ヘヴィメタルの黎明期を切り拓いた”プリンス・オブ・ダークネス”、オジー・オズボーンがこの世を去った。ブラック・サバスのフロントマンとしての伝説的キャリアから、ソロアーティスト、リアリティ番組のスター、そして家族思いの父親としての晩年まで──本記事では、音楽史にその名を刻んだオジーの激動の人生を辿る。


生い立ち~ブラック・サバスの結成

1948年12月3日、イングランド・バーミンガムに生まれたジョン・マイケル・オズボーンは、労働者階級の6人兄弟の4番目として育った。父ジャックは夜勤の工場労働者、母リリアンは昼間の航空関連工場勤務というすれ違いの生活で、家庭内暴力も日常的だったという。オズボーン家は貧困線ぎりぎりの暮らしで、教会には通わなかったが、本人は「暇つぶしと紅茶とビスケット目当てに」日曜学校に通っていたと語る。その一方で、十字架を身に付け、地獄を想起させる歌詞を歌い続けた彼のアートには、宗教的な要素が色濃く刻まれていた。第二次世界大戦の爆撃跡で遊んだ子ども時代は、荒廃と想像力が背中合わせだった。

また、失読症と注意欠如障害を抱え、学校生活では劣等感と孤独を抱え続けた。後にバンドメイトとなるトニー・アイオミに殴られた記憶もあるる。常に「惨めで怯えていた」と本人は語り、それを笑いと狂気で覆い隠していたという。14歳で自殺を試みるが、その年、ビートルズの「She Loves You」に出会い、人生が一変する。「神の啓示だった。惑星が並び変わったようだった」と、当時を語っている。

しかし現実は厳しく、15歳で学校を中退後、建設業、工具職人、クラクション調律、屠殺場勤務など様々な職を転々とするも長続きせず、17歳で窃盗を犯し投獄される。
その後、父ジャックが250ポンド(当時としては大金)を費やしてマイクとアンプ、スピーカーを買い与えたことで転機が訪れる。

「OZZY ZIG NEEDS GIG(経験豊富なフロントマン、PA完備)」という貼り紙がきっかけで、ギーザー・バトラーと出会い、やがてトニー・アイオミ、ビル・ワードと合流。Polka Tulk Blues Bandとして出発し、Earthと改名してブルースやジャズのカバーを演奏していた。

あるリハーサルで、バトラーが語った悪夢──「邪悪な何かがそばに立っていた」──をきっかけに、オジーが「What is this that stands before me?(目の前に立つ者は何だ?)」と呟くように歌った。バンドはその感触をもとに曲を完成させ、「Black Sabbath(ブラック・サバス)」と命名。1963年のホラー映画からそのまま拝借したバンド名とともに、彼らのヘヴィで恐怖を煽る音楽は”Black Sabbath”として生まれ変わった。

バンドはようやく新しいサウンドを掴んだが、オジーはその輪にうまく溶け込めずにいた。「彼は自信がなかった」と、当時を知るマネージャーのジム・シンプソンはローリングストーン誌に語っている。「誰かに肩を抱かれながら『大丈夫、大丈夫だよ』と安心させてもらう必要があった。パフォーマンスに対していつも不安だったんだ。とても繊細で、好奇心旺盛だったよ。でも、ステージでは全身全霊でぶつかっていた。
出し惜しみなんて一切なかった」

メタルの金字塔『Paranoid』が生まれるまで

オジーとバンドメンバーたちは、スイスやドイツで1日に7回もライブを行う日々を何ヶ月も重ねることで、自分たちのリズムを見出していった。オリジナル曲の制作時には、オジーが即興でメロディをつけ、言葉が浮かばないときにはギーザー・バトラーが歌詞を提供した。「ギーザーの歌詞を”オジー語”にして吐き出せるのがすごかった」と、ビル・ワードは後に語っている。

この頃から、オジーは常習的にドラッグを摂取するようになっていった。ハッシュを吸い、LSDを服用していたという。バンドにまつわる逸話のひとつには、彼とワードが2年間毎日LSDを摂っていた、というものさえある。数年後にはコカインがバンドに深刻な亀裂をもたらすことになるが、この当時は「War Pigs」「The Wizard」「Behind the Wall of Sleep」といったスローペースの重厚なリフによって、ストーナーメタル的な美学が築かれていった。

バンドは1969年末、600ポンドという極小予算でたった2日間でセルフタイトルのデビューアルバムをレコーディングした。時間が限られていたため、彼らは普段のパブセットをそのまま録音し、長尺のギターソロも含めた内容となった。そんな突貫工事にもかかわらず、「Black Sabbath」「N.I.B.」「Warning」などでオジーは凍てつくようなパフォーマンスを披露し、バンドの粗削りで重厚なリフはヘヴィメタルの雛形を形作ることとなった。ラジオの支援はなかったが、アルバムはUKチャート8位に躍り出た。

オジー・オズボーン伝説を総括──ヘヴィメタルの始祖が歩んだ激動の人生

ブラック・サバスのデビューLP発売当初(Photo by Chris Walter/WireImage/Getty Images)

その半年後、ブラック・サバスは同じスタジオに再集結し、2ndアルバムのレコーディングを行った。
当初は『War Pigs』というタイトルにする予定だったが、「Iron Man」「Fairies Wear Boots」「Paranoid」といった即席の名曲群を生み出す中で、「Paranoid」の切迫感と悪魔的な歌詞──「Make a joke and I will sigh, and you will laugh, and I will cry(冗談を言えば俺はため息をつき、お前は笑い、俺は泣く)」──が群を抜いていたため、レコード会社はアルバムタイトルを『Paranoid』に変更。結果的にこの作品はイギリスで1位を記録し、シングル「Paranoid」も4位にランクイン、『Top of the Pops』への出演も果たした。

アメリカではレーベルの事情により『Black Sabbath』と『Paranoid』のリリースが遅れたが、どちらも商業的成功を収め、『Paranoid』はRIAA(アメリカレコード協会)によって4×プラチナ(400万枚超)に認定された。ファンからの熱狂的な支持とは裏腹に、当時の批評家たちの反応は冷ややかだった。レスター・バングスはローリングストーン誌で『Black Sabbath』を「まるでCreamだ!でももっと酷い」と酷評し、ニック・トシーズは『Paranoid』を聴きもせずにレビューし、オジーの名前を「Kip Treavor」と誤記した(これはサタニズムを題材にしていたバンドBlack Widowのフロントマン、キップ・トレヴァーと混同したものと思われる)。

それでもブラック・サバスは怯むことなく前進を続けた。1971年の3rdアルバム『Master of Reality』では、オジーはボーカルの限界に挑み、「Lord of This World」では絶叫し、「Solitude」では哀愁を込めて歌い上げ、「Sweet Leaf」ではマリファナ讃歌を、「Children of the Grave」では核の脅威をテーマにした雄叫びを響かせた。

結婚と栄光、そして崩壊

この時期、オジーは一目惚れした女性、テルマ・ライリーと結婚した。彼女はパブのクローク係として働いていた。ローリングストーン誌による初のサバス特集では、ワードが「2人は狂おしいほど愛し合っていた。オジーは彼女と離れていることに耐えられないんだ」と語っている。しかしその関係は波乱に満ちた10年を経て終焉を迎え、オジーは後にその結婚を後悔していたと語っている。
「俺は完全な薬物中毒でアル中だった。バイクの灰皿くらい役立たずだった」と、Esquire誌で述懐。「俺の父親は母親に暴力を振るっていた。だから俺も、それが男の役目だと思い込んで最初の妻に手を上げていたんだ」。2人の間にはジェシカとルイスという子どもが生まれ、オジーはテルマの連れ子エリオットも養子として迎えたが、後に第一の家庭の子どもたちとは疎遠だったと語っている。

ブラック・サバスは1972年、アルバム『Vol. 4』のレコーディングのためロサンゼルスに移り住み、現地では激しいコカイン中毒に陥った。オジーはそのドラッグへの愛を「Snowblind」での情熱的なパフォーマンスに結晶化させたが、一方で「Changes」では繊細で哀感に満ちた一面も見せている。翌1973年の『Sabbath Bloody Sabbath』のタイトル曲では、再びバンシーのような叫び声を披露。そして「Who Are You?」ではシンセサイザーを駆使し、ただのシンガーを超えた表現領域へと羽ばたいた。

ブラック・サバスの音楽も、もはや鈍重で原始的なヘヴィロックではなかった。洗練された構成とオジーの進化した表現力によって、バンドの音楽には新たな知性が宿りはじめていた。その後、当時のマネージャーだったパトリック・ミーハンと激しく決別したバンドは、1975年のアルバム『Sabotage』で怒りと苦悩を爆発させた。
オジーは「The Writ」で裏切りに対する怒声を、「Symptom of the Universe」では存在の苦悩を絶叫し、芸術的な再生を果たした。

だが、その栄光もやがて崩れ始めることになる。

1978年、前作『Technical Ecstasy』を引っさげたツアー終了後、オジーはブラック・サバスを脱退した。薬物とアルコールの乱用が深刻化し、自ら精神病院に入所して更生を試みるほどだった。そして彼は、すでに「Blizzard of Oz」と書かれたTシャツを身につけ、ソロ活動への構想を練り始めていた。この「ブリザード・オブ・オズ」という言葉は、後に彼が”コカイン使用時の自分の名前”だったと語っている。

さらに追い打ちをかけるように、オジーの父が癌で亡くなり、彼はその喪失を受け止める時間を必要としていた。バンド側は一時的にサヴォイ・ブラウンやフリートウッド・マックの元ボーカリストであるデイヴ・ウォーカーを迎え入れたが、結局オジーはもう一枚アルバムを制作するために復帰することとなる。こうして制作された『Never Say Die!』は、その名に反してバンド最後の作品となった。

1979年、オジーの依存症による創造的貢献の停滞を理由に、バンドは彼を解雇するという決断を下した。

「”イカれてるからクビ”なんて、偽善的でくだらない」とオジーは自伝『I Am Ozzy』に綴っている。「全員イカれてたんだ。
お前がラリってて、俺もラリってて、そんな状況で『お前はクビだ』って言われても納得できるか? 俺のほうがちょっとだけラリってただけなのに」

ソロデビューと「コウモリ伝説」

30歳になったオジーは、捨てられ、打ちひしがれていた。残っていた金でホテルに泊まり、酒を買い、酔いつぶれて死のうと決めていた。しかしそのとき、当時ブラック・サバスのマネージャーだったドン・アーデンの娘、シャロン・アーデンが彼を哀れに思い、ソロ活動を勧めた。1年も経たないうちに、オジーは元クワイエット・ライオットのギタリスト、ランディ・ローズと出会い、レインボーのベーシスト、ボブ・デイズリー、ユーライア・ヒープのドラマー、リー・カースレイクらと共に、1980年のソロデビュー作『Blizzard of Ozz』を完成させた。

その音楽はブラック・サバス時代よりもテンポが速く、攻撃的で、ランディ・ローズによるネオクラシカルな装飾音に彩られていた。そのサウンドはヴァン・ヘイレンに影響を受けた新世代のハードロックバンドとも見事に調和し、オジー自身も新たな命を吹き込まれたかのようだった。「Crazy Train」では冷戦の恐怖、「Mr. Crowley」ではオカルト神秘主義、「Suicide Solution」ではアルコール依存の悲劇について情熱的に歌い上げた。

オジーは仲間たちに「再出発できてうれしい」「懐疑的な観客を相手にもう一度自分を証明するんだ」と語っていたという。その努力は確かに実を結び、『Blizzard of Ozz』はイギリスでトップ10入りし、アメリカでは21位まで上昇。後にRIAA(アメリカレコード協会)によって5×プラチナに認定されただが、心身の再生を感じていたはずのオジーは、なおもアルコールとドラッグの濫用から抜け出せず、その破天荒な振る舞いは芸術性すらかすませかねないほどだった。

1981年、妻テルマとの別居を発表した同年、オジーはコロンビア・レコードの重役たちが集まったロサンゼルスの会議室でポケットから鳩を取り出し、その頭を噛みちぎって皆を仰天させた。翌年には、傑作『Diary of a Madman』を引っ提げたツアー中、観客が投げたコウモリの死骸をおもちゃと勘違いして再び頭を噛みちぎり、狂犬病の予防注射を受ける羽目になる。

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さらにその1か月後、サンアントニオの警察に逮捕される事件が起きた。シャロンが酔っ払って外出しないようにとオジーの服を隠していたため、彼はシャロンのドレスを着て街に出てしまい、自分がどこで用を足しているかもわからぬまま、アラモ砦で立ち小便していたのだ。

ランディ・ローズとの死、シャロンとの結婚

センセーショナルなメディア報道に煽られながらもツアーは続行されたが、1982年3月19日、衝撃的な事故が起こる。

ツアーのオフ日に訪れていたフロリダで、飛行機嫌いだったギタリストのランディ・ローズが、ツアーバスの運転手(同時に操縦士でもあった)と共に軽飛行機に乗ることに同意。その飛行機はツアーバスの上空すれすれを飛ぶ「バズ行為」を試みたが、翼が接触してバランスを失い、住宅に激突。ローズとメイクアップアーティストのレイチェル・ヤングブラッド、そして操縦していた運転手の3人が即死するという大惨事となった。

オジーは言葉を失うほどのショックを受けた。

「もしシャロンがいなかったら、今でも俺はあの野原に立ち尽くして、燃える家を見つめ続けていたはずだ」と、彼は後にローリングストーン誌で語っている。「あれは最悪の光景だった。だけどシャロンは言ったんだ──”ここで止まるわけにはいかない”って」

オジー・オズボーン伝説を総括──ヘヴィメタルの始祖が歩んだ激動の人生

Photo by Martyn Goodacre/Getty Images

ツアーは4月に再開され、元ギランのギタリスト、バーニー・トーメが約10日間同行。その後、ナイト・レンジャーのギタリスト、ブラッド・ギリスが残りの公演を務めた。当初オジーは、マネージャーのドン・アーデンとの契約を終わらせるためライヴ・アルバムを出す予定だったが、ローズの死を受けて方針転換。代わりに、ギリスを迎えた布陣でブラック・サバスの楽曲を収録した2枚組ライヴ・アルバム『Speak of the Devil』を制作し、サバスの新譜『Live Evil』(後任ボーカルはロニー・ジェイムス・ディオ)に対抗。結果的にこちらのほうが好セールスを記録した。1987年には、ローズとの録音を収めた圧巻のライヴ・アルバム『Tribute』を発表。タイトルには亡きギタリストへの敬意が込められていた。

激動のさなか、1982年7月4日、オジーはシャロンと結婚。翌1983年に長女エイミー、84年に次女ケリー、85年には長男ジャックが誕生。シャロンはオジーのキャリアをその死までマネジメントし続けた。家族はイングランドとロサンゼルスに拠点を構えた。

1983年、オジーは3作目のソロ・アルバム『Bark at the Moon』を発表。元RattやDioでも活動していた若手技巧派ギタリスト、ジェイク・E・リーを迎え、よりハードな音像を打ち出した。1985年のライヴ・エイドでは一度だけブラック・サバスと再結成したものの、それ以外はソロ活動に邁進。ヒット作を次々とリリースし、1987年にはザック・ワイルドという新たなギターヒーローを得る。1991年には『No More Tears』を発表し、全米21位、全英トップ10入りのヒットを記録。「Mama, Im Coming Home」「Road to Nowhere」「I Dont Want to Change the World(グラミー受賞)」といった代表曲は、死の直前までセットリストの常連だった。

しかし栄光の裏で、論争もついて回った。1985年、自殺した10代の少年の両親が、楽曲「Suicide Solution」が原因だったとしてオジーとレコード会社を提訴。裁判所はこれを棄却したが、90年代までに同様の訴訟がさらに2件起きるも、いずれもオジー側が法的に勝利を収めた。1986年、Spin誌のインタビューで彼は冗談めかしてこう語っている。「もし俺がレコードに逆再生メッセージを入れるなら、『悪魔だぞ! このレコードをあと6枚買え!』って言うね。……いや、666枚かもな!」

こうした話題が重なったこともあり、オジーは福音主義者たちから”悪魔の使い”と非難されるようになる。彼はそれを皮肉るように、映画『ハロウィン1988 地獄のロック&ローラー』で説教師役を演じている。翌1986年には、ファンがメドウランズ・アリーナを荒らした責任を問われ、多額の罰金を支払った。また同年、薬物依存の克服を目指してベティ・フォード・クリニックに入所するも、最終的には回復に至らなかった。

Ozzfestと『オズボーンズ』による再評価

1989年、モスクワ・ミュージック・ピース・フェスティバルでソロ・バンドの一員としてギーザー・バトラーと共演した直後、オジーは目を覚ますと留置場にいた。警官から、妻シャロンを殺そうとした容疑で起訴されたのだ。泥酔状態で意識を失っていたオジーは、シャロンに襲いかかり、首を絞めたとされている。「俺たちは決断したんだ。お前は死ななきゃならない」と彼は口にしたという。シャロンはなんとか逃れ、オジーはしばらく拘留されたが、最終的に彼女は訴えを取り下げた。後年、この件について記者から「どれほど殺されかけたのか」と問われたシャロンは、「かなりギリギリだったわ」と語っている。

その後、オジーは数年間にわたり飲酒を制御するようになり、シャロンは90年代を通して彼のキャリア再建に奔走した。医師から多発性硬化症(MS)の可能性を示唆されて引退ツアー「No More Tours」を行い、その最終公演ではブラック・サバスと一時的に再結成した後、4年間の沈黙を経て「Retirement Sucks Tour」でカムバック。当時、彼の症状はMSではなくパーキンソン病に近い神経疾患であると判明し、効果的な薬に出会ったことでツアー継続を決意した。

その後、Ozzfest(オズフェスト)の始動がロック界に新たな波を起こした。1996年、オルタナティヴ・ロックの祭典Lollapalooza(ロラパルーザ)から出演を拒否されたオジーに代わって、妻シャロンが自らフェスティバルを立ち上げる。第1回のラインナップにはスレイヤー、ダンジグ、ニューローシスなどが名を連ね、オジーを支えた。翌1997年にはブラック・サバスが再結成され、ライヴ音源『Reunion』に収録された「Iron Man」のパフォーマンスでグラミー賞を受賞する。

長年にわたり、オジーのツアーはメタリカ、モトリー・クルー、Kornなど、後に大成するバンドの登竜門となってきた。その影響力が国際規模に拡大されるにつれ、Ozzfestはヘヴィ系バンドにとって最も渇望される舞台となっていった。90年代後半にはニューメタルの興隆とともに絶大な人気を誇り、オジーは新世代のバンドから神のごとく崇められた。

1996年、第1回Ozzfest出演時のオジー

そして、時代は”テレビの中のオジー”を目撃することとなる。2002年、『オズボーンズ』が放送開始。オズボーン一家のリアリティ番組として、オジー、シャロン、ケリー、ジャックが登場(長女エイミーは出演を辞退)。愛すべき機能不全家族として描かれた同番組は視聴率を席巻し、彼の新たな顔──罵声を連発し、しどろもどろな姿の父親──が全米のお茶の間に浸透。中西部の母親層からも愛される存在となった。

「俺はミュージシャンじゃない。ハム役者さ(大げさに振る舞う道化的存在)」と語ったこともあるオジーだが、その”ハムっぷり”が新たな人気を呼び、同番組は後の『カーダシアン家のお騒がせセレブライフ』など、リアリティTVの原型となった。

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突如として、オジーは2002年のホワイトハウス記者晩餐会に招かれることになった(当時のジョージ・W・ブッシュ大統領は「オジー、母があなたのファンなんだ」と冗談を飛ばした)。さらに同年にはエリザベス女王のゴールデン・ジュビリーでもパフォーマンスを披露し、ハリウッドのウォーク・オブ・フェイムに名前が刻まれることとなった。

ホワイトハウスに招かれたオジー

しかしその年、過去作の著作権をめぐるトラブルが再燃する。ソロ初期の名盤『Blizzard of Ozz』と『Diary of a Madman』において、当時のベーシスト、ロバート・トゥルージロとドラマーのマイク・ボーディンにリズム・トラックを差し替えさせたことで、オリジナル・メンバーとのロイヤルティ問題が表面化。結局2011年になって元の演奏が復元されることとなった。

2004年には四輪バイク事故で重傷を負い、集中治療室に搬送されるが、ほどなくしてボックスセット『Prince of Darkness』をリリースし、ツアー活動を再開した。

生涯最後の熱演「引退できるわけがないだろう?」

晩年のオジーは、ブラック・サバスおよびソロ活動の両軸でツアーやレコーディングを続けた。2013年には『13』をリリースし、『Never Say Die!』以来初めてボーカルとして復帰。アルバムは英米両国で1位を獲得した。この成功を機に、彼はついにクリーンな生活を始め、生涯にわたり断酒を貫いたと語っている。

その後、ブラック・サバスとしてのフェアウェル・ツアーを2017年に終え、ソロとしての最後のワールドツアー「No More Tours 2」を発表。しかし幾多のアクシデントが彼の足を止めることとなる。まず黄色ブドウ球菌感染症で複数公演を中止、続いて夜間の転倒事故により長期入院を余儀なくされる。2020年にはパーキンソン病の診断を公表しながらも、活動を諦めなかった。

同年にはエルトン・ジョン、ポスト・マローン、スラッシュら豪華ゲスト陣と共演したソロアルバム『Ordinary Man』を発表するも、負傷とパンデミックの影響でツアーは断念。2021年時点では、再びアンドリュー・ワットと組み、同様のゲスト陣を迎えた新作に取り組んでいると報じられていた。

2025年7月5日、オジーは故郷バーミンガムのヴィラ・パークにて、ソロアーティストおよびブラック・サバスのオリジナル・メンバーとしての最後のパフォーマンスを行った。「Back to the Beginning」と題されたこのベネフィット公演を前に、数週間にわたり街は彼らの凱旋を祝福し、世界中からファンが集結。満員の観客の前で、ヘヴィメタルの王族が最後の一礼を捧げた。

前座にはメタリカ、ガンズ・アンド・ローゼズ、スレイヤー、パンテラ、アリス・イン・チェインズら豪華アーティストが名を連ね、ブラック・サバスの楽曲でトリビュートを捧げた。オジーは「I Dont Know」「Mr. Crowley」「Suicide Solution」「Mama, Im Coming Home」「Crazy Train」を披露。ソロセットの後には、アイオミ、バトラー、ウォードと共に「War Pigs」「N.I.B.」「Iron Man」「Paranoid」を熱演した。

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オジー・オズボーン伝説を総括──ヘヴィメタルの始祖が歩んだ激動の人生

Photo by Ross Halfin/Black Sabbath

音楽活動以外でも、オジーは多くの映画やテレビ番組にカメオ出演している。『ザ・ジャーキー・ボーイズ/いたずら電話大作戦』(1995年)、『プライベート・パーツ』(1997年)、『サウスパーク』(1998年)、『リトル★ニッキー』(2000年)、『オースティン・パワーズ ゴールドメンバー』(2002年)、『ゴーストバスターズ』(2016年)、『The Conners』(2020年)などがその代表例だ。2009年には『オズボーンズ』のリブート版『Osbournes Reloaded』がFoxで制作されたが、人気は定着しなかった。

2010年には自伝『アイ・アム・オジー オジー・オズボーン自伝』を発表、翌年にはローリングストーン誌の人生相談コラムをまとめた『ドクター・オジーに訊け!』を刊行。2006年にはブラック・サバスとしてロックの殿堂入りを果たし、2019年にはグラミー賞の生涯功労賞も受賞している。ソロおよびブラック・サバスとして通算8回のグラミー賞ノミネートを受け、そのうち3回受賞した。

しかし、彼にとって何よりの栄誉は、ステージから見える観客の喝采だった。亡くなるまでの間も、2025年の「Back to the Beginning」公演に先立ち、彼の願いは「最後にもう一度ステージに立ち、ファンを喜ばせること」だったという。

2020年にローリングストーン誌のインタビューで引退について尋ねられた際、オジーは鼻で笑ってこう答えている。

「何から引退するって? これは仕事じゃないんだ。ロックバンドを引退できるわけがないだろう? それって『アンプにプラグインするな』と言っているのと同じさ。俺はロックバンド以外知らない。俺の棺桶のふたに釘が打ち込まれたら引退してやるよ」

From Rolling Stone US.

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