―[東大卒作家・布施川天馬の教育キャリア通信]―

みなさんは、最近の若い世代から、こんな言葉を耳にしたことはないでしょうか。
「今回のインターンで、すごく成長を実感できました!」「これからもどんどん成長していきたいです!」……いわゆる「意識高い系」の学生はそろってこのように述べます。


たしかに、向上心があるのは素晴らしい。しかし、私は現役の東大生たちがこぞって「成長」を口にし、その結果としてコンサルティング業界へ群がっていく姿を見るたびに、強烈な違和感を覚えずにはいられません。

本来、「成長」や「自己研鑽」とは、何かを成し遂げるための手段にすぎないはず。

もし本当に「自分の能力を高め続けること」自体が目的ならば、職人や芸術家のような専門職を目指すはずでしょう。

「成長して、結局何になりたいのか?」が不明瞭なままでも成長したがる。『東大生はなぜコンサルを目指すのか?』(レジー 、集英社新書)の中では、このような人々を「できることが増えること自体が喜び」となった「成長教の信者」と指摘しています。

ですが、もはや現代人の多くは「成長」に疲れているのではないでしょうか。本音を言えば、もっとダラダラ暮らしたい。でも向上心を見せないと評価が下がるから言えない。これでは板挟みです。

成長に疲弊してきた現代人がとるべき施策を考察します。

「とにかく成長したい」コンサル業界に群がる若者たちが「危うい...の画像はこちら >>

「圧倒的成長」の呪縛

先述の『東大生はなぜコンサルを目指すのか』によれば、私たちはここ20年ほど、「圧倒的成長を遂げねばならない」という強烈なプレッシャーに晒されているそうです。

確かに成長は素晴らしい。
しかし、指標と方向性がなければ意味がありません。「痩せたい」なら5キロ減量は「成長」でしょうが、「太りたい」ならばむしろマイナスです。

ある変化に対して「成長した」といえるかどうかは、評価者の立場によって変化します。

逆に言えば、評価者が自分勝手に決めてきた「成長」の定義に、私たちは数十年間ずっと振り回され続けていたのです。

その反動からか「仕事は最低限にしてプライベートに全振りする」一部のZ世代も出現しましたが、それでは短期的には楽しくても、そのまま5年、10年と経ったとき、厳しい現実が待っているでしょう。

成長を遂げた同世代との間には残酷なほどの差が開き、結果として大半が悲惨な老後を送るリスクは否めません。

ただし、「やっぱり圧倒的成長を目指し続けるしかない」と考えるのも危険です。

なぜなら、成長や努力には、「アリとキリギリス」のアリになれるかどうかの適性、つまり才能の壁が存在するからです。

身長160cmの人がどれだけトレーニングしても、190cmのバレーボール選手を差し置いて活躍するのは難しい。

同じ努力量でも、先天的な知能やメンタルの差によって結果は残酷なまでに分かれます。

その限界に気づいたとき、人は頑張る気を失い、最悪の場合は絶望して心を病んでしまうのです。

自分の軸を分散する

では、私たちはこの息苦しい社会をどう生き抜けばいいのでしょうか。

解決策の1つは、大谷翔平選手のように「仕事と道楽を融合させる」こと。
しかし、これは一握りの天才にしか不可能でしょう。

そこで、凡人たる私たちが取るべきもう1つの策は、「仕事と、人生を楽しませる趣味を完全に分けること」。

仕事においては、結果が出なければ昇進も昇給も望めません。ですから、ある程度の「成長」を求めて頑張る必要があります。

とはいえ、仕事一筋では仕事の挫折や成長の失敗に直面した時に、立ち直れなくなるリスクも出てくる。そこで、自分を別の方向から支えてくれる趣味の軸を、もう一本通すのです。

ただし、趣味には絶対に成長義務を課さないこと。趣味の世界まで「もっと上手くならなきゃ」と自分を追い詰める必要はありません。勝てなくてもいい、下手でも楽しい。それが趣味の本質です。

現代人に必要なのは「圧倒的成長」ではなく、「ちょっとの成長」です。仕事においては、ちょっとの努力でちょっとの成長を得る。
そして残った元気で、ちょっとの楽しみを得る。

これを繰り返していくうちにキャパシティが広がり、仕事の結果にレバレッジが効いてきます。

20代の頃は多少の努力が必要かもしれませんが、その結果として30代・40代での安寧な余暇を勝ち取る。それこそが、最も現実的な生存戦略だと考えます。

教育パパ・ママが陥る「成長神話」の崩壊

この「成長教」の呪縛は、現在の子育てや教育の現場にも色濃く影を落としています。受験戦争の異常なまでの熱狂です。

今、都心部で子どもを進学塾に通わせ、血眼になって中学受験をさせている親たちの大半は、2000年代以降に「圧倒的成長」を強いられ、努力して結果を出してきた「成長世代」の成れの果て。

自分が努力して勝ち上がってきた成功体験があるからこそ、我が子にも多大な努力を強いるのでしょう。

しかし、その「努力すれば報われる」という神話は、いま崩壊しつつあります。

かつては努力のやり方を知っている層だけが勝てましたが、今はYouTubeや生成AIによって、誰もが簡単に高度なツールやメソッドを手にできる時代です。

競争相手のベースラインが底上げされた結果、「圧倒的努力」をして、「圧倒的成長」を遂げたからといって、それにふさわしい結果が得られるとは限らなくなってしまいました。受験が相対評価だからこその悲劇といえます。

受験勉強は、自分を磨く試金石にはちょうどよいものの、これに結果を求めて必死になるような価値はありません。
せいぜい1年か2年もやれば十分で、それ以降は趣味の領域です。

これからの時代に必要な「半身の生き方」

これからの時代を生き抜くヒントは、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆、集英社新書)で提唱される「半身の生き方」にあると私は考えます。

中学受験や出世競争に全リソースを割くのではなく、自分の人生の幸福に主軸を置き、余力で社会と関わる。

そもそも、私たちが立身出世を夢見て「成長」の義務を自らに課すのも、元はといえば、出世の果てにある財を成して、他人よりいい家に住み、いいものを食べ、いい服を着たいからであり、もっと根源に立ち返るならば、「(他人より)幸福な暮らしをしたい」からであるはず。

ただ、私たちはSNSを通じて地球の裏側の暮らしをすら、手元でのぞけるようになってしまいました。

ハリウッドスターやインフルエンサーがばっさばっさと札束をバラまいて立ち回るのに比べれば、もはや年収1000万も2000万も大した違いはありません。

それでも、私たちは人と比べるのをやめられない。どこまでレベルアップしても、「次のライバル」が目について、劣等感に苛まれる。こんな世の中では、もはや「(他人より)幸福な暮らし」なんて無理です。

それよりは、等身大の自分が好きなものに囲まれて、自分だけの幸福を追求したほうが、ずっと利口ではないでしょうか。

そのためには、「成長しなければならない」という幻想を捨て、等身大の自分のままでいかに賢く立ち回るかが問われるでしょう。今後の「賢さ」とは、少なくともテストで測れるようなものにはならなそうです。


<文・布施川天馬>

―[東大卒作家・布施川天馬の教育キャリア通信]―

【布施川天馬】
著述家、教育ライター。 一般財団法人「ドラゴン桜財団」評議員。 1997年生まれ。世帯年収300万円台の家庭に生まれながらも、効率的な勉強法を編み出し、一浪の末東大合格を果たす。著書に最小コストで結果を出すノウハウを体系化した『東大式節約勉強法』、膨大な範囲と量の受験勉強をする中で気がついた「コスパを極限まで高める時間の使い方」を解説した『東大式時間術』など。株式会社カルペ・ディエムにて、お金と時間をかけない「省エネスタイルの勉強法」などを伝える。MENSA会員。(Xアカウント:@Temma_Fusegawa)
編集部おすすめ