
26年前、父親がローソンと加盟店契約を交わし亘理山元(わたりやまもと)店を開業したのを機に脱サラし、以来、コンビニ経営に携わっている。
東日本大震災発生時、遊佐オーナー(当時オーナー代行)は山元町役場の会議に出席していた。「亘理山元店の店長が独立し、これから新店長による体制が始まろうというときに震災が起こった。会議室はぐちゃぐちゃになり、『これはとんでもないことが起こった』とすぐお店に駆け付けた」と振り返る。
地震発生時刻は14時46分。停電になり、15時50分頃に巨大津波が襲来するまでの間、遊佐オーナーは崩れ落ちた商品を元通りにする作業とレジ業務(レジは停電後1時間持続する機能を備えていた)につとめていた。
町の防災無線が機能せず通信が途絶える中、津波の存在を知ったのは来店客からの一声だった。
海岸から2kmの店は濁流が引いたあと、一帯が壊滅状態に。国道が復旧したのは震災から3日後 「会計を済ませたお客さまが外から戻ってきて『津波が来るぞ!』と知らせてくれた。お客さまと従業員全員、そして、近くにいる人を避難させるべく2階の事務所へと誘導した。しばらくして海側から土煙がモクモクと舞い上がり津波が来るのを感じられた」と語る。
山元町によると、大震災と津波で637人(町内での遺体発見数680人)が亡くなり、浸水範囲は24㎦・約3千世帯に及んだ。
国道6号線沿いで海岸から2㎦程度離れた場所にある亘理山元店では、「腰の高さくらいまで濁流が店に流れ込み、水が引いたあとは、辺り一面壊滅状態で店内には大量の泥であふれかえっていた」。
大混乱の中、遊佐オーナーがその日とった行動は急場の支援だった。
「商品も泥まみれだったが、食べられそうなものがあった。行政区長を務めていた父からの要請で、長男とともに食べられそうなものを袋に詰めてお店と避難所を何回も行き来した」という。
そうした中、遊佐オーナーの脳裏には、研修で学んだローソンの阪神・淡路大震災の記録がかすめる。
「ローソンの明かりがずっと灯っていたのが心の支えだったというお客さまの声を聞き『いざという時はオレもやってやる』という気持ちでいたので次の日から開けようと決めていた」と述べる。
翌日、泥かきしながら営業すると多くの来店客が訪れた。
中には、買い占めに走る動きも見られたが「できるだけ多くのお客さまに商品をお届けすることを心がけた。『従業員のため』と言って買い占めようとする社長さんもいらっしゃったが、ご遠慮していただいた」。
停電は1週間程度続いた。
ローソン本部とは音信不通のまま、発注できず商品供給が途絶える中、日の出とともにシャッターを上げ、日没にシャッターを下げる日々を繰り返し「私と妻と長男で営業し、連絡が取れなかった従業員も少しずつ集まり手伝ってもらった」。
売る商品が徐々になくなる中、山崎製パンからのサプライズもあった。「国道が不通で福島への輸送を断念したトラックが大量のパンをお店に置いていってくださりお客さまとともに大喜びした」という。
ローソン本部と連絡が取れたのは大震災から3日後。国道6号線が復旧した頃となる。
「スーパーバイザーがお店を訪れてから怒濤の支援が始まった。特に仮設トイレがありがたかった。以降、全国から社員さんが交代で訪れ、泥かき作業を手伝ってくださり大変心強かった。泥かきは近所の方にも助けてもらい感謝している」と語る。
発注がしばらくできないまま水・カップ麺を中心とした商品供給が再開され、電力の回復に伴い飲料・乳製品などが徐々に拡充していった。その後、改装を行い約半年後にリニューアルオープンとなった。
復旧に向かうにつれ、失った商品など費用・財務面での不安がよぎったが、その面でもローソン本部の支援は手厚かったという。「何かあると物すごい支援をしてくれるチェーン」と全幅の信頼を寄せる。
大震災から10年。

「常に開いているコンビニが閉まっているということは、私たちが思う以上に多くの方にとって不便であり、不安だと思う。安全面を踏まえた上で、できるだけ頑張ってほしい」と遊佐オーナー。
直近の2月13日23時頃に発生した福島県沖の震度6強の地震では「夜勤の従業員に帰宅するように伝えて3店舗閉店し、ごちゃごちゃになった店内も復旧して1店舗ずつ営業再開していった」という。
「コロナで地方分散の流れが起こる中、コンビニの近くに移住希望の方が多いと聞く。それだけ社会から期待されているので、防災にもっと強くなれば今以上に選ばれる業態になっていくと思う。水1本買えない状態というのは本当に辛い。備えとともに、家族・従業員といざという時の対応を話し合うことも必要」と呼びかける。