日本語の「馬の耳に念仏」が中国語で「対牛弾琴」(牛に対して琴を弾ず)であることは、前回紹介したとおり。
似た日本語に「犬に論語」「兎に祭文」「牛に経文」「猫に小判」「豚に真珠」などがあるが、中国語はいずれも「対牛弾琴」ということになりそうだ。
もう一つ、「馬耳東風」というのがある。これはれっきとした中国語である。出典は李白の詩。春風が吹くと人は喜ぶが、馬は何の感動も示さない。転じて、他人の意見や批評に耳を貸さずに「どこ吹く風」と聞き流すこと。二三の辞書がこの語に「馬の耳に念仏」という訳語をあてているが、少しニュアンスを異にするようだ。前者がありがたみがわからなくて通じないのに対し、後者は必要性を認めず無視しているように思われる。
これは日本語だろうが、「牛は牛連れ、馬は馬連れ」。子供の頃、祖母がよく口にしていた。いま手もとの辞書で確かめてみると、「似たものどうしはいっしょに手を携えて行くのがよいというたとえ。また同類の者が相集まることのたとえ」(『大辞林』第三版)とある。ただ、私のおぼろげな記憶では、祖母はこの語を「似たもの夫婦」のような意味に使っていたように思う。
これなら中国語にもある。もっとも「牛」と「馬」ではなく、「鶏」と「狗」だが……。「嫁鶏随鶏、嫁狗随狗」。鶏に嫁したら鶏に従え、狗に嫁したら狗に従え。うーん、だいぶ違うかな。祖母の「牛は牛連れ」は似たような境遇のものどうしがいっしょになるとうまくいくというたとえであったが、「鶏に嫁したら」の方は、「嫁しては夫に従え」と押し付けがましい。
この語は「嫁得鶏、逐鶏飛;嫁得狗、逐狗走」(鶏に嫁いだら鶏の後を追って飛ぶ、狗に嫁いだら狗の後を追って走る)ほか、いくつもの似た形をもち、詩人の杜甫も『新婚別』という詩の中で「鶏狗亦得将」(鶏や狗でさえもそれにふさわしい配偶を得る)と詠んでいる。それらの使い方を見てみると、必ずしも堅苦しい封建倫理を押し付けたものではなく、むしろ分相応の配偶者を得ることの幸せを説いているように思われる。
私が幼時を過ごした北海道の遠軽地方では子牛のことを「べこ」と称していた。いま『広辞苑』『大辞林』を引いてみると、どちらも東北地方などで牛のことをいうとして、特に「子牛」とはしていない。きっと地方によって使い方が違うのだろう。中国ではこの「べこ」、つまり子牛のことを「犢」また「犢子」という。
「初生之犢不畏虎」。生まれたばかりの子牛は虎を恐れない。“畏”は“怕”とも。若者が怖いもの知らずに勇敢に困難に立ち向かっていくことをいうのに使う。また、そのような若者のことのたとえとして「初生之犢」だけを使うこともある。
「舐犢之愛」。親牛が子牛をなめるように、親が子を深く愛することのたとえ。「老牛舐犢」とも。
「老牛破車」というのもあるが、こちらは老いた牛がぼろ車を引くように、仕事ぶりがだらだらとしていることのたとえに用いる。作家の老舎にこれを題名に用いた随筆集がある。(執筆者:上野惠司)
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