こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのは、尾崎豊さんの「卒業」。シングルは1985年1月発売、アルバムは1985年3月に発売になった2枚目のアルバム『回帰線』に収録されておりました。そして、お聴きいただいているのは1987年に発売されたライブアルバム『LAST TEENAGE APPEARANCE』からお送りしております。今日の前テーマはこの曲です。
「J-POP LEGEND FORUM」2020年6月の特集は、ライブ盤です。2月以降に行われる予定だったツアーやライブがことごとく中止、或いは延期になっている中で、音楽史上初めて音楽が行われない日本列島になっているわけです。日本のコンサート文化は大丈夫なんだろうか? 早くライブが再開される日が来て欲しい。そんな心からの願いを込めてライブ盤特集をお送りしております。レジェンドたちが残してきたライブアルバムから聴いていこうという1ヶ月。
1枚はこの尾崎豊さんの『LAST TEENAGE APPEARANCE』、1985年11月15日に行われたライブを収録しております。尾崎さんは1965年11月29日生まれです。20歳になる2週間前、10代最後のライブ。この「卒業」から始まったんですね。オープニングに学校のチャイムが流れたんじゃないかな。1985年は、1980年代の分水嶺の年ですね。この年の6月、国立競技場が初めて音楽イベントに使われた「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」が行われました。吉田拓郎が司会をして、オフコース、はっぴぃえんど、チューリップ、サディスティック・ミカ・バンドを従えた松任谷由実。1970年代の立役者に加えて、サザンオールスターズ、佐野元春、チェッカーズら、1980年代組も登場したんですね。ニューミュージックから新たなロックへ。そんな世代のバトンタッチを象徴したイベントであり、そして新しい世代の象徴がこの尾崎豊さんでした。
今日のテーマは「伝説の代々木」。もう1枚、代々木でのライブを紹介するんですが、初めて代々木がコンサートに使われた日をご存知ですか? 1983年9月30日、ステージにいたのはこの人たち、CHAGE and ASKA。初めて彼らがチャート1位になったアルバムのタイトル曲「熱風」からお聴きいただきます。
熱風 / CHAGE and ASKA
CHAGE and ASKAの1981年2月発売のアルバム『熱風』のタイトル曲「熱風」。初めて彼らがアルバムチャート1位になった作品です。そして初めての彼らのコンサートツアーのタイトルも「熱風」でしたね。デビュー2作目で1位。そして初めてのコンサートツアーで、いきなり全国59公演を廻ったんですね。周りは、やりすぎじゃないか? という話の中でスタッフが大丈夫だと判断して、これだけのスケジュールを切ってソールドアウトになったというツアーだったんです。
終章 (エピローグ) / CHAGE and ASKA
国の許可を取ってきたぞ! という風にCHAGEさんが言ってますね。客席、1964年生まれが多かったんですね。つまり19歳ですよ。当時のCHAGE and ASKAは中高生から20歳になるかならないかっていう年代の女の子が多かったですね。お聴きいただいた「終章 (エピローグ)」は、1980年4月に出たデビューアルバム『風舞』の中の曲ですね、CHAGEさんが19歳の時に作った。CHAGE and ASKAの曲の中では一番古い曲なのではないでしょうか。CHAGEさんがヤマハのポピュラーソングコンテストに応募しようと思って作ったんだけど、バラードが多いからということで、アッパーな曲で応募して福岡大会のグランプリになった。その時はCAHGEさんとASKAさんが別々だったんですよね。
ひとり咲き / CHAGE and ASKA
「声を聞かせて」という風に言っておりますけど、その曲はこの後にお送りしようと思います。この会場で「はなー! こいー!」と叫んでいらした、当時は19歳の方なんですが今は56歳ということになります。お元気なんでしょうか? このライブビデオテープが発売されておりまして、私事なんですが、初めてCHAGE and ASKAと仕事をしたのがこのライブの映像なんですよ。
「声を聞かせて」 / CHAGE and ASKA
ライブの4日前にASKAさんが作った曲ですね。
尾崎豊さんの「BOW!」。1985年11月15日に代々木国立第一競技場で行われたライブ。1987年に出たライブアルバム『LAST TEENAGE APPEARANCE』からお聴きいただいております。この曲が入ったアルバム『回帰線』は1985年リリースですね。いきなり1位だった。でも、世間はまだほとんどだれも知らなかったと言っていいでしょう。10代の中高生だけが知っていたという状態でした。1980年代前半、荒れる学園というものがありました。高校の封鎖も多発しておりました。TVドラマ『3年B組金八先生』というのはそういう背景で大ヒットしておりました。尾崎さんのデビューは1983年11月1日、アルバム『十七歳の地図』、シングル『15の夜』の同時発売ですね。高校を中退して、1984年3月の卒業式の日に新宿・ルイードでライブを行なった。そして1984年8月4日に日比谷野外音楽堂のアトミックカフェ、この時にPAから飛び降りて骨折した。そしてリハビリを経て、ライブ活動を再開したのは1985年ですね。1月に日本青年館でやりました。これを見に行って衝撃を受けましたね。5月の立川市民会館からツアーが始まって、さっきちょっと触れた大阪球場のライブがあったんですね。 CHAGE and ASKAも下積みがないユニットでしたが、尾崎さんも、そういう意味ではそんなに下積みがあったわけじゃないですね、2枚目のアルバムがいきなりチャート1位になったわけです。ただ違っていたのは、メディアからの扱われ方。 CHAGE and ASKAと尾崎さんは全然違いましたね。尾崎さんは10代のヒーロー、反抗のカリスマ、世代の旗手と色々と持ち上げられました。レッテルを貼られました。この代々木のライブは、そういういろいろな意味の異様な空気というのがありましたね。お聴きいただくのは、デビューアルバムのタイトル「十七歳の地図」。
尾崎豊さんで「十七歳の地図」。1985年11月15日に代々木国立第一競技場で行われたライブ「LAST TEENAGE APPEARANCE」の模様を収めたライブアルバムからお聴きいただいております。こういうMCをしていたんですね。気負ってたというんでしょうか、青臭いというんでしょうかね。こういうMCが、尾崎さんをカリスマと言わせた理由にもなったわけですね。でも、この「十七歳の地図」で好きだなと思うのは、「親の背中にひたむきさを感じて 涙してしまう」というこの感受性の強さ。優しさみたいなものですね。それと、さっきの「BOW!」の歌詞にあった「鉄を食え 飢えた狼よ 死んでも豚には食いつくな」。この正義感、このフレーズ好きでしたね。弱いものいじめを絶対するなっていうこともあるわけですから。この感受性と正義感、優しさと強さみたいなものが尾崎豊さんの両面としてあったんだと思いますね。彼がデビューした時に、業界とメディアが否定派と肯定派の真っ二つになったんですね。年齢の少し上の人たちが否定派だったんです。暑苦しいとか正義漢ぶってとかそういう反発ですね。肯定派というのは、尾崎さんと同世代か少し下、高校生くらいの人たちかちょっと上の僕らみたいな1970年代に学生運動を経験したような世代。何かに対して反抗的だった経験のあるような人達が、こういう若者が出てきてホッとしたと。僕も圧倒的に肯定派でしたが、客席で尾崎ー! と声をあげたのはやっぱり同世代ですね。そんな彼らを直撃したのはこの曲です、「15の夜」。
1985年11月15日に代々木国立第一競技場で行われたライブ「LAST TEENAGE APPEARANCE」から「15の夜」。反抗のカリスマに祭り上げられた曲がこれでしょうね。よくお聴きになると、「自由になれた気がした」と歌っているわけで、これで自由になれるとか、自由になろうと歌っているわけではないんですね。彼はそういう安易な呼びかけをしたことがないアーティストです。「卒業」もそうですね。「早く自由になりたかった」、「卒業して何がわかるというのか」という永遠の疑問符の歌です。でも、校舎の窓ガラスを割るとか盗んだバイクで走り出すとか、そういうところが強調されて、そこが一人歩きをしてしまって、尾崎豊は反抗のヒーローになっちゃったんですね。そういう色々な今ある自分や、周りの価値観と抗いながら戦いながら自分であろうとした彼の一生ですね。この時、既にこういう歌を歌っていました。このライブのアンコール最後の曲がこれでした。「シェリー」。
尾崎豊さんのアルバム『回帰線』の最後の曲でもありましたね、コンサートもこれで終わっておりました。初めてこの曲を聴いた時、尾崎さんのライブを見た時、この打ちのめされたような、放心したような、呆然としたような、体が震えるような……。ああいう経験は未だにした事がないですね。こんなに身を削って歌うシンガー、こんなにステージで苦しそうに、自分の血を塗りたくっているようなライブをやる若者がいるんだと。価値観が変わりましたね。時代が変わったとか、そういうのを超えた何かがあったような感じがしました。存在自体がドキュメンタリーというんでしょうか。この代々木のライブの打ち上げがありまして、尾崎さんは当時の事務所の社長とレコード会社の担当の人の名前を挙げて、音楽業界に革命を起こしますと言ったんですね。19歳のひたむきな、純粋な正義感だったんでしょう。それが裏切られたと思った時に、どういう反動が来たということも彼の生涯の中で大きなエポックだったんではないかなと思ったりしております。尾崎豊さん、最後のライブも代々木だったんですね。これは『約束の日』というライブ盤、Vol.1と2で発売されております。『LAST TEENAGE APPEARANCE』と聴き比べると、彼の生涯がちょっとだけ分かるかもしれません。お聴きいただきましたのは、尾崎豊さんの代々木でのライブアルバム『LAST TEENAGE APPEARANCE』から「シェリー」でした。
流れているのは、この番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。この2枚のアルバムに共通している事がありまして、”代々木オリンピックプール”という言葉が使われているんですね。まだ、オリンピックプールという印象が強かった時代ですね。CHAGE and ASKAが1983年、尾崎豊さんが1985年と2年しか経っていないんですけど、それまでは東京には1万人クラスの会場が武道館しかなかったんです。代々木ができて、大規模ライブのシーンが変わりましたね。1985年は、ブルース・スプリングスティーンの「ボーン・イン・ザ・USA」のライブがあったんですよ。それも見に行ったんですが、日本の観客が「ボーン・イン・ザ・USA」のサビだけ大合唱しているシーンが、どうも妙だったんです。そのことについて、デイヴ・マーシュという人が1980年代のスプリングスティーンを描いた『明日なき暴走』という本の中で触れておりまして、日本のロックファンにとってロックはファッションだ、それが生活の中にあるとか言葉の意味を理解しているわけじゃないんだって書いていたんですね。それを見てムカつきました。そうじゃないんじゃないか? 日本には浜田省吾がいるじゃないかと思って、彼のことを書こうと思ったんですけど、日本には尾崎豊もおりましたね。代々木第一国立競技場は、改装されました。それまでの耐震規格を満たしていなかったんですね。何かあったら大変なことになっていたかもしれませんが、今は問題ありません。床がコンクリで厚くなりました。さて、このライブ盤特集は来月もやります。ご好評いただいたということではなくて、このままでは終われなくなってしまったということが正直なところでもあります(笑)。来月もライブ盤特集です。
<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp
「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
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