台北まで300キロ弱、那覇まで400キロ強、上海まで800キロ弱、そして北京へも東京へも2000キロ弱――アジア大陸の東に連なる日本列島の最西南部、八重山諸島の中心に石垣島は位置する。
同島の北緯は北回帰線より僅かに北の24度、そして東経は124度で、日本標準時(東経135度)よりは時間が実質的に約40分遅い計算になる。
◆石垣島の台湾人
去る9月中旬、私はゼミの学生達とともに石垣島を訪れた。この島の台湾系華僑コミュニティーについて学ぶためである。ゼミ生のA君が石垣市の出身で、旅行の立案から現地での案内まで引き受けてくれたのだが、更に元沖縄県庁職員であるA君のご尊父には、琉球華僑総会や中琉婦女交流協会といった現地の華僑団体、および石垣市役所の関係者とお会いする場を設けていただいた。
八重泉という美味しい泡盛の杯を傾けながら伺うお話は、若い学生達にはもちろん私自身にとっても極めて新鮮で、人生の背後を流れる歴史に思いを致し、また「国」というものの意味を考え直す、とても貴重な機会となった。
台湾が大日本帝国の統治下に在った1935年、台中出身の林発氏が国境を超える必要のなかった石垣島へ渡り、パイナップル農場や缶詰工場を創業すると、そこで働く台湾人労働者の石垣島への移住も始まった。当時、台湾農業は八重山のそれよりはるかに高度な産業化を遂げていたため、様々な生産技術がこれらの移住者によってもたらされたという。現在では八重山観光の一つの目玉となっている水牛車は、この時期に台湾から農耕用に水牛が持ち込まれたことに由来する。
太平洋戦争中は空襲の激化により、石垣島から台湾へ戻る人々も少なくなかったが、戦後は国際政治の荒波が彼らを翻弄することになった。1950-60年代、国民党政権の「大陸反攻」基地となった台湾から、米国の軍政下に置かれていた石垣島へ、多くの台湾人が今度は「中華民国国民」として国境を越え、再び移住する。
しかし、1971年に国連が中華民国に替わって中華人民共和国に代表権を与え、翌年にはニクソン米国大統領が中国大陸を訪問し、日本も中華人民共和国と国交を結び中華民国と断交する一方で、沖縄は米国から日本に返還される。この様な激動の中で、自身の法的地位に不安を覚えた多くの沖縄県内の台湾系華僑が日本への帰化を選び、石垣市役所でも1日に数十件の帰化申請を受け付けることがあった。
今日では現地社会との融和・同化が進み、華僑総会の人々も互いに日本語で会話することが多く、特に若い世代はあまり中国語を覚えようとせず、台湾人としての意識も希薄化しているという。(執筆者:深町英夫・中央大学経済学部教授)第2回
第3回
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