの最初のツアーバスの名前だった。
しかし1995年3月に、子供の頃から抱えていた問題を解消するために足を引き伸ばす手術を受けた直後から、そのプロジェクトに対するクオモの情熱は薄れ始める。大きな苦痛が伴うリハビリを経験するうちに、彼の関心は「冗談めいた」SFオペラから「僕が見ていたもっと深刻でダークな場所」へと移っていった。晩夏から秋にかけて断続的に進められたセッションからは「Blast Off!」「ロングタイム・サンシャイン」「アイ・ジャスト・スルー・アウト・ザ・ラヴ・オブ・マイ・ドリームス」「タイアード・オブ・セックス」「ゲッチュー」等の原型が生まれたが、脚本調のそのバックストーリーは排除された。Kochはこう説明する「彼らは『Songs From the Black Hole』の本質を表現する方法、あるいはその案を形にする価値があるかどうかについて議論を重ねた。リハーサルの場に持ち込まれたものもあれば、実際にライブで演奏された曲もあったし、最終的に2ndアルバムに収録されたものもある。その頃にはコンセプトは様変わりしてたけどね」
同年末の時点でクオモはスポットライトからさらに遠ざかる道を選び、クラシックの作曲について学ぶためハーバード大学に進学する(後に英語も専攻している)。その頃に書かれた曲群には彼が覚えていた孤独感が滲み出ており、『Songs From the Black Hole』用の曲との接点はほぼ皆無だった。1996年1月にロサンゼルスのSound City Studiosで数回にわたって行われた仮セッションを経て、そのプロジェクトは事実上破棄された。
スペースオペラのコンセプトから生まれた曲群の中からは、「タイアード・オブ・セックス」「ゲッチュー」「ノー・アザー・ワン」「ホワイ・ボザー?」の4曲が1996年発表の2ndアルバム『ピンカートン』に収録されている。また「デヴォーション」「ウェイティング・オン・ユー」「アイ・ジャスト・スルー・アウト・ザ・ラヴ・オブ・マイ・ドリームス」の3曲は、「エル・スコルチョ」と「ザ・グッド・ライフ」のB面曲として発表された。またファイル共有サイトでやり取りされていたデモやラフバージョンの一部は、後に『Alone』シリーズに収録された。その幻の作品を(ブライアン・ウィルソンの『ザ・スマイル・セッションズ』さながらに)完全な形で発表してほしいというファンの声は耐えないが、クオモは頑なに拒否し続けている。「人々の想像やイメージの中で、『Black Hole』は原型をとどめていないほどに形を変えてしまった」彼は2007年にそう話している。「アルバムの3分の1くらいは単なるスケッチだったし、曲の大半は『Black Hole』を念頭に置いて書かれたものじゃない。曲はあのコンセプトを考えつく前からあって、『Black Hole』のコンセプトに合わせて少し手直ししたりもしたけど、結局そのアイディアは破棄した。曲は大幅にアレンジされて、最終的に『ピンカートン』に収録された。それ以外には曲とも呼べないような代物がいくつかあっただけで、実際に『Black Hole』のために書かれた曲自体はせいぜい2~3曲程度だ。だからそんなに大層なことじゃないんだよ」