クリーム、ブラインド・フェイス、フェラ・クティ、パブリック・イメージ・リミテッドまで、ジンジャー・ベイカーが60年にわたるキャリアの中で残した10の名演を紹介する。
 
ジンジャー・ベイカーはパラドックスそのものだった。
ロック界屈指の名ドラマーでありながら「ロックはやったことがない」と豪語し、忌み嫌ったメタルのゴッドファーザーであり、生粋のロンドナーでありながらアフリカンドラムのスタイルを完全にマスターしてみせた。ブルースロックを極めた3ピースのクリーム、短命に終わったスーパーグループのブラインド・フェイス、アフロビートの生みの親であるフェラ・クティ、後年におけるジャズのプロジェクト等、様々なスタイルに挑戦し続けた彼の功績を一元的に語ることは不可能だ。

60年代半ばにキーボーディスト兼サクシスト兼シンガーのGraham BondのブルージーなR&Bにビバップの要素を持ち込んだことで、ベイカーはその名前を知られるようになった。そして1966年、彼はエリック・クラプトンとジャック・ブルースと共に、伝説の3ピースバンドであるクリームを結成する。「俺たちはマジで最高だった。だからクリームって名付けたんだ」彼は2012年公開のドキュメンタリー『Beware of Mr. Baker』でそう語っている。

クリームの解散後、彼は異なるスタイルを積極的に追求し、ロックを顧みることは稀だった。フェラ・クティや元セックス・ピストルズのジョン・ライドンはもちろん、アヴァンギャルド系ギタリストのソニー・シャーロック、ジャズ界の名トランペット奏者ロン・マイルス、ロックの異端児マスターズ・オブ・リアリティ、後年に幾度となく共演したガーナ出身の打楽器奏者Abass Dodooまで、過去50年間で彼が携わったプロジェクトは多岐にわたる。彼の才能は底知れないが、その片鱗を垣間見ることができる10の名曲を以下で紹介する。

1.クリーム「いやな奴」(原題「トード」)1966年

クリームのデビューアルバム『フレッシュ・クリーム』の最終曲「いやな奴」が世に出たのは、「モービー・ディック」や「ガダ・ダ・ヴィダ」、あるいはリンゴ・スターがドラムを叩いた「ジ・エンド」よりも前であり、同曲のドラムソロはロック史上屈指の名演として語り継がれている。短いブルージーなリフが印象的な同曲では、スタイリッシュなスネアやタムロールから、マシンガンのようなツーバスプレイからアップテンポなビバップまで、彼のセンスとスキルが存分に発揮されている。「いやな奴」におけるパフォーマンスが無数の後続ドラマーをインスパイアしたことは疑いないが、メンバーのジャック・ブルースはより個人的な理由で、ライブにおける彼の長尺ソロを必要としていた。
「あれは好きだったよ。その間にタバコで一服できたからね」

2. クリーム「サンシャイン・ラヴ」1967年

クリームの代表曲である「サンシャイン・ラヴ」は、ヘヴィメタルの起源とされることが少なくない。しかしこの曲におけるベイカーのドラムは、後年に主流となるラウドでアグレッシヴなロックのマッチョイズムとは似て非なるものだ。ジャック・ブルースが生み出した歴史に残るリフに対し、ベイカーは力技で応戦するようなやり方ではなく、タムを基調としたミニマルでレイドバックなパターンで、曲にそっと華を添えてみせた。ベイカーは同パートを考えたのは自分だとしているが、エンジニアのTom Dowdは考案者は自分だと主張している。「ダウンビートが必要とされる場で、インド音楽のビートを考えつく欧米人に会ったことがあるかい?」Dowdはスタジオでメンバーにそう問いかけたという。「(ベイカー)がそのパターンを叩き始めた瞬間、すべてのピースがピタリとハマったんだ」

3. クリーム「ホワイト・ルーム」1968年

ジャック・ブルースの手によるこのクラシックには、ベイカーの代名詞ともいうべきスタイルがはっきりと反映されている。ヴァースの部分ではキックとスネアとハイハットによるヘヴィなグルーヴで曲全体を支えつつも、随所に盛り込まれたスネアやタムのオカズによって強烈にファンキーなヴァイブを生み出している。このパフォーマンスは今聴いても新鮮だが、後年のベイカーは同曲を含むクリームの全楽曲への称賛に対して嫌悪感を示していた。「まったく、クリームは頭痛の種だよ」彼は2015年にそう語っている。

4. クリーム「スプーンフル(Live)」1968年

クリームの真骨頂、それは3人の天才が楽曲の深みを見せつけるライブだった。ウィリー・ディクソンが作曲し、ハウリン・ウルフが世に広めたブルースのスタンダード「スプーンフル」は、3人の力量を示す上で理想的な曲であり、サンフランシスコのWinterlandで披露されたこの17分に及ぶセッションでは、半分のテンポで刻まれるシャッフルビートや煽るようなハードロック調パターンによって、ベイカーがバンド全体をリードしている。
各メンバーが持ち味を存分に発揮している一方で、それぞれが相手の一歩前に出ようと競い合うかのようなこのテイクでは、バンドの持ち味であるエッジーなケミストリーが際立っている。「当初クリームはダダの集団になる予定だった」クラプトンは2012年にそう話している。「ステージ上で次々に不可解なことをやる、実験的で奇妙で挑発的なグループになるはずだったんだ。でもインストのパートを延々とジャムるようになって、結局それがバンドのイメージとして定着することになったんだよ」

5. ブラインド・フェイス「君の好きなように」(原題「Do What You Like」)1969年

クリーム解散後、ベイカーとクラプトンはブラインド・フェイスを結成する。バンドによる唯一のアルバムの最終曲であり、ベイカー作詞作曲を手がけた「君の好きなように」は、流れに身をまかせることでそれぞれの力を引き出すという彼らの哲学が現れている。ベイカーは60年代のブルーノートの作品を思わせるライドシンバルを基調にしたビートで曲を支えつつ、中盤ではヒプノティックなタムロールとスラッシュメタルの原型かのようないかつさを誇る、強烈にファンキーなドラムソロを披露している。「大きな会場でやる時は、彼は頼もしい存在だった」ブラインド・フェイスのシンガー兼キーボーディスト、スティーヴ・ウィンウッドは昨年そう語っている。「ヘヴィなロックを欲してるオーディエンスの期待に、ジンジャーは見事に応えてくれたからね」

6. ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース「Aiko Biaye」1970年

クリームとブラインド・フェイスでの活動を終えた後、ベイカーはエア・フォースを結成し、アフリカ音楽やエッジーなファンク、そして極彩色のサイケロックまで、その多様な音楽的バックグラウンドを形にしていった。「Aiko Biaye」は、彼のヴィジョンが垣間見えるアバンギャルドなパーティーミュージックだ。バンドで同じくドラムを担当したガーナ出身のRemi Kabakaと、オシビサのリーダーだったTeddy Oseiと共同で作曲した同曲は、ヒプノティックな12/8ビートや荒ぶるサックス、そして呪術的なチャントが印象的だ。ベイカーがバンドのシンガーの1人とデュエットする長尺のブレイク部では、彼の関心がロックよりもずっと深いところにあることを物語るトランスグルーヴを聴かせている。

7. フェラ・クティ・アンド・アフリカ70「レッツ・スタート」1970年

「彼ほどアフリカ音楽のビートを深く理解している西洋人はいない」アフロビートの生ける伝説トニー・アレンは、2009年に本誌のJay Bulgerにそう語っている。
70年代初頭にベイカーがラゴスに建てたスタジオでライブ録音された同曲で、彼はアメリカ産ファンクよりもしなやかでシンコペーションを強調した、正真正銘のアフロビートを聴かせている。その礎となっているのは、過去に彼が幾度となく重ねてきたジャムセッションの経験だ。彼が生み出す「レッツ・スタート」のうねるようなグルーヴは、今でも少しも色褪せていない。

8. ベイカー・ガーヴィッツ・アーミー「ラヴ・イズ」1974年

エア・フォース解体後、ベイカーはロンドンを拠点とするハードロックバンド、Gunのメンバーだったエイドリアンとポールのガーヴィッツ兄弟と共に、性急でドラマチックな音楽性に見合った名前を冠したバンド、ベイカー・ガーヴィッツ・アーミーを結成した。ジンジャー・ベイカーがプログレをやるとどうなるのか、その答えを知りたければ彼らの最初のアルバム2枚を聴くといい。過小評価されているこれら2作の中からハイライトを選ぶのは困難だが(1975年作『天上の戦い』(原題『Elysian Encounter』)に収録された「ピープル」で聴ける、ベイカーによるカウベルのイントロは必聴だ)、1974年発表の『進撃』(原題『Baker Gurvitz Army』)に収録されたインスト曲「ラヴ・イズ」は、タフでストーリー性に満ちたバンドの音楽性を物語っており、ベイカーが生み出すうねりのあるグルーヴが降り注ぐシンセストリングスと絡み合う。サウンドこそ入念に作り込まれているものの、エイドリアンのアクロバティックなパフォーマンスに応じるかのように、ベイカーは自身の代名詞といえるシンコペーションの効いたタムプレイを披露している。ベイカーのプロジェクトの大半がそうだったように、このバンドでも人間関係は決して良好ではなかったようだ。「彼はすごく気難しい人だよ」エイドリアンは2016年に行われたインタビューで、苦笑混じりにそう語っている。

9. パブリック・イメージ・リミテッド「イーズ」(1986年)

ジョニー・ロットンによるフューチャリスティックなポストパンクのプロジェクトとジンジャー・ベイカーという組み合わせに、当初人々は懐疑的だったに違いない。しかし鋭く響き渡るイントロのフィルからなだれ込む強烈なシャッフルビートを聴けば、その考えは一変するだろう。ベイカーの安定感のあるパフォーマンスは、同曲の芸術的でドラマチックな展開と見事にマッチしている。
「(ライドンは)カリフォルニアを拠点にバンドを組もうとしてた。どうせなら強力なやつを作りたいと思った私は、トニー・ウィリアムス、ジンジャー・ベイカー、スティーヴ・ヴァイに声をかけた」そう話すのは『Album』のプロデューサーであり、同時期にジンジャー・ベイカーの秀逸なソロ作群(型破りなデザートブルース「Time Be Time」は一聴の価値あり)も手がけたビル・ラズウェルだ。「それまで一緒にやってたメンバーを全員クビにして仕切り直したわけだけど、最初のうちは毎晩のようにバーで大喧嘩してたよ。そういうのを経てバンドがひとつになって、私たちは時代に流されないユニークなレコードを完成させたんだ」

10. ジンジャー・ベイカー・トリオ 「Rambler」1994年

ベイカーは生涯を通じてジャズからの影響を公言し続けたが、50代になって初めて自身の名義でアルバムを発表した。彼がパートナーに選んだのは、ギタリストのビル・フリゼール、そしてベーシストのチャーリー・ヘイデンという、ベイカーと同じくテクスチャーと閃きにこだわる即興演奏の達人たちだった。『Going Back Home』におけるハイライトであり、チャーミングで素朴ながらベイカーの堂々たるシャッフルビートが光る「Rambler」(作曲はフリゼール)には、ロックでもジャズでもアメリカーナでもない、ジャンルの垣根を超えた3人が生み出す独自のグルーヴがある。着地点の見えない空中飛行のような緊張感が漂う中で、これほどにリラックスしたドラミングを聴かせられるのは彼ぐらいだろう。以降彼はジャズへの回帰を繰り返すようになり(最近作はメロウだが説得力のある2014年作『Why?』)、音楽の道へと進むきっかけになったジャズの世界で大きな存在感を示した。ベイカーとの共演について、フリゼールは本誌にこう語っている。「100人のドラマーに同じ曲を演奏させたとしたら、ジンジャーは他の誰とも異なるプレイを披露するだろう」
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