あいみょんのタトゥーにまたも賛否

 あいみょんのタトゥーがまたまた議論を呼んでいます。8月28日から30日まで山梨県で開催された『SPACE SHOWER SWEET LOVE SHOWER 2026』に出演した際のオフショットを自身のXアカウントに投稿したところ、「タトゥー可愛いよ♡」など肯定的な反応の他に、「あいみょんにはタトゥーは入れないでほしかった」と、がっかりする声も聞かれました。

 しかし、筆者はそこまで威圧的だと思いませんでした。
意図的な落書きのような抜け感には、いわゆるわかりやすい不良や反社っぽいタトゥーとは異なるデザイン性を感じたからです。その点で、他のタトゥーでお騒がせのアーティストとは少し異なる動機が込められているのではないか、と思うのですが……。

 ともあれ、この件に関するネット記事にも多くのコメントが寄せられました。そのほとんどは否定的な意見です。「外国とは文化の違う日本では、これからもタトゥーは理解されないだろう」とか、「病気のときにMRIが使いにくくリスクへの覚悟があるなら好きにすればいい」とか、若干余計なお世話といった感もありますが、いずれにせよ、タトゥーや刺青への嫌悪感が過半数であることをうかがわせる論調です。

「タトゥーと音楽性がマッチしていない」に抱いた違和感

 その上で気になったのは、タトゥーとあいみょんの音楽性がマッチしていないという批判コメントです。

「ギター1本で言葉を届ける泥臭いフォークの良さが年長者にも刺さっていたことを考えるとタトゥーはミスマッチ。ファンを大事にするためにも入れないほうがよかった」とか、「いまどきのチャラいスタイルとは違う『マリーゴールド』のまっとうな感じの音楽性に惹かれたのに、タトゥーがあることで生理的な嫌悪感を覚えてしまった」というコメントにも多くの共感が集まっていました。

 これは興味深い反応です。なぜならば、こういう意見の人たちは、音楽を聴いたり歌詞を読んだりしているようでいて、実はそれ以外のあいみょんの一挙一動の方にとらわれていると言えるからです。皮肉にも、作品の良し悪しを超えて、あいみょんの素行の是非が評価の対象になってしまっている。

 音楽や歌詞に対する自らの揺るぎないはずの感性よりも、社会的な制度を後ろ盾にした常識から、タトゥーの入ったあいみょんに拒否感を抱かざるを得なくなっているという倒錯ですね。

 たとえば、先ほどのコメントにあった、「マリーゴールド」の「優しく力強いメロディと歌唱力の、まっとうな感じ」という評価です。
こう言いたくなる人の気持ちを意訳すると、こんなにも素晴らしい曲を作り、立派に歌う人は、品行方正で法令遵守のロールモデルでなければならない、ということです。

 要するに、小学校の校訓みたいな、「なかよく元気な◯◯っ子」だとか「心やさしくたくましく」といった最大公約数的な理想像を、ただその曲が良い、好きだというだけの理由で、アーティストに押しつけているわけです。

 これを、「あいみょんのためを思って」といったもっともらしい表現を装って、タトゥーをたしなめるような大人の進言を与えるといった構図が、この一件の最も不快で姑息な一面をあらわしているのです。

ミュージシャンの存在意義とは?

 ミュージシャンやアーティストの存在意義は、一にも二にもかっこいいことです。善良な市民や、愛すべき隣人となることではありません。それは、時代が変わり、ビジネスモデルがシフトチェンジしようとも、大きく揺らぐことのない根本です。

 そう考えると、あいみょんはネット世論という「善良な市民」の声からごくごく常識的な批判を引き出したという点で、どうしようもなくアーティストであると証明したと言えるのでしょう。

 かくして、日本で一番ギブソンJ-45の似合う女性ミュージシャンは、強かったのです。

文/石黒隆之

【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。X: @TakayukiIshigu4
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