Adoの歌はスゴいのか?歌唱力に賛否
Adoの歌はスゴいのか。それとも、言うほどでもないのか。いまネット上で議論が起きています。きっかけはK-POPイベントでの騒動です。9月22、23日にベルーナドームで開催された『INKIGAYO in TOKYO』の23日公演の大トリで「踊るポンポコリン」を歌ったことに、「イベントの趣旨とは合わない」などと疑問の声が相次ぎました。また、Adoの出演時のみ双眼鏡の使用が禁止され、K-POPイベントの恒例であるフィナーレもなかったことに不満を訴えるファンが続出したのです。
その際、「ほんまに金返して」とか「もうこないからねー(笑)」と投稿したK-POPファンと思しき投稿者たちが、揃って長い爪をしていたことにAdoのファンが反応。
「Adoが日本の歌唱レベルを一人で引き上げている一方で、このような長爪の連中はたった一人で日本文化の質を地に落としている」と、そのボーカルを高く評価し、Adoへの批判に反論しました。
そして、これがAdoの歌唱力について賛否渦巻く事態を引き起こしたのです。
「技術力は素晴らしいが、心に響いてこない」という意見も
まず彼女を評価する意見としては、「日本のポップスにはなかった歌唱法を新しい文化にした偉人である」というものがあります。Ado以前と以後では、歌い方そのものが全く違う、それほどまでにエポックメイキングな表現だという称賛です。一方で、技術的な詰めの甘さを分析する人もいます。裏声、メロディの上下動、低音の出し方、いずれを取っても一流のボーカリストと呼ぶには程遠く、それは「奇を衒うようなシャウト系」に頼った歌に過ぎず、「速弾きだけしてイキってるギタリストみたい」だと、実に手厳しく論評しています。
加えて、「歌唱の技術力等は素晴らしいと思うが、全然心に響いてこない」という興味深いコメントもありました。Adoや彼女のファンにとっては、これが最もきつい感想かもしれません。
いずれにせよ、こうして白熱した議論を呼ぶことからも、Adoが注目を集める存在であり、良い意味で好き嫌いの分かれる強烈な個性を持つボーカリストだということが、改めて浮き彫りになった格好です。
Adoを評価する人としない人の“共通点”
ともあれ、ここでは賛否どちらの意見が正しいのかを判断することは目的としていません。ただし、Adoを評価する人、また懐疑的な人、いずれの側にも共通する問題について考えたいのです。それは、彼女の歌の細かい技術的な要素をひとつずつリストアップして、項目ごとに加点、減点して歌を外科的に解剖する態度です。なぜなら、ここに現代において鑑賞という行為が機能不全を起こしている症状を見て取ることができるからです。
つまり、歌や音楽をひとつのまとまった味覚として堪能しようとするのではなく、分解してパーツを取り出し、それを顕微鏡で覗き込むように、科学的に解析するアプローチ。これが、果たして本当に歌や音楽を「聴く」と言えるのか。Adoの歌唱力に関する議論は、この問いを投げかけているのです。
かつて、批評家の小林秀雄は、現代人が花の一輪すら愛でることができなくなった理由を、こう論じました。
<今日の様に、知識や学問が普及し、尊重される様になると、人々は、物を感ずる能力の方を、知らず識らずのうちに、疎かにするようになるのです。物の性質を知ろうとする様になるのです。物の性質を知ろうとする知識や学問の道は、物の姿をいわば壊す行き方をするからです。例えば、ある花の性質を知るとは、どんな形の花弁が何枚あるか、雄蕊、雌蕊はどんな構造をしているか、色素は何々か、という様に、物を部分に分け、要素に分けて行くやり方ですが、花の姿の美しさを感ずる時には、私達は何時も花全体を一と目で感ずるのです。だから感ずる事など易しい事だと思い込んで了うのです。
これを今回の議論に当てはめると、裏声はどうだとか、がなり立てるシャウトの迫力だとかの音楽論の部分的なトピックはいくつも出てくるけれども、では、Adoというボーカリストが、その存在としてどのようなオーラを持っているのかという全的な実感に至らない、ということになります。
まさに小林が言うように、「花弁や雌蕊の数を数えて、花の美しさを知った気になっている」光景が繰り広げられているわけです。
音楽の良し悪しは何で決まる?
こうした賛否それぞれの主張を目にしていて、二人の歌手が浮かびました。華原朋美と中島美嘉です。彼女たちの細かな技術が議論になることは、まずありません。むしろ、Adoを肯定、否定する人のいずれからも、「下手」というレッテルすら貼られるかもしれません。しかし、そうであるにもかかわらず、彼女たちには「I’m proud」や「雪の華」という時代を象徴する大ヒット曲があります。そして、その歌と曲が人々の記憶に刻まれているのは、彼女たちの歌唱が理論的に優れていると証明されたからではありません。音楽の良し悪しは、歌が上手いか下手かの議論を超えたところにあるのです。
これは、人々が歌だけでなく音楽を全体の確かなムードとして味わっていることを示す、わかりやすいサンプルなのではないでしょうか?
つまり、人は技術的に秀でているからという理由だけで歌手に魅力を感じるのではなく、その人の醸し出す雰囲気や表情、立ち姿や仕草に衣装、そしてそれらに色彩を与える曲のハーモニーなどを総合的に感じ取り、耳以外の器官も駆使して、音楽を全身で受け止めるのです。
逆に言えば、専門的な見地から技術的に完璧な歌であっても、曲が記憶に残らなかったり、パフォーマンスが心に響かない可能性は十分にあり得る。冒頭で紹介した、「歌唱の技術力等は素晴らしいと思うが、全然心に響いてこない」という声は、その一つの真理です。
Adoの歌唱力に関する議論が空虚なのは、こうしたトータルの味わいへの言及がほとんどなされないからです。
翻って、それはAdoという歌手の存在意義を問う事態だとも言えるでしょう。なぜなら、顔や姿形を見せることなく、歌は常にパーフェクトであるというキャラ設定は、感覚の対象を機械的に限定するからです。
佇まいを封印して、歌声という純粋な音だけで勝負しているからこそ、皮肉にも人々はその小さな歯車を技術の面から品評してしまうのです。
もっとも、それが技術や機能としての性能しか評価されない現代社会への批判を意図した仕掛けだとしたら、Adoというシンギングマシーンの狡猾さが際立っているとも言えるのですが、さて。
文/石黒隆之
【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。X: @TakayukiIshigu4
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