1968年メキシコ市五輪で、アジア勢初の表彰台となる銅メダルを獲得したサッカー日本代表のエースで、同大会で7ゴールを挙げ得点王にも輝いたFW釜本邦茂さん(日本サッカー協会元副会長)が10日午前4時4分、肺炎のため、大阪府内の病院で死去したと、Jリーグなどが発表した。81歳だった。

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 釜本さんには、記者の仕事を続けるヒントをもらった。入社3年目の2000年。当時、日本サッカー協会副会長の釜本さんが、大阪の自宅に帰った時に直撃するのが、サッカー班の若手だった私の役目だった。日本代表を率いるも成績不振だったフランス人指揮官・トルシエ監督の去就を探るのが狙い。02年日韓W杯まで続投か、解任か。同協会の強化推進本部長も兼ねていた釜本さんはキーマンだったが、若輩記者は“名前負け”して、ビビっていた。

 「続投ですか? 解任ですか?」。最初は恐る恐る質問していたが、釜本さんの回答がいつも明確で、機嫌が良い時は自宅の中に入れてくれたりもしたので、こちらも通ううちに慣れてきた。G大阪の監督を解任されたことがある釜本さんは「この世界は結果が出なければ解任」と監督交代を示唆したり、「本部一致で続投を決めた」と方向転換を明かしたり、最後は「私が本部長を辞める」とまで。トルシエ監督は02年W杯で日本代表を初の16強へ導いた。私は一連の取材で「恐れず懐へ飛び込めば何とかなる」と学習。その後の取材にも役立った。

 釜本さんを最近取材したのは20年1月。銅メダルと得点王に輝いた68年メキシコ市五輪を回顧してもらう企画だった。「ペナルティーエリア内でFWがパスなんて仕事放棄」と“釜本節”全開だ。取材後、妻・修子さんが「また、いらっしゃい」と私とカメラマンを見送ってくれた際、隣で「ホンマにまた来よるで」と豪快に笑っていた姿が印象的だった。まだまだ話を聞きたかった。釜本さん、ありがとうございました。(元サッカー担当・田村 龍一)

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