関連写真:そのほかの華国鋒に関する写真
1976年から81年にかけての風雲変幻、その後の中国の命運を決する歳月のなか、党と政府、軍の要職を一身に担った華国鋒は「四人組」(毛沢東死後、「文革」路線を主導した江青、張春橋ら4人)を打倒することで功績を上げ、抑制と寛容という民主的姿勢をもって、真理の基準に関する議論を黙認すると同時に、第11期中国共産党中央委員会第三回全体会議を招集した。こうしたことから、華国鋒の歴史的功績を評価するうえで最も賛同を得られるのは、「毛沢東時代からトウ小平時代への平穏な移行」を実現したことにある。
しかし、改革開放30年を前にすれば、この中国共産党元最高指導者はすでにこの世界から遠ざかったとはいえ、どうしてもさまざまな思いが浮かんでくる。過去30年近くの間、天地を覆すような変化が起きたときに、北京の西皇城根にある住宅はどれほど激しい世の転変にさらされたのか。
81年に中国共産党中央主席を辞任して以降、華国鋒が政治と遠く離れた生活を送ってすでに27年になる。この間、高い票を得て共産党中央委員に4回選ばれているが、それでもいかなる談話も発表したり、メディアの取材を受けたりすることもなかった。隣人が散歩する姿を時折目にすると話しているように、公の場に顔を出すのは毎年、毛沢東の生誕日と命日に毛主席記念堂に参拝するときだけである。
華国鋒が普段の生活で最も関心を寄せているのは、書法と自身が庭いっぱいにまいたブドウのようだ。だが、このご老体は時代と少しも隔絶されてはいない。毎日午前、多くの時間を割いて新聞を読む。党の新聞以外にも、都市のさまざまな新聞に目を通す。夜には中央テレビ局の「新聞聯播」(夜7時放映のニュース番組)は必ず視聴する。
権力の中枢から離れたとはいえ、同郷の山西人、湖南省の昔の部下、同時代の友人の子孫、党や国家の現職指導者と、自宅を訪れる客人は少なくなかった。子女によると、毛沢東や胡耀邦、劉少奇などの子孫も華家と常に接触していたという。305医院で行なわれた華国鋒の弔問式には劉少奇の息子の劉源、薄一波の息子の薄熙来らが参列、八宝山で火葬された日の告別式には毛沢東の孫の毛新宇も参列した。
国の指導者の自宅訪問も慰問の形で多くなり、ときに人事にかかわることも報告された。その際の華国鋒の常套句がある、「君たちはしっかりやっている」と。しかも具体的な事例を挙げる。
だが、普通の生活を送るなか、華国鋒はむしろ国内政治に言及することはなくなり、提起されても、手を振って断るようになった。
華国鋒の原名は蘇鋳。38年に革命に参加したときに名を華国鋒に改めた。「中華抗日救国先鋒隊」という意味である。そうしたことから、子女はいずれも姓は「蘇」であって、「華」ではない。四人の子女は出国も、ビジネスにも携わっておらず、実に普通の人である。
長男の蘇華は空軍のある部署に勤めていた。すでに退職し、現在も職場から提供された住宅に住んでいる。同僚は「非常に質素で、威張ったところもなく、同僚との関係は非常に良かった」と話す。次女の蘇莉は国務院機関事務管理局の幹部を勤め、華国鋒生前には父の生活担当秘書を勤めた。四人の子女のなかで目立つのは、あるいは一番年上の蘇玲だろうか。現在、中国民間航空総局交通管理局党委員会常務委員、工会(労働組合)主席の彼女は今年、全国政治協商会議委員に選ばれた。
子女は「普段は人を厳しくしかることのない人でした。ただ、しっかりやりなさいと言うだけでした」と話す。常に励まされてきた外孫の王蘇佳が胸に刻む祖父の言葉は、「節約をする人になりなさい」である。写真は生前の華国鋒。(文中敬称略)
※この記事は、「中国網(チャイナネット)日本語版」による提供です。中国網は中国国務院新聞弁公室の指導を受けて、中国互聯網新聞中心が各国語で運営する、中国政府による中国情報ポータルサイトです。
【関連記事・情報】
・華国鋒~失脚した毛沢東「後継者」、08年8月20日死去(2008/08/20)
・華国鋒氏の葬儀:序列は江沢民氏が依然として第2位(2008/09/01)
・革命墓地で華国鋒元主席の葬儀-長女らが最後の別れ(2008/09/01)
・共産党系サイトが華国鋒称賛、腐敗横行の現状批判か(2008/08/22)
・政治>内政>政治家 - サーチナトピックス