豪快なバッティングフォームの長嶋茂雄(写真:時事)
長嶋茂雄さんは去る6月3日に逝去されました。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

昭和33(1958)年に読売ジャイアンツに入団して以降、日本中を熱狂させてきた"ミスタープロ野球"長嶋茂雄。

1994年生まれの大谷翔平世代が球界の中心にいる今となっては、彼の活躍を思い出すことは難しい。昭和の名シーンを再現するテレビ番組さえつくられることが少なくなった。しかし、このレジェンドの存在を抜きにして、日本のプロ野球を語ることはできない。

生涯打率.305。プロ17年間で通算2471安打、444本塁打を放ち、6度の首位打者、2度の本塁打王、打点王は5回。5度のMVP、17回もベストナインに輝いている。

しかし、1974年10月にユニフォームを脱いでから50年が経った。彼のプレーを実際に記憶している人は少なくなっていく......現役時代の長嶋茂雄はどれだけすごい選手だったのか――チームメイトや対戦相手の証言から、"本当の凄さ"を探る。

今回登場するのは、日本人で初めてメジャーリーグへの扉を開いた偉大なる先駆者・村上雅則(マッシー村上)。メジャーの好打者たちと2シーズンにわたり対戦した左スリークォーターの好投手・村上は、オープン戦や日本シリーズで対峙した打者・長嶋茂雄をどう見ていたのか。貴重なエピソードとともにいま、振り返る。

③はこちらより

*  *  *

――メジャーリーグ2年目の1965(昭和40)年に好成績を残しながら、村上雅則さんは事前の取り決め通り、南海ホークスでプレイすることになりました。

村上 鶴岡一人監督との約束があったからね。もし鶴岡さんに「もう1年アメリカでやれ」と言われたらよかったんだけど、鶴岡さんに恨みはない。悔いは残ってるけどね。

――帰国後の1966年、村上雅則さんは46試合に登板して6勝4敗、防御率3.09で南海のリーグ優勝に貢献。読売ジャイアンツとの日本シリーズに臨み、後楽園球場で行われた第1戦、リリーフでマウンドに上がりました。

村上 その試合、俺が投げたの? 

――はい。1回ツーアウトから登板して、七番・柴田勲さんを打ち取りました。2回は三者凡退。3回、巨人は二番・土井正三さんからの攻撃で、三番が王貞治さん、四番が長嶋茂雄さんという打順でした。

村上 その回、打たれたんじゃないかな。

――先頭の土井さんにセンター前ヒットを打たれ、王さんから三振を奪ったあとに登場したのが長嶋さんでした。

村上 その打席、長嶋さんから一番遠いアウトコースの低めにストレートを投げたことを覚えている。高さもコースも、1個分以上外れた完全なボール球だった。そのボールを打たれたんだよね。

――レフトオーバーのホームランで2失点。五番の森昌彦さんにフォアボールを出したところで、村上さんは降板となりました。

村上 長嶋さんに打たれたのは、ゴルフのドライバーでも持たないと届かないくらいのボールだったんだけど、それをレフトに放り込まれて「なんだ、この人は!」と思ったよ。メジャーリーグでも経験しなかったことだったから。あれには本当に驚いたな。

――第3戦、8回から登板した村上さんは三番・王さん、四番・長嶋さんから連続三振を奪い、9回も無失点に抑えました。

村上 そのあとも俺は投げたよね?

――1勝2敗で迎えた第4戦、2回途中からマウンドに上がった村上さんは3回3分の1を投げて自責点4。王さんにホームランを打たれています。第6戦にも6回から登板して、三番・王さんをショートゴロに抑えたものの、長嶋さんには三塁内野安打を打たれました。

村上 全盛期のONと対戦できてうれしかったね。

――村上さんは1968(昭和43)年に40試合に登板して18勝4敗、防御率2.38。勝率.818で最高勝率のタイトルを獲得。1973(昭和48)年にも南海対巨人の日本シリーズが実現しましたが、長嶋さんは右手薬指の骨折で出場しませんでした。

村上 俺も、その年はいい成績を残せなかったからね(2勝4敗)。

【長嶋茂雄は何がすごかったのか?】日本人初のメジャーリーガー・村上雅則(マッシー村上)が語る"ミスタープロ野球"④
1969年11月、3度目の日本シリーズMVPに選ばれ、贈られた車に腰掛ける長嶋茂雄(写真:共同)

1969年11月、3度目の日本シリーズMVPに選ばれ、贈られた車に腰掛ける長嶋茂雄(写真:共同)
――メジャーリーグでは1961年にアメリカン・リーグが2チーム増え、翌年にはナショナル・リーグも2チーム増えて、10球団ずつの20球団となりました。村上さんがプレイしたのは20球団しかない時期ですね。

村上 そのあとも球団が増えていって、いまは30球団もあるね。俺たちがプレイした時代のOBはみんな、「1960年代、1970年代のメジャーリーグが一番レベルは高かった」と言うね。

俺も現役を引退したあと、ジャイアンツのスカウトをしたり、キャンプでコーチをしたからよくわかるけど、「メジャーにもこんな選手がいるのか......」と思ったことがあった。球団が増えたことによって、それまでだったらメジャーでプレイできなかった選手もどんどん入ってきた。

――もし1960年代に長嶋さんのメジャーリーグ移籍が実現していたらどうなっていたと思いますか?

村上 あの時代でも、メジャーで活躍できた日本人選手は何人もいたと思う。

ただ、野手よりもピッチャーのほうがその確率は高かっただろうね。

南海の先輩である杉浦忠さんが実際に勧誘されたという話を聞いたことがある。稲尾和久さん(西鉄ライオンズ)や秋山登さん(大洋ホエールズ)は素晴らしい武器を持った、本当にすごいピッチャーだった。

――野手はどうでしょうか。

村上 中西太さん(ライオンズ)や長嶋さんであれば、メジャーでも活躍できたでしょう。スピード、パワー、打撃力、守備、体の頑丈さなど、いろいろなものを持っていないと戦えないところだけどね。もうひとつ大事なのは性格的なもの。どうしても合う/合わないというのがあるじゃない?

――オープンマインドで知られる長嶋さんであれば、言葉の通じにくいチームメイトや監督ともうまく付き合えそうですね。

村上 日本でいい成績を残していてもアメリカで仲間ができない選手もいるけど、俺はそういうのは全然問題なかったね。マイナーリーグの遠征のときに顔なじみになった相手チームの選手に「マッシー、これからドライブ行くけど、どうだ?」と言われて乗せてもらったこともある。野球以外のことも楽しむ気持ちが大事なんじゃないかな。それもアメリカで成功するために必要なことだろう。

――6月3日に長嶋さんが逝去されました。

村上 改めて、長嶋さんの偉大さを痛感させられたよね。戦後からの復興を目指す日本で、そのプレイで国民みんなを勇気づけた。メジャーにはサイ・ヤング賞やベーブ・ルース賞、ハンク・アーロン賞、ロベルト・クレメンテ賞などプレイヤーの名前を取った賞がある。長嶋さんの功績を称えるためにも「長嶋茂雄賞」を創設すべきだと思うよ。

次回の更新は8月下旬を予定しています。

【長嶋茂雄は何がすごかったのか?】日本人初のメジャーリーガー・村上雅則(マッシー村上)が語る"ミスタープロ野球"④
村上雅則氏(写真:時事)

村上雅則氏(写真:時事)
■村上雅則(むらかみ・まさのり) 
1944年、山梨県生まれ。法政二高卒業後の1963年に南海ホークスへ入団するも、球団の方針でアメリカへの野球留学生として選出され渡米。マイナーで活躍したのち1964年8月にメジャー昇格を果たし、日本人で初めてメジャーのマウンドに立った。メジャー生活2年間で5勝1敗9セーブ、防御率3.43の成績を残して帰国後は、南海、阪神、日本ハムで活躍。NPB通算で103勝82敗30セーブという成績を残して引退した。その後は3球団でコーチとして後進の指導にあたったのち、古巣のサンフランシスコ・ジャイアンツの極東スカウトやNHKのMLB解説者としても活動。
難民支援などの社会貢献活動にも精力的に取り組んでいる。また、村上氏の軌跡を描いた増田久雄著『マッシー 憧れのマウンド メジャーリーグの扉を開けた日本人』(牧野出版刊)が話題となっている。

取材・文/元永知宏

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