1968年メキシコ市五輪でアジア勢初の表彰台となる銅メダルを獲得したサッカー日本代表のエースで、同大会で得点王にも輝いたFW釜本邦茂さん(日本サッカー協会元副会長)が10日午前4時4分、肺炎のため大阪府内の病院で死去したと、Jリーグが発表した。81歳だった。

かねてから病気療養中だった。国際Aマッチ75ゴールは日本史上歴代最多。現役時代は日本サッカーリーグ(JSL)のヤンマーでプレーし、引退後はG大阪などで監督を務めた。

 現在J2長崎でアカデミーダイレクターを務める元G大阪FW松波正信氏は、釜本さんのG大阪監督時代(93、94年)に指導を受けたひとりだ。「自分があるのは釜本さんのおかげ。厳しい中にも、本当に愛を注いでもらいました」と当時を振り返った。帝京高時代に全国高校サッカー選手権で得点王に輝き、Jリーグが開幕する93年にG大阪へ。その際には複数クラブからオファーを受けたが、G大阪入りを決断した理由が釜本監督の存在だった。「同じFWですし、釜本監督に教わりたい、というのが理由のひとつでした」と話した。

 日本代表歴代最多75ゴールを挙げた伝説のストライカーからの指導で、印象に残っているのは、やはりシュートの直接指導だった。全体練習後などに、当時は49歳となっていた釜本監督が「どうやればいいか、シュート技術を見せてくれた」という。釜本監督が現役時代、右45度のシュートに絶対的な自信を持っていたのと同じように「この形になれば、絶対そこに蹴る、という形をつくる練習でした。

ここに止めて、そこに蹴れ、と。数ミリでもずらすな、と」。手本で見せてくれたシュートは「本当にうまかった」と回想した。

 高卒1年目から出場機会を与えられた松波氏は、この年7ゴールをマーク。スーパールーキーとして潜在能力の高さを発揮したが、釜本監督からは結果を残せなかった際には「何でそんな簡単なこともできないんや」と厳しい言葉をかけられることもあったという。2年目の94年は4ゴールにとどまり、この年限りで釜本監督は退任。その後も交流は続き「節目にはご自宅にうかがって、相談させていただくこともありました。その時は、いつも親身になっていただきました」と振り返る。松波氏はG大阪一筋でプレーして“ミスターガンバ”と呼ばれるようになり、2005年にG大阪のリーグ初優勝とともに現役を引退。その後はG大阪で監督もつとめ、その際にも釜本さんに相談をする機会があったという。

 恩師の訃報(ふほう)に、「日本サッカー界にとっても、本当に大きな方。寂しいです。

(選手時代は)恩返しができなかった、という思いが大きいです。でも監督は本当に情に深い方。G大阪のことも、ずっと気にかけてくださっていました。いつも成功して欲しい、と思ってくれているんだな、と感じていました」と話した松波氏。釜本さんが監督退任後も、再会した際には「ずっと監督、と呼んでいました」。生涯の“監督”から学んだストライカーとしての極意は、今後も次世代に引き継がれていくはずだ。

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