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彼らの終焉の日々を決定づける形となった軋轢の中、いよいよビートルズは自分たちの最後の、そして極めて重要な意味を持つであろう共同作業のために再結集した。それは7年に及んだ協調の一つのクライマックスだった。一緒に成長し、そして今や別々の道へと歩み出すことを始めていた4人は、やりかけのままだった作品の断片を集めなおし、それらを輝かしき記念碑へと作りかえたのだ。
ある時点まで同作は『エヴェレスト』というタイトルになる予定だった。バンドの経歴の最高峰という意味だ。『ホワイト・アルバム』の制作過程で生じていた小さくない怨嗟と、やがては来たる1970年に彼らの最後のアルバム『レット・イット・ビー』として世に出ることにもなる例の災厄のようなセッションの後では、ビートルズも慣れ親しんだ場所へと立ち戻る必要があった。解散のぎりぎり瀬戸際というこの状況で彼らは、年来のつき合いだったプロデューサーであるジョージ・マーティンを呼び戻し、古巣とも呼ぶべきスタジオへと還ることにした。アビイ・ロードだ。せめて自らの手で最後通牒を刻み込むためだった。
「昔やっていた通りにやろうと思うんだ」
ポ―ル・マッカートニーはマーティンにそう言ったのだと伝えられている。
ある意味、彼らはこの言葉通りにやった。
1969年2月22日、ビートルズはハンブルグ時代からの旧知である鍵盤奏者のビリー・プレストンとロンドンのトライデントスタジオで再会し、ジョン・レノンの作品である、スロウでありながら躍動的なロックナンバー「アイ・ウォント・ユー」の収録から着手した。同曲のあからさまな欲望の告白は、彼ら自身の極初期の、単純だった感傷を呼び起こす契機ともなり、ある意味ではアルバム全体の”帰ってきたんだ”という空気を築いてくれもした。しかし続く2カ月ほどの間、4人揃って仕上げられるだけの時間が確保できたのは結局この一曲だけだった。それぞれが別々の仕事に散っていってしまったからだ。リンゴ・スターには映画『マジック・クリスチャン』の撮影があった。ポールはリンダ・イーストマンとの結婚を控えていたうえ、メリー・ホプキンとジャッキー・ロマックスのプロデュースも引き受けていた。同じく結婚の運びとなったジョンとヨーコ・オノとは、まずパリへと向かい、それから式のためジブラルタルまで足を伸ばし、一旦フランスに戻った後はそこからアムステルダムへ行き、同地で平和運動(ピース・ムーヴメント)を広めるべく1週間をベッドに横になったきりで過ごし、最後にウィーンに立ち寄ってからようやくロンドンへと帰ってきた。
この旅行日程に多少でも”慣れ親しんだ”ものがあったとすれば、それはジョンがこの一連をただちにビートルズのシングルとしてまとめ上げたことだろう。「ジョンとヨーコのバラード」だ。4月14日、彼はポールと二人、アビイ・ロードでの一度きりのセッションでこれをレコーディングしている。
ジョージ・ハリスンの覚醒
この混沌とした事態の中、ジョージはソングライターとしての成熟の気配を見せ始めていた。ジョンやポールと比べれば、この面での自分の才能についてはつねに謙虚だった彼が、である。
「実際その気にさえなれば誰にでも曲を書くことはできると思うよ」
1969年10月に行われたインタビューで彼はそうも言っている。
「僕もただ書くだけだ。歌ってのはきっと、それ自身が望んだ通りに出てくるもんなんだろうね。中にはキャッチーなものもある。『ヒア・カムズ・ザ・サン』みたいにね。だけどそうでないやつも時々ある。だからその、わかるだろう?――自分でもね、どこで空回ってるのかはよくわかってないんだよ」
次回、4月16日のバンドでのセッションは、すべてが彼の手による二曲に費やされた。「オールド・ブラウン・シュー」と初期バージョンの「サムシング」である。
続く3週間、バンドはアビイ・ロードとオリンピックの両スタジオに通い続けた。
相次ぐトラブルと中断、そしてセッション再開
音楽に専心していられる場面ではビートルズも順調だった。しかし一旦ほかの物事に、特に問題山積だったビジネスの部分に注意を向けなければならなくなると、事態はもうほとんど災厄みたいになった。彼らの顧問たちは互いに争い合っており、そのうえバンドは、自分たちの作品の権利を取り戻すという、勝者などハナからいないような戦いに巻き込まれてもいたのである。つい先頃ビートルズの楽曲の出版社であるノーザンソングスが、彼らからの資金援助も一切ないままに売却されてしまっていたのだ。しかも、買い戻すための計画も、以下のジョンの発言を受けてすっかり暗礁に乗り上げてしまった。
「俺はスーツ着てデブったケツの上に座ってるような連中に、間抜け扱いされるつもりはないよ」
ポールもアルバム用に起こした新曲「ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー」でこの事態に触れている。
それからの2カ月を、彼らはばらばらに過ごした。再びそれぞれの伴侶を伴っての休暇に出かけてしまったのだ。ポールとリンダはギリシャに飛んだ。リンゴとその妻モーリーンはニューヨーク観光だ。ジョンとヨーコはモントリオールで二度目の”ベッドイン”を敢行した。二人は同地で「平和を我等に」を録音してもいる。プラスティック・オノ・バンドの名義でリリースされた最初のシングルになる。それでも作者のクレジットは”レノン&マッカートニー”となっていたのだが、それも常よりも一層、いかにも形だけという空気満々の仕儀だった。
レコーディングが開始されてから4カ月以上が経ったところで、ようやくビートルズもアルバムの実現に向けて本腰を入れ出した。ジョージ・マーティンを迎え、7月と8月の両方にわたって平日のアビイ・ロード・スタジオのスケジュールをほとんど全部押さえたのだ。だが、最初の週の収録現場にはジョンの姿が見つからなかった。
しかし、この事態もほかの三人が仕事に取り掛かるのを止めさせることにはならなかった。彼らは「ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー」を仕上げ、続けて同じくポールの「ゴールデン・スランバー/キャリー・ザット・ウェイト」へと着手した。ポールはこの時単独で、自身の小品「ハー・マジェスティ」も録音している。このトラックは当初、長いメドレーとしてアルバムに収録しようとしていた作品群を繋ぎ合わせる、そのリンクの一部として用いられる予定になっていた。さらに、このときのセッションで三人は、ジョージの傑作「ヒア・カムズ・ザ・サン」もレコーディングしている。こちらはやはり悲惨でしかなかった経営に関する会議を作者本人がバックれている間に書かれたものだったのだが、特に同曲の持つ脆く儚げな楽天性が、ビートルたちの中でも最も自分の居場所に不満を持っていたかに見える男から出てきた事実には、胸の痛む思いを禁じ得ない。
B面メドレーの制作背景
7月9日にはジョンが復帰したのだが、彼はまだ治療中のヨーコをスタジオに一緒に連れてきた。安静にしていられるよう彼女用のベッドがしつらえられ、しかもヘッドセットまで渡されていたものだから、しようと思えばスタジオで進行する一切について、彼女がいつでも口を出せるような状況になっていた。それでもジョンがいよいよ万全となり、バンド全体で彼の「カム・トゥゲザー」に着手したのは7月もさらに進んだ21日になってからのことだった。これはシンプルでファンキーな、ジョンによる政治的団結への呼びかけである。
その次にビートルズが挑んだのは、アルバムの最後を飾る予定のメドレーだった。
「あの頃のいかれた全部が今こうして灰になっちまってみると、あの最後のパートが、自分たちが一緒にやった中でも最高の出来だったのかも知れないなと思えてくるよ。僕にとっては、ということだけどね」
リンゴは後にこのように言っている。逆にジョンの方は、そこまで気に入るということはついになかったようである。
「あれらの曲はどれをとったって、ほかのどれかとちゃんと関係があるって訳じゃない。縒り上げる糸だって通っちゃいない。事実はただ僕らがくっつけてみたってことだけだ」。1980年に彼はそう語っている。
メドレーを支配しているのはポールによる楽曲たちだ。それゆえ当然ながら、これらを有効に機能させるため最も大きな役割を果たしているのは彼である。ビートルズはまず7月23日に、メドレーの締めとなる予定の小品に手をつけるところから始めている。当初「エンディング」と呼ばれていたこの箇所は、後には「ジ・エンド」として知られるようになる。続く数日で「サン・キング」「ミーン・ミスター・マスタード」「ポリシーン・パン」、それから「シー・ケイム・イン・スルー・ザ・バスルーム・ウィンドー」がレコーディングされた。この段階ではバンドにもまだ、はたしてすべてがきっちりとハマってくれるものかどうかは判然としてはいなかった。最後の最後には、テープのオペレーターの犯した一つのミスが、結局彼らの一番気に入る曲の並びへと結びついた。23秒の「ハー・マジェスティ」を、誤ってメドレーの最後に繋いでしまったのだ。
「これが最後になる」と思いながら作っていた
ジョンの「ビコーズ」の収録が始まったのは8月1日。これはアルバムに収録される最後の新曲でもあった。同曲の三声コーラス部は、バンドのヴォーカリストたちがいかに素晴らしかったかを物語る好例の一つである。その先の3週間はオーバーダブと編集、そして仕上げの作業に費やされた。8月5日にはジョージが巨大なムーグシンセサイザーをスタジオに運び込んでおり、これによって、彼自身なりあるいはポールなりジョンなりが、幾つかの曲に、同楽器のすぐにはこの世のものとも思えないような響きを加味することが可能になった。
あの象徴的なジャケットのための写真撮影が行われたのは8月8日。ロンドンにしてはずいぶんと暑い日だった。ポールが裸足になっていたのはこのせいだったということも十分にあり得よう。ここまでの歳月、それこそ何千という単位の時間を過ごしてきたであろうスタジオに背を向けて歩き去っていくビートルたちの姿がフィルムの上に固定された。
アルバムでの曲の並びもまた、これが最後の作品になるだろうという示唆を、バンドから半ば無理やりに引き出したような形となった。実は当初の予定では、曲順は今私たちが知っているものとは逆となる可能性もあったのだ。しかし最終的にA面があの、黙示録を思わせさえする「アイ・ウォント・ユー」の突然の中断で終わることになり、B面の方は長大なメドレーとそのアンチコーダ(非後奏)ともいうべき「ハー・マジェスティ」で幕を閉じる形と定まった。かくして『アビイ・ロード』の両面はそれぞれ、答えなど与えられぬまま唐突に終わりを迎える今の姿と相成った。バンド自身の終焉もまた、明らかに目前に迫っていた。問題はそれがいつかということだけだ。
「実に幸せなレコードだよ」
ジョージ・マーティンは後に本作についてこう回想している。
「誰もがこれが最後になるのだなと思いながらやっていた。だからこそあれは幸せな一枚になったんだ」
ジョン・レノンの脱退宣言
9月12日のことだ。親しい記者たちとの雑談の中でジョンは、ほかの人たちともずいぶんやったけれど、と前置きしたうえで、こんなことを宣言した。
「だけどまあ、もしまたレコードを作りたくなったビートルズとやるな」
そればかりか、制作中だったドキュメンタリーフィルム『ゲット・バック』の公開予定となっている1月頃には、また全員でレコーディングしているだろうとも発言した。
これと同じ日に、興行主(プロモーター)のジョン・ブラウアーが、トロントで予定されていた自身主催の「ロックンロール・リヴァイヴァル・フェスティヴァル」への出演をジョンに打診した。出演者の中にはチャック・ベリーやリトル・リチャード、ジェリー・リー・ルイスらが名を連ねていた。ジョンの方もほぼ脊髄反射的に快諾し、翌日には当座寄せ集めたプラスティック・オノ・バンドを率いてカナダに飛んで、同夜のうちにもう舞台に立ち、そしてそこで唐突にビートルズを辞めることを決意した。この時のステージは、3カ月後にはもう『平和の祈りをこめて』としてリリースされる運びとなった。
戻ってきた彼はメンバーに向け、自分はもうバンドを去ることにしたと告げた。彼らはこれを極秘扱いとすることにも同意した。ちょうどマネージャーのかの悪名高きアラン・クラインが、バンドにもっと有利になるぞと嘯きながら新たな契約条件を調整している最中でもあったし、そうでなくてもジョージとリンゴは二人とも、一度辞めると宣言してから戻ってきた過去があったからである。しかしこの数日後にジョンは、シングル用の「コールド・ターキー」を、ビートルズではなくプラスティック・オノ・バンドと一緒にレコーディングしたのだった。なお、この時の同バンドのメンバーは、リンゴとエリック・クラプトン、それにビートルズの年来の盟友クラウス・フォアマンだった。
その後にも残務整理めいた仕事が幾つか続いた。まず「サムシング」のミュージックビデオが制作されたのだが、ここではバンドメンバーが、誰にせよほかのメンバーと一緒に映るようなことも一切なかった。それからファンクラブ用のクリスマスレコードも作られたが、個々が自分の分の素材を別々に送るような形だった。『レット・イット・ビー』用の最後の追加セッションは、ジョン不在のまま実施された。『アビイ・ロード』は様々な意味で、バンドが一緒になって目指してきたことの一つの到達点だった。しかし1969年10月1日に同作が店頭に並ぶ頃には、もうビートルズはすでに実質的に消滅していたのである。
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