1968年メキシコ市五輪でアジア勢初の表彰台となる銅メダル獲得に貢献したサッカー日本代表のエースで、同大会で得点王にも輝いたFW釜本邦茂さん(日本サッカー協会元副会長)が10日午前4時4分、肺炎のため大阪府内の病院で死去した。81歳だった。

かねて病気療養中だった。国際Aマッチ75ゴールは日本史上歴代最多。現役時代は日本サッカーリーグ(JSL)のヤンマーでプレーし、引退後はG大阪などで監督を務めた。

 現役時代に日立のFWとして活躍し、得点王争いを繰り広げた釜本さんのライバルの松永章さんが10日、本紙の取材に応じ、コメントした。

 「釜本さんとは早大では入れ替わり(釜本さん卒業後に入学)でした。僕が日立に入った1年目(71年)に釜本さんが2年連続でJSLの得点王になりました。僕が入社2年目の72年には釜本さんと得点王争いして、最終節の国立競技場で相手は三菱でしたけど、僕がゴールを入れて勝って、得点王を獲得。釜本さんの3年連続得点王を阻みました。そこから僕が2年連続で得点王を取ったんですが、3年連続を狙った74年に釜本さんに阻止されました。72年からは4年連続で得点王争いが最終節まで続いて、僕が2回、釜本さんが2回得点王でしたね。とにかく毎年マッチレースでした。特に74年は僕の3年連続得点王がかかっていて、釜本さんが絶対にそれを阻止してやろうと18試合で21得点。

前期(当時は前期、後期制)が終わったときに釜本さんが10得点、僕が9得点。後期に入ってから一時は7点離されたんですが、僕が1試合で6得点したこともあり、追いつきそうになったんですが、18試合で17得点。釜本さんに得点王を奪われました。当時は釜本さんが日本代表にいて、日本代表に行っても試合に使われなかった。僕は杉山(隆一)、釜本には負けないぞって思ってやってたんですけど、釜本さんの存在でずいぶん冷や飯を食ったなと思います。最近、釜本さんが調子が良くないという話を聞いていました。野球界では長嶋茂雄さんが亡くなって、サッカー界では釜本さんが亡くなった。大変な年です。ご冥福をお祈り申し上げます」

 ◆松永 章(まつなが・あきら)1948年8月8日生まれ、77歳。静岡県出身。藤枝東高で戦後初の高校総体、国体、高校選手権の3冠を達成。早大をへて71年に日立製作所に入社。

引退後は早大の監督を務めた。72、73年にJSLの得点王を獲得。JSL1部で176試合出場82得点。国際Aマッチ10試合出場2得点。

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