世界的なロックスターへの階段を上り始めた頃のレッド・ツェッペリン。忙しいツアーの合間に曲作りとレコーディングを続けた彼らは、自分たちのビジョンを史上最も素晴らしく最も卑猥なアルバムという形で現実のものとした。


「2枚目のアルバムには、バンドのアイデンティティが結集してできあがった作品が凝縮されている」とジミー・ペイジは、アルバムのリリースから数年後に振り返っている。レッド・ツェッペリンのデビューアルバム『レッド・ツェッペリンI』は、2週間に渡るスカンジナビアでの単独ツアー後の3週間でレコーディングされた。一方で2枚目の『レッド・ツェッペリンII』は、ロンドン、ニューヨーク、バンクーバー、ロサンゼルスをツアーしながら6ヶ月かけてレコーディングした。バンドはツアー中も、機材と一緒にマスターテープをスチーマートランクに入れて持ち歩いていたのだ。

「正に常軌を逸していた」とペイジは語る。「時間が全くなかったので、ツアー中に滞在したホテルの部屋で曲を書いたんだ。アルバムがリリースされる頃にはもううんざりしていた。各地をツアーしながら自分たちの作った曲を繰り返し聴いていると、だんだん自信がなくなっていく気がするんだ。」

そのような状況にもかかわらずレッド・ツェッペリンは、史上最高かつヘヴィで最も卑猥なアルバムを作り上げた。デルタブルーズとシカゴブルーズに1960年代のサイケデリアのエッセンスを取り込み、静かな曲調から激しいパートへとダイナミックに展開する。アルバムには、世紀末のカオスを思わせる『胸いっぱいの愛を』から、リフが印象的な『ハートブレイカー』や熱狂的なジュークジョイントブルーズの『ブリング・イット・オン・ホーム』まで、バラエティ豊かな楽曲が並ぶ。「これらの楽曲は、初めてバンドというものを意識して作った作品だ」とペイジは後に、ライターのミック・ウォールに語っている。「自分たちの持つエレメントをフルに活かした音楽だった。
例えばボンゾ(ジョン・ボーナム)ならここでハードに来るだろう、と思えばそのように作り込むといった感じさ。」

1969年1月のデビューアルバムのリリースから4ヶ月も経たないうちにアトランティック・レコードは、クリスマス商戦へ向けた新たな作品の製作に取り掛かるようバンドを急かしていた。同年4月、ツェッペリンはエンジニアのジョージ・チキアンツと共にロンドンにあるオリンピック・スタジオに入り、『胸いっぱいの愛を』などいくつかの楽曲に取り掛かった。同曲は、ライヴで15分間以上の長いバージョンの『As Long As I Have You』(訳註:ガーネット・ミムズの楽曲)を演奏している最中にペイジが思いついたリフをベースに、マディ・ウォーターズの1962年のシングル曲『You Need Love』からロバート・プラントが歌詞の一部を拝借して作られている。『胸いっぱいの愛を』は、ジミ・ヘンドリックスの作品も手掛けたエンジニアのエディ・クレイマーによってニューヨークで仕上げられた。クレイマーは、ペイジによるスライドギターをベースに、テルミン(訳註:電子楽器の一種)の不気味な音、女性の喘ぎ声、ナパーム弾の爆発音などさまざまなサウンドを組み合わせて、おどろおどろしい中間部を作り上げた。ペイジ曰く、「サイケデリアを音で表現したようなもの」だった。

ギターソロはスタジオの廊下で録音された。また『ランブル・オン』のパーカッション音は、ボーナムがギターケースかドラムスツールかゴミ箱を叩いて出しているようだが、実際に何を叩いていたかは誰も覚えていない。さらにボーナムの見せ場である『モビー・ディック』のドラムソロは、あちこちのスタジオでレコーディングした音源をつなぎ合わせたという。

行きあたりばったりのやり方でレコーディングされたのかもしれないが、結局は素晴らしい結果をもたらした。『強き二人の愛』では、ステレオ技術を駆使してペイジのギターとプラントのシャウトを左右のスピーカーへ飛ばすことで、麻薬によるバッドトリップを表現している。ハウリン・ウルフの『Killing Floor』をベースにした『レモン・ソング』は、スタジオでライヴレコーディングされた。
ゆったりとしたクールなパートから熱狂的なブギへとシームレスに移行し、プラントが「レモン汁が俺の脚をつたって流れ落ちるまで俺のレモンを絞ってくれ!」と叫ぶ。

12弦ギターとオルガンをフィーチャーしたフォーク調の『サンキュー』は、プラントが初めて作詞を手掛けた曲で、彼の当時の妻に捧げる内容になっている。1年の間にバンドは、雪の降るイギリスをライヴツアーのために車に乗って移動していたかと思えば、高級ホテルのシャトー・マーモントに1週間ほど滞在してラスベガスの最前列でエルビス・プレスリーのショーを楽しんだり、ロサンゼルスのグルーピー集団The GTOsと交流したり、という生活を送っていた。

このようなカオス的な状況の中でもツェッペリンは集中し、無我夢中でレコーディングに励んでいた。スタジオにおける完全主義者のペイジが、他のことに気を取られるのを許さなかったのだ。1969年7月、デビューアルバム『レッド・ツェッペリンI』の米国におけるゴールドディスク達成をニューヨークのプラザ・ホテルで祝った夜、ペイジはメンバーをそのままスタジオへ向かわせた。

「米国では切羽詰まっていた」とボーナムは振り返る。「空港へ妻たちを迎えに行ってホテルまで連れていき、僕らはそのままスタジオへ戻って『ブリング・イット・オン・ホーム』をレコーディングする、といった感じさ。あの年はとにかくあらゆることをこなした。」

「ジミーはまるで戦争神経症にかかったようだった」と、ロードマネージャーのリチャード・コールがロンドンでのセッション時の様子を振り返る。「彼の顔は引きつり、目の下にはくまができていた。そしてだんだんタバコの本数も増えていった。」

しかしその甲斐はあった。ロックギタリストのペイジが「若いままでいたいとあがく堕落した年増の女」について書いた曲で、ツェッペリンの曲の中で最も気に入らない作品と公言している『リヴィング・ラヴィング・メイド』ですら、明らかに素晴らしい仕上がりだった。
8月までにレコーディングを終え、エンジニアのクレイマーとペイジは、Altecの12チャンネルのコンソールが備わるニューヨークのA&Rスタジオに籠もって2日間で仕上げの作業を行った。「これ以上ないほど旧式のコンソールだった」とクレイマーは言う。

1969年10月22日にリリースされたアルバム『レッド・ツェッペリンII』は、12月にはザ・ビートルズの『アビイ・ロード』を抜いて米国でナンバー1を獲得し、半年で300万枚を売り上げた。シングル『胸いっぱいの愛を』は1970年1月に米国のチャートでナンバー4を記録したが、それから10年後に訪れるヘヴィメタル・ブームの前触れだった。

「それまでの生活の何もかもが変わってしまった」とプラントは言う。「あまりにも突然の変化で、どうしたらいいかわからなかった。」

本記事は、ローリングストーン誌の特集号『Led Zeppelin: The Ultimate Guide to Their Music & Legend』(2013年1月31日号)から抜粋したものである。
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