音楽評論家・田家秀樹が毎月一つのテーマを設定し毎週放送してきた「J-POP LEGEND FORUM」が10年目を迎えた2023年4月、「J-POP LEGEND CAFE」として生まれ変わりリスタート。1カ月1特集という従来のスタイルに捕らわれず自由な特集形式で表舞台だけでなく舞台裏や市井の存在までさまざまな日本の音楽界の伝説的な存在に迫る。


2023年6月の特集は「沖縄を知ろう」。沖縄戦で亡くなった方たちの霊を追悼する沖縄の慰霊の日である6月23日。その6月に改めて音楽を通して沖縄を知ろう、沖縄について勉強しようという1カ月間。PART1は、BEGIN比嘉栄昇を迎え、沖縄の音楽に迫る。

田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND CAFE」マスター田家秀樹です。今流れているのは、BEGINの「島人ぬ宝」。
2002年5月に出たシングルで、アルバムはその年に出た『ビギンの島唄~オモトタケオ2~』に入っておりました。今月の前テーマはこの曲です。

今月2023年6月のテーマは沖縄を知ろう。6月23日は沖縄の慰霊の日なんですね。約20万人。沖縄県民の4分の1の方が命を落としてしまったという沖縄戦が終結した日ですね。
亡くなった方たちの霊を追悼しようというのが沖縄の慰霊の日です。2001年から始まったBEGINの「うたの日」は毎年慰霊の日の週末に行われてます。今年も行われますね。今月は様々な形で沖縄が取り上げられるわけで、この番組では改めて音楽を通して沖縄を知ろうということでお送りしようと思います。沖縄について勉強しようという、そういう月ですね。

沖縄の音楽というのはどういう音楽で、沖縄というのはどういう歴史や文化を持った島なのか。
沖縄の音楽の歴史は古いですからね。15世紀の昔、450年続いた琉球王朝。その頃から始まってる。脈々と流れるその頃の音楽と戦後米軍が駐留するようになって入ってきたアメリカの音楽やイギリスの音楽。エレキギターとかドラムとかですね。そしてそこに日本の歌謡曲も加わって、沖縄独自のチャンプルなごった煮。
ゴーヤーチャンプルーとか、ああいうチャンプルーと呼ばれる沖縄の音楽が生まれるんですね。沖縄にしかない音楽や自然というのもあります。そんな沖縄を今一番広く紹介してる、語ってる、沖縄を伝えようとしているのがBEGINではないかということで、1週目、BEGINの比嘉栄昇さんをお招きしております。BEGINが東京に出てきたときに事務所に伺って話を聞いております。こんばんは。

比嘉:こんばんは。
よろしくお願いします。光栄でございます。

田家:とんでもないです。今月は1カ月間番組の前テーマということで「島人ぬ宝」を流そうと思ってるんですが、これは石垣の中学生が詞を書いたところから始まってるわけでしょ?

比嘉:そうですね。同級生がその当時、石垣中学校の2年生の担任をやっているということで、僕らは島の歌を作ろうと。かつて沖縄には「新しい沖縄の歌」っていう番組があって、それで僕らももう一度復活させたいっていうことで歌作りを始めて。
自分たちが歌詞を書くっていうより、今子供たちがどういうふうに石垣島、故郷を見ているかっていうことで、子供たちから言葉をいただきたいということで始まったのが「島人ぬ宝」でしたね。

田家:なるほどね。詞が集まってきたときに思われたことはどんなことでした。

比嘉:多分子供たちはかったるいなと思ってたと思うんですよ。授業に僕らも参加してたんですけど、気持ちわかるじゃないですか? 中学校のときになんか訳わからない大人が集まって、言葉書けなんて言ったらもう面倒くさいなって顔してましたよ。

田家:なんか有名な人らしいよみたいな。

比嘉:BEGINが来たけど別にみたいな。そういうのがまたかわいくて。気持ちもわかるし。だから作文とかじゃなくて一言でいいから何でもいいから書いてくれと。そしたら宝っていう言葉が数多く出てきたんですよ。「自分の爺ちゃんは宝です」とか「美白になりたい」とか「ヤギは美味しい」とかそういう適当な言葉がいっぱい集まって。でもなんかそれが逆にリアルだったし、この子たちの遠慮ない言葉っていうものがそこにあって。そうか、こういう島のことを宝物のように感じているっていうのは、もしかしたら全国的に見ても珍しいんじゃないかと。そういう宝っていう言葉にすごく心を動かされましたね。

田家:全国的に珍しいということで言えば、沖縄と音楽っていうテーマでも沖縄にしかないことがたくさんあるわけで、それを形にしてるのがBEGINの歌なわけで。今日の1曲目です。2000年のシングル、「涙そうそう」。

田家:2000年のシングルで「涙そうそう」。1998年に森山良子さんの歌で発売されました。作詞が良子さんで、作曲がBEGINです。これがあったことが今に繋がっていると言って良さそうですね。

比嘉:そうですね。まず、「涙そうそう」の”なだ”は方言で読めないですよね。僕らは仮タイトルのつもりでつけて、その当時カセットテープだったでしょ。カセットテープを良子さんに送って。そしたら良子さんがそのタイトルのまま歌詞をつけられて。彼女はフォークソングからカントリーからジャズから何でも歌える引き出しの多い懐の深いボーカリストなので、歌を作る際に、良子さんのどこを引き出してメロディーを書けばいいのかが全然わからなくて。結局沖縄に近いメロになっていったんですよね。初めて良子さんが歌うっていうときに、(島袋)優と(上地)等が演奏して、僕は良子さんが歌うからはけていようと思ったんですよ。そしたら良子さんが「側にいて」って言って。マネージャーさんか誰かが、良子ちゃんが歌えなくなるかもしれないから、そのときは栄昇くん歌ってねみたいなことを言われて。それはやっぱり歌詞の中で、亡くなられたお兄さんのことを歌ってるということで。

田家:この曲がBEGINのキャリアの中で、どういうターニングポイントになったのかを、この後にお聞きしていこうと思います。

田家:1994年のBEGINの「OKINAWAN SHOUT」。BEGINの曲でタイトルに沖縄って出てくるのはいつだろうと思ったら、このくらいの頃。

比嘉:封印してましたからね。なんかやっちゃいけないって。デビューするきっかけも、やっぱり沖縄出身者も同じ日本人ですよと。変わりませんよっていうのを伝えるためにデビューしたいってことだったので、だからどこ出身っていうんじゃなくって、フラットに歌を届けたい。僕は気をつけることは、日本語の発音をきっちり歌おうっていうことだけを大事にして。その当時、誰かに言われた言葉で、全国区でやっていくアーテイストは、どこどこ出身の何々ですよって言わないでしょと。みんな一緒なんだ、と。その言葉がすごく合点が行って。だったら自分たちはあえて沖縄出身っては言っていたんですけど、それを大きな特色として出していくのはスタートラインとしてはおかしいということで封印して。出すまでにかなりかかりましたよね。そこから5年くらいかかったんじゃないすか。

田家:なるほどね。「恋しくて」はイカ天用に作った曲なわけですよね?

比嘉:いや、イカ天用ってわけじゃなくて、その当時、友達の結婚式をライブハウスでやろうと貸し切って。そのときにバンドで演奏したら、そこのマスターから月1で出てみないかって言っていただいて。ガソリンアレイっていうライブハウスで。そこでライブをやるにあたって、僕らはオリジナル曲とか作ったことがなかったので、その数曲あった中の1曲だったんですね。でも「恋しくて」は自分たちで作ったっていうよりは、いままでのブルーズのコード進行から、もちろん歌謡曲にも影響を受けてるし、関西のサウス トゥ サウスとか憂歌団とかそういった方々で。一番は、中学校2年のときの音楽の先生がレッド・ツェッペリンとかのLPを持ってきて音楽の時間に流すっていう。その先生が伝説のギタリストで、誰よりも上手くジミー・ペイジを弾いた。

田家:ジミー・ペイジ、どっかの曲に歌詞に出てましたね(笑)。

比嘉:その先生がつま弾いていたコード進行なり、メロディも影響を受けてるんですよ。そんなのが凝縮されてできたとは思うんですけどね。

田家:さっきは封印してたっていう話がありましたけど、今年の春のツアーは、割と島唄色が薄い曲が並んでましたね。

比嘉:コロナ禍があって、僕は音楽って元気にさせるとか勇気を与えてくれるとかってのもあるんですけど、自分の気持ちをちょっと穏やかにしてくれるみたいなのもすごく大事なんじゃないかなと思って。世の中、笑ったら元気になるとか、笑うのって疲れるよね、なんか気を使ってみんな笑わなくていいんじゃないのっていう、そういうふうに思って。だからあえてちょっとバラードを多く、ちょっとノスタルジックな曲を集めて。

田家:始まりが「イエスタデイ・ワンス・モア」でした。

比嘉:そういうふうな思いだったので、島唄っていうものはちょっと置いとこうかなってなりましたね。

田家:なるほどね。図らずも島唄前のBEGINがチラチラ見えるというステージではあったんですが、デビューアルバムがロサンゼルス録音の『音楽旅団』。5枚目のアルバム『MY HOME TOWN』はナッシュビル録音っていう、いろんなトライがあった中で沖縄っていうところに行くというのが、この後の話であります。次の曲は98年の9枚目のアルバム『Tokyo Ocean』の中の「未来の君へ」。

田家:1998年の9枚目アルバム『Tokyo Ocean』の中の「未来の君へ」。これは栄昇さんにとってはもう忘れられない意味のある曲なんでしょう。

比嘉:そうですね。不思議な曲で、僕はずっと高校のときからお付き合いさせていただいてた方と結婚するんですけど、まだ子供ができたってことを知らないのに「未来の君へ」っていう歌が先にできて。この歌ができた後に妊娠しましたみたいな。だから虫の知らせって言うのかなみたいな、不思議な気分になったんですよね。

田家:息子さんに送ったっていう曲ではない。

比嘉:息子がもし生まれるよってなってたら、僕はこの歌を書けなかったと思います。照れ臭くて(笑)。

田家:逆にね。98年はさっきの「涙そうそう」ができた年でもあるわけで、90年にデビューして、98年とか99年とかっていうのは明らかに違うところに向かい始めたってことでしょうね。

比嘉:そうですね。多分音楽業界自体も、いろんな転換期があって。アーティストがどこに向かっていくのか、どういう歌作りをするのかって時期だったと思うんです。事務所の偉い方に、お前はニューヨークに行ってこいと。俺は本当に旅するのが苦手でどこにも行きたくないんですよ。しかも、1人で行って歌詞を書いて来いと。多分BEGINが何か煮詰まっているというか行き詰まってる感じを察したと思うんです。僕はライブとか見たいんですけど、手続き踏んでとか苦手だからずっと部屋にいたんですよ。ニューヨークの空気吸えるだけでもいいやって。で、いるうちに何を書いたかっていうと、「防波堤で見た景色」っていう石垣島の歌詞をニューヨークで書いて帰ってきたんです。

田家:「防波堤で見た景色」の歌詞はニューヨークで書いてきた。

比嘉:それって、ニューヨーク行く必要ないんじゃんって。そうか、自分はやっぱりこんなに沖縄のこと、そして石垣島のことを思っているのかと。だったら、そのことを当たり前に歌ってもいいんじゃないのかなって、逆にニューヨークに教えていただいたんですかね。そんなことがありましたよ(笑)。

田家:やっぱりいろんなところを旅する中で、新しい何かが見えてくるという本当にいい例なんでしょうね。

田家:作詞がBEGINと大島保克さん。この方は同級生。

比嘉:そうですね。大島保克は石垣島では白保村っていう、ここから名だたる歌い手が現れる不思議な場所なんですよ。新良幸人とかもそうなんですけど、大島保克は島唄を歌いながらも、例えば高田渡さんの歌を歌ってみたりとか、いろいろと三線と何か新しいものを作っていこうっていう気持ちがあったやつで。そいつがデビューアルバムを作るっていうんで、初めて作ったのが「イラヨイ月夜浜」っていう歌で、それがあったから僕は島唄、いわゆる三線を持っての島唄が作れるようになったんですよ。それまでは、大島保克、新良幸人がいるので、そこは触っちゃいけない。

田家:そういうとてもプライベートの意味合いもあったんですね。

比嘉:そんな大島保克が一緒に歌を作ろうということで、できた歌があったので、それから無理やり大島保克がその当時住んでいた大阪に押しかけていって、お前歌詞を書けってああだこうだやりながら作ったのが「かりゆしの夜」だったんですね。

田家:なるほどね。さっきおっしゃった封印してたっていうのは、音楽の流れだとか歴史だとかってことじゃなくて、身近なところにやってる人がいたから、これはやっちゃいけないんじゃないかってことだったんだ。

比嘉:そこはもう触っちゃいけない。だから僕らはブルースとか、ロックとか、そういうところでやっていくからお互いに頑張っていこうっていう約束18、19の頃にした淡い約束がずっとあって(笑)。

田家:なるほどね。それで「かりゆしの夜」を作って、『ビギンの島唄 ~オモトタケオ~』をという島唄アルバムをデビュー10周年で作ったわけですもんね。

比嘉:本当は『BEGIN』っていう3人だけで演奏したアルバムがあるんですけど、それを出すから10周年っていうお祝いだと思ってテイチクレコードさんに島唄のアルバムを作りたいんだと。でも、なぜそんなのやる必要があるのみたいな(笑)。いや、でもこれはもう理屈じゃないんです。やりたいんですよねって言って。だから、10周年のお祝いを逆に僕らへのプレゼントだと思ってCDを出させてくださいと。『ビギンの島唄 ~オモトタケオ~』っていう。

田家:石垣島の山の名前を使って。

比嘉:タイトルもわけわからないし、なんだよこれみたいな感じだったんですよ。確かにそうですよねと。ですけども、このアルバムが、今のBEGINを導いてくれたアルバムになりましたね。

田家:これがあったから、「うたの日」に繋がっていったんだろうということで、その話は曲の後にお聞きしようと思います。2006年の曲で「三線の花」。

田家:2007年のアルバム『オキナワン フール オーケストラ』の中の「三線の花」。この曲を作ったときのことは。

比嘉:BEGINが15周年のときだったかな。武道館でライブをやったんですよね。そのときに、これはまずいと思ったんですよ。お客さんも集まってるし、スタッフも含めメンバーも調子乗ってるなっていう。このまま大きなライブをやるような、そんなバンドではないと。そもそも、そういう目的で音楽を始めたわけじゃないし。やっぱりそういうでかいステージを年に何回かやるのは、僕にとってはとっても恐ろしいことっていうか。せっかく島を離れて、いろんなところを旅しながら、土地土地に足を運んでなんぼだろって思ってたのに窮屈になる。まずいって言って、2年間ライブ止めたんですよ(笑)。このままでかくなっても意味ないって。それは今思うとすごく良かったと思うんですよ。歌っていうものはやっぱり誰のものでもないんだと。そういったものが、商業的に成功するっていうことは本当に素晴らしいことだし、羨ましくも思うんだけど、でも僕はそこを目指していない。やっぱり歌が自由に歌えるような、ライブ会場に行っても出待ちの人もほとんどいません。そのまま入っていってライブをやって帰ってこれるような隙間を突いていきたいぜみたいな、そんなこと思ってたんですよ。

田家:「うたの日」は2000年にさだまさしさんの『夏 長崎から』に出て、その翌年から始まってるわけでしょ。一番最初始めたときに思ったことと、今おっしゃった、続けていく中で思うようになってことはやっぱり変わってきたんですか。変わらないものもあった。

比嘉:やっぱり歌は世につれ、やっぱり世の中の変化とともに変わっていくなっていうのを、まさしくその通りなんだっていうのを思ってますね。だから、さださんが作り続けてきたものを間近で見てて、20年間『夏 長崎から』をやり続けて、21年目に広島から長崎に向けて歌って。そのときに僕らはそのステージに呼んでいただいて、「お前たちもこれからやっていくんだ」みたいなのは語らずとも教えていただきました。でも、「うたの日」が20周年のときって、あっという間に来ましたみたいな。さださんめっちゃきついぞって言ってたけど全然きつくなかったぞみたいな(笑)。やっぱりそれぞれが状況によって違うんでしょうし、歌のあり方っていうものが、これだけ好きに聞けるようなアーカイブ世代ってよく言いますけど、そういう時代がこんな早く来るとは思わなかったし、あれだけドキドキしてバイトして集めたこのレコードってどうなるのみたいな(笑)。そういうことも踏まえて変わり続けていってるから、僕らの思いも変わり続けてますね。

田家:なるほどね。今年は、うるま市、沖縄本島でやるわけですが、2011年、2012年、2020年、2021年、20周年は石垣島だったんですね。

比嘉:そうです。やっぱりコロナ禍でどこでもやっちゃいけないような雰囲気だったので。そういうときってやっぱり故郷ってありがたいですよね。石垣島ならいいかっていう雰囲気が出たので、それで本当に石垣島に甘えさせてもらって20周年やって。戦争中は歌うことも踊ることもできなくて。防空壕の中で泣いてる赤ちゃんの口を押さえてたっていう話を聞いて、そういう時代があったんだと。だからこそ戦争が終わったとされる翌日からは自由に歌えて、大きな声を出せたってことに幸せを感じていたんだと。だから、そのことだけを僕らは伝えていこうということで、反戦のライブではないです、あえて僕たちは歌うことの喜びを分かち合ってお祝いしようということだけやってきたつもりなんですけど。それが歴史が塗り替えられて。コロナ禍で3年間そういう思いを子供たちにまたさせてしまったということで。だから新たな「うたの日」をまた作り直したいしって思いですよね。だからもう戦争があったからっていうふうには言えないな。石垣島は尖閣も近いですから、ゴタゴタしてるんですよね。ですけど島の人間は普通に暮らしていて。前と違うのは、この問題ってもう世界規模の問題でしょ。僕らで決めるなんて無理ですよって逆にボールを投げ返すことができるっていうのが全然違います。昔はこの島でどうにか反対運動してでも止めなきゃいけないとか、そんなことじゃないです。情報が世界中を駆け巡るようになったりなった今、これは世界中で考えましょうよっていう、ある意味そういうポジションで少し楽になったかもしれないですね。

田家:今年のラインナップはどなたがお出になるんですか。

比嘉:伊勢正三さんとハンバート ハンバートですね。

田家:いいですねあの2人は。

比嘉:いま音楽のあり方が多様化されて、AIまで入ってきてるし、面白いなと思ってるんですよ。どんな音楽作るんだろうと。それは悲しいかな、AIさんは自分が作った音楽が受けてるぜみたいな喜びはないでしょうから。でも、受け取った人間がどういう感情になるかってすごく興味があって。なんですけど、僕らがやってることって、生身の人間がどれだけのことができて、歌の中で、それこそ伊勢正三さんが見せてくれるイメージっていうものはすごいですよね。ギター持って歌ってるだけなのに景色が想像されて。そういうものって今の時代、ちっちゃい子供たちは動画に慣れてるから隅々まで目で見て音で感じてっていうふうに。その世代が正やんの歌を聞いたとき、どんなふうなことを感じるんだろうか。やっぱり手作りで歌を作っていってる人たちに、今の現時点では、そういう手作りで音を出せる人たちと一緒に音を出したいなと思います。

田家:今日最後の曲は思いがけない曲だと思われる方もいらっしゃるでしょうが、BEGINで「月がとっても青いから」。

田家:2015年のアルバム『ビギンのマルシャ ショーラ』から「月がとっても青いから」をお聴きいただきました。1955年、昭和30年、菅原都々子さん。マルシャ ショーラはブラジルの伝統音楽、ちょっとサンバに似たマルシャで、23曲の大メドレーが入ってた。

比嘉:それこそ菅原都々子さん、「うたの日」に来ていただいたんですよ。僕らも後ろで演奏させていただいて。やっぱり歌の力ってすごいなって思いました。音楽って、レコーディングされたものが半永久的に残っていくじゃないですか。でも歳とって田端義夫さんもそうだったんですけど、さらにもう声が出なくなったってなっても、そのオリジナルの方が見せてくれる景色がこんなに美しいんだと。だから菅原都々子さんの歌っていうのは知らず知らずに涙が溢れてくるっていう、すごいものを見させていただいたなと。

田家:なるほどね。「うたの日」で見なかったらきっとこの人たちに出会わなかっただろうなと思うのが、白百合クラブ。あれもこんなに年配の方たちがっていう人たちでしょう。やっぱり石垣島っていうのは、そういう『マルシャ ショーラ』の選曲もそうですけど、時代を超えてる何かがある島なのかなと思いましたけども。

比嘉:白百合クラブがある村が白保村なんですよ。ちっちゃい石垣島の中でも土地が持つ力ってあると思うんですよね。なんで自分も今、音楽をミュージシャンはどこにいてもやれる時代になったじゃないですか。配信とかもできる。だからこそ今後、土地が持つメロディーだったり、リズム感だったりとかっていうものが、いろんなところから出てくるんじゃないかって楽しみにしてるんですよ。その思いを自分も逆に返したいので、石垣島のこの流れてるメロディーをどうにかキャッチして、お届けしたいなという思いに今なってます。

田家:今回の沖縄特集の4週間中にもう一人、石垣島の方がいらっしゃってて、齋藤悌子さんっていう87歳の女性のジャズシンガーの方。ご存知ですか?

比嘉:僕は知っているんですけどお会いしたことなくて。宮古島のご出身、そんなちっちゃい島からジャズを目指すなんてとんでもないことだったと思うんですよ。多分小さい島の中にいながら世界をイメージした方だと思うんですよ。だから、その方が今の沖縄で今の石垣島をどう見ているのか、どういうふうに今の時代が見えているのか。こんだけジャズを聞くのも探すのも大変だっただろうし。今、子供たちは聞こうと思えばボタン一つで聞けるっていうこの時代にどんな思いをされるのかなっていうのを、お聞きしたいですね。

田家:沖縄ということからちょっと離れるんですけど、この番組がレジェンドカフェっていう形でリニューアルしたんですね。登場していただいた方にとってのレジェンドカフェがもしあったら教えていただきたいなと思ったんですよ。

比嘉:やっぱりB.Y.G。お酒ではなくて、コーヒーを飲みながら、レコードで西海岸の音楽を聞くとか、そういうのが一番僕は至福のときですよね。そこでお会いした方々もいらっしゃいますし、エンケンさんとかもそうですし、B.Y.Gでお話したなとか、そういう場所が音を記憶してるような感じってありますよね。東京に行ったら、B.Y.Gっていうのは僕にとっては一番大事な場所ですね。

田家:わかりました。今年の「うたの日」、成功を祈っております。ありがとうざいました。

比嘉:ありがとうございました。

流れてるのはこの番組のテーマ竹内まりやさんの「静かな伝説」です。BEGINが「島唄」にたどり着くまでの10年がどういう時間だったのかというのが語られることはあまりないので、なるほどと思われた方がいらっしゃると嬉しいなと思います。私ごとで、初めて沖縄に行ったのが1975年なんですね。海洋博ってあったのご記憶ですかね。あそこの跡地で、大晦日にオールナイトのトークイベントが開かれたんですね。それを見に行った。まだ道路は右側を走っておりました。出演者は東京から船で行ってましたね。沖縄フォーク村というのがあった時代です。70年代はベトナム戦争もありましたから、アメリカのロックとフォーク系の人たちが共存してたんですね。そこに喜納昌吉 & チャンプルーズ、民謡をエレキギターでやるって人たちが登場して、沖縄の音楽っていろんなものがあるんだって気づかせてくれた時代ですね。東京とか大阪にはない刺激がそこにありました。

沖縄病って言葉があったんですよ、70年代。移住した人もずいぶんいましたね。知り合いで沖縄に行ってしまったって人もいました。70年代80年代当時は、島唄っていうのはあまりポップミュージックの流れの中では顧みられなかったですね。それをTHE BOOMの島唄が、全国区にして、それをさらに広めていったのが2000年代のBEGINでしょうね。島唄っていうのはこういう音楽で、僕らがやるとこうなるんです。BEGINがいたから、その後にMONGOL800とかHYとかORANGE RANGEとか、沖縄にちゃんと根付いて音楽をやってる人たちが登場してるわけですね。

BEGINの「うたの日」は、そういう大きな流れをずっと伝えてきてます。HYは、今「HY SKY Fes」っていうフェスをやっていて、彼らの世代のミュージシャンがそちらにも集まってるんですね。BEGINは石垣島にもスポットを当てましたね。来週は、そんな方にお話を伺います。

BEGIN比嘉栄昇と語る沖縄の音楽、バンドにとってのターニングポイント


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp
「J-POP LEGEND CAFE」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストにスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
https://cocolo.jp/service/homepage/index/1210

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