1968年メキシコ市五輪で、アジア勢初の表彰台となる銅メダルを獲得したサッカー日本代表のエースで、同大会で7ゴールを挙げ得点王にも輝いたFW釜本邦茂さん(日本サッカー協会元副会長)が10日午前4時4分、肺炎のため、大阪府内の病院で死去したと、Jリーグなどが発表した。81歳だった。
日本が生んだ史上最高のストライカー、「世界の釜本」が旅立った。複数の関係者によると、近年は喉頭がんを患い、抗がん剤治療を続けていたという。背中の筋肉が衰えて車いすを使用するようになり、公の場に姿を見せることは減った。友人たちにも「最近は誰とも会うのはおっくうや」と語り、面会も断っていたという。長嶋茂雄さんが亡くなった6月3日に危篤となり、2か月以上にわたって闘い続けてきたが、この日息を引き取った。午前中に家族とともに、大阪府豊中市内の自宅へと戻った。
日本サッカーの黎明(れいめい)期に、傑出した存在だった。当時は175センチを超えれば大柄と言われた時代に、179センチでパワーとスピードを兼ね備えた規格外の能力を誇った。代名詞だった右足の強烈なシュート、さらに左足、頭でも得点を重ねた。「FWが人にパスを渡すなんて、仕事を放棄しているようなもの」との言葉が示す通り、ゴールに情熱を注いだ。
その名声を一躍高めたのは68年のメキシコ市五輪だ。6試合で7ゴールをマークし得点王を獲得。銅メダルを手にしたメキシコとの3位決定戦(2〇0)では、前半18分にFW杉山隆一のクロスを胸トラップし左足で先制のネットを揺らすと、同39分には右足ミドルを突き刺し追加点。アジアの小国が生んだ点取り屋の存在は世界に衝撃を与えた。
日本サッカーが発展をとげ、選手たちが次々と欧州トップレベルでプレーする時代となっても、釜本さんが残した日本代表76試合75得点はいまだに傑出している。当時は強豪との対戦が少なかった事実もあるが、著書の題名「それでも俺にパスを出せ」という言葉に、その理由がにじむ。ノーマークならパスを出せ、マークが1人でも出せ。2人いたら、それでも俺に出せ―。ストライカーに最も必要な強烈な自信と、得点力の両方を兼ね備えた存在は、日本代表が8大会連続W杯に出場する時代になっても、いまだ現れていない。
引退後はヤンマー、G大阪で監督、日本サッカー協会で副会長や強化推進本部長など要職も務めた。その後は、ご意見番として得点力不足に悩む時代の日本代表に、厳しいエールも送り続けた。
◆釜本 邦茂(かまもと・くにしげ)1944年4月15日、京都市生まれ。山城高、早大を経て67年にヤンマー入り。78年から監督を兼任し84年に引退。19歳で日本代表入りし、国際Aマッチ通算76試合75得点。日本リーグ通算251試合202得点、得点王7回。年間最優秀選手賞7回。91~94年に松下電器(93年からG大阪)監督。95~2001年は参院議員を務めた。日本サッカー協会では副会長、強化推進本部長、常務理事を歴任。現役時代は179センチ、79キロ。