音色の豊かさをコントロールするということ
―上原さんはライブでソロピアノをよくやっているので、ソロピアノのアルバムもよく出している印象を勝手に抱いていただけに、10年ぶりというのは意外でした。なぜ、久々にソロピアノを録音しようと思ったんですか?
上原:ピアニストとして、逃げも隠れもできずに自分が全て出るというか、全ての音が聴こえるのがソロピアノ。いちばんピアニスト冥利に尽きるセッティングだと思っています。なので、最低でも10年に一枚は記録としてマイルストーンのような意味で残していきたいと思っていて、ちょうど(自分のなかで)タイミングが来たので録りました。それまでトリオで何作も作ったりしてて、どんどん月日が経ってしまって、気付いたら10年経っていたという感じです。
―タイトルの『スペクトラム』は「残像、連続体」という意味ですが、アルバムのコンセプトは?
上原:今回は「色」をテーマにアルバムを作ろうと思いました。私がピアニストとしてめざしたいところであり、同時に一番成長を感じるところは音色の豊かさです。一口に小さい音や大きい音といっても、小さいなかにも柔らかい音だったり、かわいらしい音だったり、いろんな音があるんです。その様々な音の表情をちゃんとコントロールできるというのが、ピアニストとしてとても重要なことなので、自然に「色」をテーマにしたアルバムを作ろうという気持ちになりました。
―今作はオリジナル曲が多いですよね。いま上原さんが話していた音色のコントロールや多彩さは、作曲とどのくらい結びついていますか?
上原:その曲が求めている音がありますから。それぞれの曲をプレゼンテーションするときに、こういう音色なんだなっていうことを最初に発音するんです。
―では、1曲目の「カレイドスコープ」はどういうイメージで書いた曲ですか?
上原:ずっと主軸となっている、リピートするミニマリスティックな4つの音のフレーズがあって。それはどちらかと言うと無機質な音でパルスを紡いでいるんですけど、その周りをエモ―ショナルな音が囲んでいます。それを同時にやるのは慣れるまでにけっこう時間がかかりましたね。
―それって最初にどのくらいデザインしてあって、どのくらいが即興なんでしょうか。
上原:基本となる4つの音は決まっていて、あとはメロディがあります。そこからインプロビゼーションのセクションになったら、自由に弾く。基本ワンコードなので、どう行くかはそのとき次第ですね。
―それは色としてはどんな色ですか?
上原:ひとつの色というよりは、様々な色があるパターンを持って、どんどん変わっていく。花開いていくようなイメージです。

Photo by Kana Tarumi
―「カレイドスコープ=万華鏡」のように幾何学的に模様が変化するような即興が行われていると。2曲目の「ホワイトアウト」なんですけど、ホワイトアウトって吹雪の中で方向を見失ってしまうような壮絶なイメージがあったんですが、これはずいぶん穏やかな曲調ですね。
上原:これはかなり大雪の日に書いた曲です。雪って吸音するので、静かに迫りくるもので、そこが怖くもある。誰も踏んでいない雪は真っ白ですごくきれいですけど、気付くと一気に積もっていたり、急に視界が見えなくなる。だから、美しい怖さみたいなイメージですね。すごくきれいなものって、同時に怖いものでもあると思うんです。
―色はどんな白ですか?
上原:真っ白ですね、怖いくらいの白です。
―その「怖いくらいの白」をどういう音色で表現しようと思ったんですか?
上原:どちらかと言うと「こもった音」と言うか、硬質かやわらかいかで言えば、やわらかい。少し吸音されたような音ですね、だからボリュームは落としめです。
―そういう音色を出すためにどう鍵盤を押すんでしょうか?
上原:鍵盤はすごく近いところから打鍵しますね。アタックまでの距離は短めで、狙って打つみたいな感じですかね。早く押すっていうよりは、一音をとーんって。
ピアノを弾き続けることで得た「手の感情の分離」
―では、次はタイトル曲の「スペクトラム」。
上原:だんだん色が連続して連なっていく、いろんな色が重なり合って増えていくようなイメージです。セクションごとで1曲のなかで音色が違っていて。硬質な音もあれば、すごくやわらかい音もあります。低音部の弾き方は轟くような低音部ですね。この曲は低音を意識してピアノを弾きました。
―スペクトラムは「残像」って意味だと思うんですけど、たしかに残像っぽさをすごく感じます。それはどういう形で表現しているのでしょうか?
上原:モチーフ自体に連打が多いので、連なりというものを音で表現した感じなんですけど、それが何度も何度もリフレインする中でコードを変えたりとか、同じものが出てきていても色合いが変わっていたりしています。
―色としてはどういう色ですか?
上原:いろんな色ですね。いろんな色がどんどん変わっていって、混ざっていくようなイメージ。
―さっき低音部の話が出てましたが、この取材のために10年前に出されたソロピアノ・アルバム『プレイス・トゥ・ビー』を聴いてみたんです。そこにはすごくパワフルに、ガーンと低音部を出しているような曲もあったんですけど、今回の場合は低音部を出すにしても、的確に狙った音色や音量を出している「コントロールされた轟音」って感じがしたんですよね。
上原:たしかに、ピアノをコントロールする精度は10年前よりも上がっていると思います。
―その精度を上げるためにこの10年どういうことをされたんですか。
上原:とにかく弾く。ピアノばっかりを弾いてきました。
―その中でも音色を豊かにするためにやっているトレーニングってあるんですか?
上原:トレーニングなのかはわからないですけど、同じ音量でずっと弾き続けるっていうことはけっこう難しいんですよね。たとえば、即興をする中でピアニシモでずっと弾いてみたり。自分の中でピアニシモでインプロビゼーションをし続けるという縛りをつけてみると、ダイナミクスで説得できないので、ダイナミクスを使わずに説得力のあるフレーズを弾かなくてはいけないわけです。それは練習としてやろうとしていたわけじゃないですけど、インプロバイズするなかでやるべきことが増えていくので、結果それが自分のコントロール力のアップになったかなと思います。

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―敢えて制約を設けることで、より繊細な表現力を身に付けたと。ちなみによく練習する曲ってあるんですか?
上原:バッハはよく弾きますね、好きなので。あとはその都度で弾きたい曲を弾いたりしてますけど。
―例えば、左右の手の分離を磨くためのリゲティの「エチュード」みたいな曲もありますが、そういうテクニックだったり左右の分離というより、表現力を磨くために弾くような曲ってありますか?
上原:自分が弾いている曲のなかでの感情のコントロールの話になりますが、たとえばさっきの「カレイドスコープ」だと、パルスの部分はほぼ打ち込みみたいでなければいけないんですね。ずっと鳴っている音は感情を持ってはいけない部分なんです。どちらかと言うと、ベストは打ち込みの音で、だからこそ周りの感情的な部分がよりエモーショナルに聴こえるっていう。そういった相反するものを共存させることによる、相対効果みたいなものがあるんです。でも、それを一人でやるのは難しくて。単純に左手が無機質であれば、右手も無機質になりがちだし、右手がエモーショナルであれば、左手もエモーショナルについてきてしまうので。その辺の「手の感情の分離」っていうのは、何度も何度も弾いていく中で、練習というか、とにかくピアノを弾いていくことで得たものなのかなとは思いますね。
―単純に左右の手が分離するって話じゃなくて、感情まで分離しているっていうのはすごいですね。
上原:こっちの人(左手)はずっと淡々とビートを刻んでいるだけなので。もともとピアニストって左手でベースを弾いたりすることが多いですよね、右手に沿うように弾くようなベースがほとんどで。アカンパニーするというか、伴奏者的な役割。でも、伴奏者じゃなくて、ずっと右手に反応することなく、左手が存在するっていうチャレンジが「カレイドスコープ」ではありました。
―それは曲を書いたら、その曲を弾くための表現があって、その曲のためにそれを身に付けて弾いたってことですよね。
上原:はい、私はだいたい弾けないことを書くんですね。自分のなかで打ち込みみたいなことを想定して、それをまず無機質に(ピアノを弾いて)録音して、その上にエモーショナルなものを重ねていったときに「面白いな」って思ったんです。「このパルスの上でソロを取ったら面白いな」ってアイディアが、自分で曲を作っていくなかで聴こえてきて。でも、最初にやってみたのは別録りなんですね。最初にピアノを弾いてみて録音して、それを流しながら、その上に重ねて弾いてみたら、やっぱり思っていた通りかっこいいなと思って。でも、実際にそれを1人で(リアルタイムでやってみると)どうしても両方の手が同じテンションになってしまう。それは自分の考えている完成形の音じゃないので、そこまで持っていけるように何度も弾きました。
―トリオのときも「最初は上手く演奏できないような曲を書いて、それを練習して完成させた」と話してましたが、ソロでもそうなんですね。
上原:できないことを書きたいわけじゃないんですよ。できれば、できることがいいんですけどね(笑)。自分が曲を書いているうえで、聴こえたものがかっこいいなと思ったら、弾けなかったって言うことがあるだけですよ。
―基本的にやりたいことがあって、そのためにそこまで自分を持っていくってことですよね。
上原:そうですね、頭の中で聴こえてしまったので。
―頭のなかで聴こえたものを、何とか現実に形にする作業をしている。
上原:そうです。
ピアノの細部に宿る音を大事にしたかった
―作曲と演奏と練習が不可分な感じが面白いですね。今回みたいに一人だと、自分だけ頑張ればいいのである意味で気楽なんですかね。トリオだと他のメンバーにやらせなきゃいけないんで気を遣うじゃないですか?
上原:私は気を遣わないんですよ(笑)。サイモン(・フィリップス)とアンソニー(・ジャクソン)もそうですし、エドマール(・カスタネーダ)と共演するときもそう。気を遣ったほうがよかったかもしれない(笑)。サイモンが「自分がやったことがないことを要求されることはなかなかないから、そういうことはワクワクするんだ」と言ってくれていたので、大丈夫だとは思いますけど(笑)。でも、「簡単に言うねえ……」とは言われましたね。
―そうでしょうね(笑)。
上原:このメロディをこっちで叩きながら、それでリズムも刻んでほしいとかお願いすると、「簡単に言うねえ……」って(笑)。

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―他に今までできなかったけど、今回のレコーディングで出来るようになったことってありますか?
上原:「セピア・エフェクト」はとてもチャレンジングでしたね。これも最初に伴奏の部分がアルペジオみたいになったらいいなと思って、その上にメロディを鼻歌みたいに弾きながら書いたんです。でも、曲が出来上がってから「指が足りない」と気付いて。
―なるほど(笑)。
上原:アルペジオを弾きながらメロディを弾くってことをやるためには、そもそも指が足りないなと。自分のなかではどちらかといえば訥々と静かに流れていくような曲にしたかったんですよ。でも、指が足りなかったので、メロディはほぼ小指と薬指だけで弾いているんですね。普段はメロディって親指と人差し指、中指で弾くことが多いですから、小指と薬指の二本だけでメロディを弾くことはなかなかなくて。その二本の指で静かに流れるようなメロディをきれいに紡ぎ続ける……「またやっちゃったか」って、これも曲ができた時に思いました(笑)。
―しかも、「セピア・エフェクト」は今回のアルバム中でも最も変わった音色で弾いている曲ですよね。
上原:はい、靄(もや)の中にあるような音色ですよね。
―その音色を操りつつ、小指と薬指だけを使ってメロディーを弾かなきゃいけないわけですよね?
上原:そこはすごく難しかったです。
―こういう音色を出すためには、どういうふうに鍵盤を押すんですか?
上原:近くから打鍵して長めに弾く。すぐに離さないっていうか。それを小指と薬指だけをメインにやるのがかなり難しくて。この曲に求めているイメージは、輪郭のそんなにはっきりしない靄(もや)がかかっているような音だったんですね。だけど、それははっきり弾かないというのとは違うんです。きちんと打鍵することはするんですよ。打鍵しながらも柔らかい音を出すっていうことを、メロディを弾くのにそんなに使われることのない指でやるのが難しかったですね。
―このアルバムはビビットな色調と言うよりは、グラデーションのように色合いが変わっていく様子とか、繊細な色彩の変化が聴こえるんですけど、その色彩をバンドやアンサンブルじゃなくて、たった一台のピアノから引き出しているのが面白いと思いました。
上原:ピアノという楽器はすごく繊細なんです。弾き方でその弦の鳴りとか揺れが変わって、ちょっとの力の加減でほんとに違う音が出るし、違う色になる。ソロピアノをやるんだったら、ピアノの可能性とか魅力をぎゅっと詰め込みたいという思いがありました。バンドだと(実際には鳴っていたけど)聴こえないところってたくさんあると思うんですよね。でも、ソロピアノだと倍音までも全部録音されるじゃないですか。ペダルを踏んで離した音まで聴こえる。だからこそ、私はこのアルバムで、ピアノの細部に宿る音を大事にしたかったんです。

Photo by Kana Tarumi
〈リリース情報〉

上原ひろみ
『Spectrum』
2019年9月18日 日本先行3形態同時リリース
SHM-CD 2枚組(初回限定盤)
価格:3,300+税
SHM-CD (通常盤)
価格:2,600+税
SA-CD ~SHM仕様~(高音質盤)
価格:4,000+税
◎収録曲
1. カレイドスコープ
2. ホワイトアウト
3. イエロー・ワーリッツァー・ブルース
4. スペクトラム
5. ブラックバード
6. ミスター・C.C.
7. ワンス・イン・ア・ブルー・ムーン
8. ラプソディ・イン・ヴァリアス・シェイズ・オブ・ブルー
9. セピア・エフェクト
◎ボーナスCD (初回限定盤のみ)
1. BQE
2. シシリアン・ブルー
3. シュー・ア・ラ・クレーム
4. パッヘルベルのカノン ビバ! ベガス
5. ショー・シティ・ショー・ガール
6. デイタイム・イン・ラスベガス
7. ザ・ギャンブラー
8. プレイス・トゥ・ビー
※2010年8月20日、21日、ブルーノート・ニューヨークにてライヴ録音
〈ツアー情報〉
上原ひろみ JAPAN TOUR 2019 "SPECTRUM"
2019年11月17日(日)東京都 サントリーホール
2019年11月19日(火)広島県 広島国際会議場 フェニックスホール
2019年11月21日(木)北海道 札幌文化芸術劇場hitaru
2019年11月23日(土・祝)茨城県 水戸芸術館
2019年11月24日(日)大阪府 ザ・シンフォニーホール
2019年11月26日(火)石川県 金沢市文化ホール
2019年11月27日(水)長野県 長野市芸術館
2019年11月29日(金)三重県 四日市市文化会館 第1ホール
2019年11月30日(土)静岡県 静岡市清水文化会館(マリナート)大ホール
2019年12月1日(日)大阪府 ザ・シンフォニーホール
2019年12月3日(火)愛知県 愛知県芸術劇場
2019年12月6日(金)香川県 サンポートホール高松 大ホール
2019年12月7日(土)岡山県 岡山市民会館
2019年12月8日(日)静岡県 アクトシティ浜松 大ホール
2019年12月10日(火)新潟県 新潟県民会館
2019年12月11日(水)宮城県 日立システムズホール仙台
2019年12月13日(金)東京都 サントリーホール
2019年12月14日(土)東京都 すみだトリフォニーホール
2019年12月15日(日)神奈川県 横浜みなとみらいホール
2019年12月17日(火)福岡県 福岡シンフォニーホール
2019年12月18日(水)大分県 別府国際コンベンションセンター ビーコンプラザ フィルハーモニアホール
2019年12月19日(木)山口県 山口市民会館 大ホール
公式サイト:
http://www.hiromiuehara.com/