習主席の父・習仲勲氏…迫害語らず、胡耀邦を全力支持=温家宝
 中国では、10月15日が習近平国家主席(共産党総書記)の父親である習仲勲氏(1913-2002年)の生誕100周年であったことから、さまざまな記念活動が催された。中国中央電視台(中国中央テレビ、CCTV)が16日に放送したドキュメンタリー番組では、温家宝前首相も出演し、「(文化大革命時代などに)自分がこうむった不当な扱いや迫害について、多くを語らなかった」、「全力で胡耀邦同志を仕事を支持した」などと述べた。<br><br>【関連記事・情報】<br>・<a href="http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2013&d=1011&f=politics_1011_001.shtml" target="_blank">中国各地で生誕100周年行事…習国家主席の父親、習仲勲氏</a>(2013/10/11)<br>・<a href="http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2013&d=0416&f=national_0416_044.shtml" target="_blank">胡耀邦総書記没後24年、約1000人が墓を詣でる</a>(2013/04/16)<br>・<a href="http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2013&d=0630&f=national_0630_014.shtml" target="_blank">【中国BBS】習近平と朴槿恵って兄妹のように顔が似てないか?</a>(2013/06/30)<br>・<a href="http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2013&d=0808&f=national_0808_023.shtml" target="_blank">【中国BBS】無理だろ…中国政府による反腐敗活動は成功するか?</a>(2013/08/08)<br>・<a href="http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0330&f=politics_0330_019.shtml" target="_blank">清く正しく厳格だった…甥が語る胡耀邦の思い出を中国紙が掲載</a>(2011/03/30)<br>"(サーチナ) 画像(1枚)
 中国では、10月15日が習近平国家主席(共産党総書記)の父親である習仲勲氏(1913-2002年)の生誕100周年であったことから、さまざまな記念活動が催された。中国中央電視台(中国中央テレビ、CCTV)が16日に放送したドキュメンタリー番組では、温家宝前首相も出演し、「(文化大革命時代などに)自分がこうむった不当な扱いや迫害について、多くを語らなかった」、「全力で胡耀邦同志を仕事を支持した」などと述べた。


  習仲勲氏の出身地は陝西省。1959年に副首相に就任したが、62年に失脚。習仲勲氏の失脚は66年から77年まで続いた文化大革命の前触れだったとされる。習仲勲氏は16年間にわたり身柄を拘束されたが、78年に復活。その後は広東省の責任者になり、経済特区の構想を提起するなど、中国の経済発展に貢献した。

 温前首相は習仲勲氏について「一生は平たんでなかった。正直な人だった。親切で思いやりのある人だったが、率直な発言もした。心に曇りのない人だった」などと語った。

 さらに、習仲勲氏は共産党や国に対して憂(うれ)いを持っていたが、自らが経験した不当な扱いや迫害については、多くを語らなかったという。

 政界に復帰した習仲勲氏が働いた7年間は、「改革開放の進展で、中国では経済が急速に発展し、人々の生活も目に見えてよくなった」時期だったが「新しい問題や社会の矛盾が増加した時期でもあった」という。

 温前首相は、新しい状況のもとで「党中央とトウ小平同志の一連の重要な指示を真剣に貫徹し、胡耀邦同志の仕事を全力で支持(支援)し、多くの重大な政策決定に際して、重要な役割を果たした」と述べた。


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◆解説◆

 温家宝首相は、精神面を強調する習近平主席の政治手法に対しては、批判的な立場だとされる。

 習仲勲氏を紹介する番組で、同氏が「胡耀邦同志の仕事を全力で支持」と表現したことは注目に値する。

 胡耀邦氏は、前政権を担当した胡錦濤氏、温家宝氏にとっては「師匠」にあたる。1981年6月から87年1月まで共産党主席および共産党総書記を務めた。「中国の最高実力者」と言われたトウ小平氏の意向を受けて任務を遂行したので、実質的には「中国のトップ」と言えないが、中国共産党史上、最も「開明的」だった指導者と考えてよい。

 1980年にチベットを視察した際には、弾圧を目にして、共産党の過ちを認め、涙を流して謝罪。政治犯の釈放、チベット語教育の実施、「憲法通り」に宗教の自由を認めることを保障し、破壊された寺院の再建などに着手させた。

 対日外交では、中曽根康弘首相と「日中友好二十一世紀委員会」の設立に合意し、「平和友好、平等互恵、相互信頼、長期安定」の日中平和友好4原則を確認しあった。

 胡錦濤-温家宝政権発足の前後には中国の一部専門家が「日本は戦争について十分に謝罪した」、「日本が再び軍国主義になる恐れはない」、「日本は、普通の先進国とみなすべき」、「これからは経済や市場において日本と争うべき」などを骨子とする「対日新思考」を発表したが、胡耀邦氏の考えを受け継いだ胡錦濤、温家宝両氏らの、対日外交展開における反応の打診の可能性が高い。

 胡耀邦氏は小説家、山崎豊子氏が日中関係をテーマにした「大地の子」執筆に際して取材協力を求めた際には「中国について正しくないことを書かれたのでは困るが、正しいことなら悪い面を書いてもかまわない」として、政府各方面に取材に応じるよう指示したという。閉鎖的な中国としては異例の判断だった。

 同小説ではフィクションの形ではあるが、トウ小平が華国鋒を追い落とすために用いた“えげつない”ともいえる手段が描写されている。


 胡耀邦の政治改革は、1986年秋ごろからは保守派の巻き返しにあい、挫折。87年には共産党総書記を解任された。

 胡耀邦は「ブルジョワ自由化に寛容だった」、「党の政治の原則に反した」などと批判された。独断で日本の青年3000人を招待したことや、山崎豊子氏の取材に協力したことも「中国中枢の内幕を漏らした」などと批判されたという。胡耀邦失脚にともない、チベット政策は再び後退したとされる。

 胡耀邦は心筋梗塞のため、1989年4月15日に死去。北京市では追悼と民主化を求める大規模な学生デモが発生。学生は天安門広場を占拠。6月4日には解放軍が武力で学生を排除する天安門事件(第二次)が発生した。

 失脚し、その死が天安門事件のきっかけとなったこともあり、胡耀邦評価は長年にわたり“タブー視”された。しかし、2005年には、温家宝首相も出席した生誕90周年の座談会が開催されるなど、「胡耀邦が語られる」ことも徐々に増えている。

 温家宝前首相が習仲勲氏の生誕100周年を記念する全国放送の番組に出席し、胡耀邦の名を出したことは、共産党の大先輩として習仲勲氏には敬意を表するが、習仲勲氏礼賛を通じて習近平現主席の威厳を高める考えには異議を示したとも解釈できる。
(写真は中国新聞社の17日付報道)(編集担当:如月隼人)
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