1968年メキシコ市五輪で、アジア勢初の表彰台となる銅メダルを獲得したサッカー日本代表のエースで、同大会で7ゴールを挙げ得点王にも輝いたFW釜本邦茂さん(日本サッカー協会元副会長)が10日午前4時4分、肺炎のため、大阪府内の病院で死去したと、Jリーグなどが発表した。81歳だった。
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釜本さんの訃報(ふほう)を受けて、早大時代の先輩で1968年のメキシコ市五輪でともに銅メダルを獲得した松本育夫さん(83)は「こんなすごい選手は、今後100年たっても出現しない」と悼んだ。
釜本さんは、23年9月に誤嚥(ごえん)性肺炎で体調を崩して入院。今年6月3日に「危篤」に。「あの長嶋(茂雄)さんが亡くなった日。『(釜本さんの)心臓が止まった』と聞いて『ガマ(釜本さんの愛称)よ、お前もか』と思いました。そこからよく頑張ってくれた」と声を落とした。
出会いは松本さんが早大4年の時。当時、4年生が1年生を世話する伝統があり、松本さんが釜本さんの面倒を見た。練習後、2人で必死にシュート練習に取り組むのが日課。その年の関東大学リーグでの法大との開幕戦。釜本さんは5得点の大活躍。鮮烈なストライカー伝説の始まりだった。
「憎めない一面もあった。ある国際試合で前線から全く動かないから、当時の主将だった八重樫茂生さん(古河電工)が『ガマ、守備をせんか』とどなった。すると『先輩、点を取ればいいんでしょう』と笑って言い返していました」
左右どちらでもシュートが打て、ヘディングも強かった。足元に来たボールを軸足のつま先でトラップしてシュートが打ちやすいところにボールを置く。ヘディングはニアサイドの時はキーパーの足元、ファーサイドはGKの頭越しで逆サイドを狙う、という形を持っていた。「ガマを知らない若い子が多いのが残念。存在を知らしめることが残された者の務め」と、松本さんは言葉に力を込めた。(今関 達巳)
◆68年メキシコ市五輪3位決定戦 約10万人の観客が開催国を応援する状況で始まった一戦は前半18分、FW杉山隆一のクロスを胸トラップした釜本が左足でネットを揺らし先制。同39分には、速攻から最後はエースが右足ミドルを突き刺し追加点を奪った。後半、メキシコの猛攻に耐え続けると大観衆は一転、日本コール。ボールがスタンドに飛び込むと、サポーターはボールをピッチに戻さず日本のために時間稼ぎをする場面もあった。試合は2―0で勝利し、初のメダルを獲得。